S(サディスト)なのか
M(マゾヒスト)なのか。
先日、生徒とそんな話をしていて、
「先生は絶対Sだ」
と、ひとりの女子生徒に
言い切られた。
それを聞いたほかの生徒も
「ああ、分かるー」と納得の顔だった。
自分がSなのかMなのか。
いままで、
あまり深く考えたことがなかった。
生徒たちの、
満場一致的な感じからして、
彼ら、彼女らにしてみれば、
もれなく「S」に映っているようだ。
「Sなのか、Mなのか、
どっちなんだい」
と、なかやまきんにくん風に
訊ねられたとしたら。
・・・やっぱり、
Sなのかとも思う。
たとえば、
何かをして遊ぶとき、
「他人に巻き込まれて楽しむ」タイプと
「他人を巻き込んで楽しむ」タイプとがいる。
間違いなく、自分は後者だ。
たとえ「誘われて」参加するとしても、
「飛び込むのは自分から」
という気持ちが常にある。
SとM。
それは「行動」と「受動」という
言葉にも置き換えられる。
「S」は、行動する上で、
いつでも主導を握っている。
いわゆる、リーダー的な存在でもある。
ときに主導を委ねたり、
泳がせたりもするだろうけれど。
大元の「手綱」は
ぎゅっと握ったまま、放さない。
組織や集団の中で
舵取り(ボランチ)をするのは、
そういう気質の人だろう。
集団や組織など、
無作為に複数の人々が集まったとしても、
必ず「支配的な人」と「非支配的な人」との
住み分けができるという。
最終的に団体を引っぱっていくのは、
「支配的10%」と呼ばれる人たちの
ベクトルによるものだと。
そんな話を聞いたことがある。
マルコ・ポーロしかり。
リビングストンしかり。
無謀な冒険を先導したのは、
そんな支配的10%の人々だ。
100人いれば、そのうちの10人。
10人なら、そのなかの1人が、
「支配的な」存在、
もっと言えば「S気質の」人だということだ。
古典の授業で習った故事に、
「鶏口なるとも牛後となるなかれ」
というものがあったが。
言い換えると、
「たとえ小さな集団の中だとしても、
Mになるよりは、Sでいるほうがまし」
という解釈もできそうだ。
そうなると、
なんか「お山の大将」みたいで、
ちょっと嫌だ。
「裸の大将」だと、
みんなにも好かれてたのしいのに。
・・・結局のところ、
自分はどこにも属していないような。
そんな気がしないでもない。
ここで、
クロ(『鉄コン筋クリート』)の
言葉を借りようと思う。
「俺は誰にも尻尾は振らないよ」
SとMは、
環境がつくるものだと思う。
思うに、
ジャンケンのような
関係なのかもしれない。
グーは、
チョキには勝てるけど、
パーには負ける。
グーどうしなら「あいこ」だし、
相手の手を読んで、
自分の手を変えることだってできる。
いばり散らす男に尽くす女性が、
必ずしも「M」とは言い切れない。
主導を握って、必ず勝つ。
剣豪、宮本武蔵は
『五輪書』の中で繰り返し言っている。
自分に有利になるように、
相手にとって不利になるように、
「場」や「状況」を操作することが重要だと。
これは、やくざのシノギと同じ原理だ。
待ち合わせの時間よりも早く着き、
「遅れてきた」相手にプレッシャーをかける。
逆に、
巌流島の武蔵のように、
約束の時間を大幅に遅れて、
しびれを切らす方法もある。
自分の中にひそむ、
SとM。
学生時代、
バカみたいに運動ばかりやってきたせいもあり、
自分の限界に挑戦したり、
我慢や鍛錬をするのは嫌いじゃない。
そういう「自虐性」は、
自分をいじめたいという「S気質」からくるのか。
それとも、いじめられたいという
「M気質」からくるのか。
しばらく考えてみたけれど、
答えは出てこなかった。
愛犬の散歩で。
ビニール袋をスタンバイして、
尻から落されるうんこを
キャッチしているときの自分は、
どこか「Mっぽい」のかもしれないし。
Sなのか、Mなのか。
よくは分からないけど、
ただ、気ままにやってるだけ。
とか言いつつ。
マルキド・サド侯爵も、
おんなじことを言ってたりしたら、
笑うに笑えないけど。
結論は、
「誰しもみんな
Sであり、Mである」
という感じでいかがでしょう。
SとMとが同居してて、
どっちが出てきて仕事をするか。
みんなSM。
そうです、
みんな「シンイチ・モリ」なのです。
だからみんなも
「おふくろさん」を
大切にしましょう。
< 今日の言葉 〜ぼくの考えた成語〜 >
・ほんのちょっとの段差でつまずいただけでも、崖から落ちるような勢いで絶叫する人
(大げさな人のたとえ)
・イスの足を踏んで「あ、すみません」と、思わずイスに謝ってしまう人
(生真面目な人のたとえ)
・毎朝、CM撮影のつもりで牛乳を飲む
(いつでも気を抜かず、サービス精神が旺盛なようすのたとえ)
・「まだまだパーティはこれからだぜ」
(どんな場面でも、言われたくない言葉のひとつ)