2009/01/20

SなのかMなのか、それとも森進一か

自分は、S(サディスト)なのかM(マゾヒスト)なのか。
先日、生徒とそんな話をしていて、
「先生は絶対Sだ」
とひとりの女子生徒に言い切られた。
それを聞いたほかの生徒も「ああ、分かるー」と納得の顔だった。
自分がSなのかMなのか。
いままで、あまり深く考えたことがなかった。
生徒たちの、満場一致的な感じからして、
彼ら、彼女らにしてみれば、もれなく「S」に映っているようだ。
「Sなのか、Mなのか、どっちなんだい」
と、なかやまきんにくん風に訊ねられたとしたら。
・・・やっぱり、Sなのかとも思う。
たとえば、何かをして遊ぶとき、
「他人に巻き込まれて楽しむ」タイプと
「他人を巻き込んで楽しむ」タイプとがいる。
間違いなく、自分は後者だ。
たとえ「誘われて」参加するとしても、
「飛び込むのは自分から」という気持ちが常にある。
SとM。
それは、「行動」と「受動」という言葉にも置き換えられる。
「S」は、行動する上で、いつでも主導を握っている。
いわゆる、リーダー的な存在でもある。
ときに主導を委ねたり、泳がせたりもするだろうけれど。
大元の「手綱」はぎゅっと握ったまま、放さない。
組織や集団の中で舵取り(ボランチ)をするのは、そういう気質の人だろう。
集団や組織など、無作為に複数の人々が集まったとしても、
必ず「支配的な人」と「非支配的な人」との住み分けができるという。
最終的に団体を引っぱっていくのは、
「支配的10%」と呼ばれる人たちのベクトルによるものだと。
そんな話を聞いたことがある。
マルコ・ポーロしかり。リビングストンしかり。
無謀な冒険を先導したのは、そんな支配的10%の人々だ。
100人いれば、そのうちの10人。
10人なら、そのなかの1人が、
「支配的な」存在、
もっと言えば「S気質の」人だということだ。
古典の授業で習った故事に、
「鶏口なるとも牛後となるなかれ」
というものがあったが。言い換えると、
「たとえ小さな集団の中だとしても、Mになるよりは、Sでいるほうがマシ」
という解釈もできそうだ。
そうなると、なんか「お山の大将」みたいで、ちょっと嫌だ。
「裸の大将」だと、みんなにも好かれてたのしいのに。
・・・結局のところ、自分はどこにも属していないような。
そんな気がしないでもない。
ここで、クロ(『鉄コン筋クリート』)の言葉を借りようと思う。
「俺は誰にも尻尾は振らないよ」
SとMは、環境がつくるものだと思う。
思うに、ジャンケンのような関係なのかもしれない。
グーは、チョキには勝てるけど、パーには負ける。
グーどうしなら「あいこ」だし、
相手の手を読んで、自分の手を変えることだってできる。
酔うと暴力をふるうような男に尽くす女性が、
必ずしも「M」とは言い切れない。
主導を握って、必ず勝つ。
剣豪、宮本武蔵は『五輪書』の中で繰り返し言っている。
自分に有利になるように、相手にとって不利になるように、
「場」や「状況」を操作することが重要だと。
これは、やくざのシノギと同じ原理だ。
待ち合わせの時間よりも早く着き、
「遅れてきた」相手にプレッシャーをかける。
逆に、約束の時間を大幅に遅れて、しびれを切らす方法もある。
巌流島の武蔵のように。
自分の中にひそむ、SとM。
学生時代、バカみたいに運動ばかりやってきたせいもあり、
自分の限界に挑戦したり、我慢や鍛錬をするのは嫌いじゃない。
そういう「自虐性」は、
自分をいじめたいという「S気質」からくるのか。
それとも、いじめられたいという「M気質」からくるのか。
しばらく考えてみたけれど、答えは出てこなかった。
愛犬の散歩で。
ビニール袋をスタンバイして、
尻から落されるうんこをキャッチしているときの自分は、
どこか「Mっぽい」のかもしれないし。
Sなのか、Mなのか。
よくは分からないけど、
ただ、気ままにやってるだけ。
とか言いつつ。
マルキド・サド侯爵も、おんなじことを言ってたりしたら、
笑うに笑えないけど。
結論は「誰しもみんなSであり、Mである」という感じでいかがでしょう。
SとMとが同居してて、どっちが出てきて仕事をするか。
みんなSM。
そうです、みんな「シンイチ・モリ」なのです。
だからみんなも「おふくろさん」を大切にしましょう。
< 今日の言葉 〜ぼくの考えた成語 >
・ほんのちょっとの段差でつまずいただけでも、崖から落ちるような勢いで絶叫する人(大げさな人のたとえ)
・イスの足を踏んで「あ、すみません」と、思わずイスに謝ってしまう人(生真面目な人のたとえ)
・毎朝、CM撮影のつもりで牛乳を飲む (いつでも気を抜かず、サービス精神が旺盛なようすのたとえ)
・「まだまだパーティはこれからだぜ」 (どんな場面でも、言われたくない言葉のひとつ)

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