先日、講演をさせていただく機会があった。
大ホールの壇上に立つような講演ではなく、
お店の一郭で開催された、ちょっとした講演会だ。
とはいえ。
やるからには来てもらった人にたのしんでもらえるよう、
そのための「仕込み」はしっかりやった。
たとえ集まってくれたお客さんが、
昆虫とか森の小動物ばかりだったとしても、
たのしかった、と思ってもらえるように心を注いだ。
写真の選定と、話す内容・流れの整理。
講演の準備のおかげで、
これまでの自分の足跡を見直すいい機会にもなった。
計650枚の写真を用意して。
話したいことを、頭のなかでくり返し唱えた。
準備をするなかで、
常滑という土地に滞在した記録をまとめた
『赤い記憶の記録』を読み直して、
当時の気持ちや風景、においや空気などを思い返した。
5年前の記録。
もう、なのか。
それとも、まだ、なのか。
5年という時間の流れは、早いようで近くもあり、
つい昨日のことのように覚えているくせに、
今日まで、ものすごくいろいろなことがあった。
濃ゆい毎日 × 5年。
365×4+366で 1,826日。
1,826×24で 43,824時間。
43,824×60で 2,629,440分。
2,629,440×60で 157,766,400秒。
かつては過ぎ去った時間を「数字」でたしかめるばかりで、
その「密度」を求めようとはしていなかった。
感覚ではなく、実寸的な目盛を
意味なく数えて量っていたのかもしれない。
この5年間。
それまでの5年間よりも、あきらかに濃いと感じる。
その理由はおそらく、
ひとつのものをまっすぐ見据えて、
ひたすら歩みを進めてきたからだろう。
すべてのことが、ひとつの点に集約される。
よけいな要素を省いた分だけ、
単純明快で、純度が高く、濃くなった。
そんな気がする。
・・・むずかちい話はこれくらいにして。
講演会の感想に移りましょう。
ふだんの、展覧会の会場で待つ心境とはまたちがって。
講演会は、仲のいい友人を
自分の家に呼ぶときの気持ちに似ていた。
友だちが来たら、
あれも見せたい、これも見せたい。
あれを話そう、これも話そう。
そんな気持ちだった。
だから、気づくと時間が過ぎ去って、
90分があっという間に経っていた。
何時から話しはじめたのか。
何時に話し終わったのか。
それすらまるで覚えていない。
ときどき時計にちらりと目を向けたものの、
何時何分に終わるのか、
その時刻をすっかり忘れてしまっていた。
話したいことが、次から次へとわき上がってきて。
結果、用意した写真のうち半分以上は、
映写せずに終わった。
けれども、そうなることも「予想」していた。
計画どおりにやろうなどとは
これっぽっちも思っていなかった。
用意した写真も、あくまで「用意」でしかない。
ただ「準備」だけはしっかりやったつもりだ。
たのしんでもらうための、準備。
たのしんでもらうためにも。
先に進むことより、伝えることを優先した。
伝えるためには、言葉も大切だ。
それでも、たのしさを伝えるために、
いくらたのしげな言葉を並べ立てても、
眉間にしわを刻んできちきち話していたら、
それは「たのしさ」とはほど遠い行為になる。
言葉より行動。
用意した話は、
用意したこと以上に伝わらない。
内容はもちろん大切だけれど、
それよりもぼくは、感じてもらいたい。
言葉に気持ちが乗っていれば、
単純で簡単な言葉でもたくさん伝わる。
言葉以上の「何か」が伝わるはずだ。
そんなことを思って話した。
考えるのではなく、そう思って話した。
20代のころ、
年輩の陶芸家の方から聞いた言葉。
「20代の若いのが、いくら深みを出そうとしても、
20代以上の深みは出せん」
また、年老いたファドの歌手は、
人生経験の辛酸がそのまま唄声に出る、と。
そう言っていた。
年齢や年数ではなく、その人が重ねた経験の質量。
ここでもやはり、経験の「濃さ」がものを言う。
人生の酸いも甘いも経験してきた人の言う、
「なるようになる」
は、その言葉が意味する以上に説得力がある。
そして思う。
感覚にまさる「情報」はない、と。
感覚で得られる、生の体験。
言葉や音や映像は、あとで反復できるけれど、
その場でしか感じられない「感じ」は、
やっぱりその場でしか味わうことができない。
体験、体感、実体験。
だからそれを伝えようとするとき、
言葉や空気を大切にしなくてはいけないと思う。
言葉以上に、行間を伝えること。
言葉以上に、感じてもらうこと。
かつて、広告代理店で働いていたとき、
R社の勉強会で聞いた理論。
「ある情報を人に伝達したとき、
100だった情報が70%に減って伝わる。
情報が何かを介してどんどん伝達されていくにつれて、
その情報は、70の70%、70の70%の70%と、
どんどん減って伝わっていく」
その理論の理由はさておき。
なるほど、と思った。
体験談や武勇伝。
鮮度や詳細、臨場感はもちろん、
伝言ゲームがくり返されるにつれて、
その情報の信憑性まで怪しくなる場合がある。
ぼくは思う。
大切なのは「こたえ」よりも「ヒント」。
受け手が自分の解釈を加えて100以上になるよう、
その人の「感性」をくすぐること。
その人の「何か」を刺激する「きっかけ」。
感じてもらうことが、いちばんなのだと。
ぼくは、そう思っている。
それは、絵もしかり。
表現もしかり、だ。
今回の講演で、
果たしてそれが、うまくできたのかどうか。
それはまるで分からないけど。
少なくとも、ぼくはたのしい時間をすごせた。
たのしい時間はあっという間。
たのしかったのが、ぼくひとりだけでないことを祈りつつ。
感じたことを忘れないためにも、こうしてここに書き留めました。
Original Photo: ARIMATSU PORTAL; PROJECT
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言葉にすると、こんな感じに
ややこやしくてまどろっこしくなってしまうけれど。
とにかくぼくは、こんなことを感じました。
お客さまからいただいた、すてきな感想の数々。
『今日は緩やかななかにも
ジーンと刺激を感じた素敵な時間でした』
『わたしも自分が良いと思ったものを
みる人にも伝わるような感じるような
そんな作品がつくれるようにがんばります!』
『「ソウジ」(=整理)で文脈を理解し、
「ソウジ」(=陳列)
何気なしに掃除しているのですが、
『台本のない講演はとても面白いです』
『すごく分かりやすかったです。
さすが先生をやってただけありますね』
『心地よい風に髪がなびいていましたよ』
『楽しく聞かせていただきました。
冗談を交えつつの漫談はとても心地よかったです。
収穫になりました』
『立派な写真漫談でしたよ』
・・・みなさま、おやさしいので、
いいことばかりをおっしゃってくださいます。
ていうか、
漫談じゃあなくて「講演」ですよ。
やっぱり、
どこかで「ちがって」伝わる伝言ゲーム。
たとえそれが講演でも、漫談でも。
たのしいと感じてもらえたのなら、
それはそれでよかった、ということですかね。
こんなことをつらつらと、
言葉で語っているようではまだまだのぼくですが。
今後ともどうぞよろしくお願いいたしまス。
ご来場いただいた方々、ならびに、
こうして記事を読んでくださった方々。
本当にどうもありがとうございます。
言葉以上に感じてもらえるよう、
しっかり書いて、描いていきたいと思っております。
それでは、また☆
当日はレーヨン100%シャツ代表/家原利明
< 今日の言葉 >
「ボロを着てても、
下着だけはいいやつを着とる」
(常滑滞在中、80代のおばちゃんにブラジャーを見せられたときの言葉)