2024/10/01

背中が見えない

『戦士の背中』(2016)




「どうしてあんなふうに

 するんだろう」


「こうやったほうが、

 ずっといいのに」


かつてこんなことを、よく思った。

今でも少しは思う。

けれどもそれは、

疑問というより、好奇心だ。


そうやらないのには、

理由があるから。

それぞれの、事情があるから。


「あの人ばかだなぁ」


と、思ったとき。


自分の背中には、

おなじ言葉が貼られている。


自分がばかだと気づくこと。

ばかな自分に気づくこと。


いろいろな景色や風景を見て、

たくさんの場面で感じ、

さまざま見方、感じ方と

対面してきたつもりでいたけれど。


なかなか、

自分の背中は見えにくい。


わかったつもりでいても、

すべてがわかることはない。



* *



シマウマが、キリンを見て思う。


「どうしてわざわざ、

 あんなに首を長く伸ばしてまで、

 高いところの草を食べるんだろう」


水牛が、魚を見て思う。


「息もできない水の中で、

 さぞ苦しかろうに」


鳥が、地上の動物たちを、

大空から見下ろす。


「地面をはって

 かけまわるなんて、

 なんて大変なことだろう」


こうして考えてみると、

自分の愚行がはっきりわかる。


鳥の目、魚の目、人間の目。


広い世界を見てきたようで、

見ている世界は一元的だ。


価値観のせまさと、

偏ったものの考え方は

知識や知見の量ではない。


「どうしてあんなふうに

 するんだろう」


これが「自己中心的」な、

ものの見方だと気づくのに、

ずいぶん時間がかかった。


ただ単に気づいただけで、

まだまだそれ以上のことはない。


「おまえがばかだ」


「おまえこそおかしい」


自分の愚かさに

気づかせてくれた背中を

ありがたく思う。


人の「あら」を指摘するより、

自分のまちがいを正したほうが

すがすがしい。


自分以外に変化を求めるのは、

快適さを手に入れるため、

自分以外のものに

荷物を押しつけることかもしれない。


それなら、

自分が変化したほうが、

はるかに「得」だ。


空を飛ぼうと、

水の中を泳ごうと、

その人がしあわせなら、

それが一番しあわせなこと。


これまで、

共感することや

交換することが

相互理解だと思っていた。


価値観を交換して、

おたがい切磋琢磨したり、

よき刺激を与えあうことが

いい関係だと思っていた。


はい、いいえ、と。

素直に言うことが、

正直さだと思っていた。


肯定こそが、最大の理解。


ちがうかっらこそ、

おもしろい。


肯定的だと思っていた自分も、

否定されてみて初めて

わかったことがある。


強烈な自己肯定は、

他者の否定と表裏一体だ。


肯定は肯定を生むが、

否定の上に、肯定は育たない。

いくら種をまいても、

否定の土に、肯定は実らない。


自己肯定のための他者否定。


悪意でも怠慢でもなく、

それは、恐れだ。

変化に対する恐れや不安が、

否定という鎧(よろい)をまとい、

ときにはそれが武器と化す。


成長や変化を好まない人もいる。

そういうことが重荷だったり、

面倒くさいと思う人もいる。


「どうしてやらないんだろう」


「なんでそんなことを

 するんだろう」


そう思い悩んでいた自分は、

まるで自分の背中が

見えていなかった。


知らぬ間に否定していた自分は、

知らぬ間に否定を拾い集めていた。


「大きなお世話だ」


「よけいなおせっかいだ」


「ほっといてくれ」


本当にそのとおりだ。


疑問のベクトルは、

外ではなく、自分に向けて、

自分の糧にする。


大きな岩に向かって、

どいてくれ、と言っても

動きはしない。


水は流れる。

今ここにあった水は、

もう目の前にない。

水を眺める自分がいるだけ。


そこに何を見るのか。

過ぎ去った幻なのか、

今この瞬間の現実か。

水に映る自分の姿か、

それとも、水の清らかさか。


どうしてやらないんだろう。

どうして嘘をつくんだろう。


子どもじみた疑問で

頭をかかえず、

想像力の鏡に背中を映す。


動かない岩を動かそうとするより、

よけたり、のぼったり、

別の道を探したほうがいい。


目的は、

岩を動かすことではなく、

岩をこえることなのだから。


変化を恐れて

じっとするのもつまらないが、

あまりにちがった環境に染まるのも、

枝葉を腐らせてしまうことがある。


渇いた土地で暮らすサボテンが、

潤沢な環境では

息絶えてしまうように。


何がよくて、

何がよくないのか。


人を知る前に、

まず己を知ること。


自分が何者で、

どこへ向かっているのかを。


魚なのか、鳥なのか、

それとも人間なのか、

サボテンなのか。


誰かの背中を追いかけても、

自分の道は見えてこない。


前を見て歩いていれば、

いつか自分の背中が、

見えてくる。


背中は語る。

声なく正直にすべてを語る。


何年も何年も

同じようなことばかり考えながら。


なるほど、

そういうことかと、

最近思った。


こんなおしゃべりばかり

しているようは、

まだまだ背中は、

何も語ってくれない。


結局のところ、

「ま、いいか」

と笑うのであります。



< 今日の言葉 >


Gion Shoja no, ka nay know O toe.
Sho gyo muu joe know, he bicky early.
Sara so ju know hanna no e low.
Joe sha he su e know, coto wally O ala wath.
O go rail mo know more, he sush call as.
Tada, her runo you may no go toe she.
Ta K key mono mo, tu e knee wa hall of bee nu.
He toe any, ka they no ma A no chilly knee on aji.


 上の文章を『Google翻訳(英語)』

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(『サラはハンナの低いところを知っている)