《これまでのあらすじ》
初詣、こんにゃくフライを食べるため
車を走らせた家原は、
凍結したミルクロードでつるんとすべった。
対向車を避け、
法面(のりめん)につっこみ、土手に衝突。
途方にくれる暇もなく、
後続の車から降りてきた
男女ふたりにうながされるまま、
彼らの車で病院へと向かったのであった。
※詳細は
を参照ください。
● ● ●
病院へと向かう車のなかで。
はじめて動揺のような気持ちにゆさぶられた。
出血がひどいわけでもなく、
友人自身「大丈夫」とは言っているものの。
とにかく、友人のけがが心配だった。
真っ暗な病院。
夜間緊急用の入口から入って
まず目についたのは、
「花の自動販売機」だった。
いくぶん旧式な感じで、
おかしやパンなどの自動販売機のように、
商品である「花」がくるくると回っている。
冷蔵室のようなガラスケース内で回る花には、
番号と値段がつけられている。
お金を入れて、番号を押すと、
扉のロックがはずれて、
なかの花が取り出せる仕組みらしい。
花の自動販売機なんて、
いままで一度も見たことがなかった。
さすが緊急病棟・・・と。
のんきにそう思ったのではなく、
緊張で尖った神経が
周囲への洞察を鋭くした結果だった。
花の自動販売機が目に映ったのは、
ほんの1、2秒のことでしかない。
ぼくらをここまで運んできてくれた
彼らの背中を追うようにして、
階段を上がり、2階へと向かう。
ここまで、当事者であるはずのぼくらは、
ほとんど何もしていない。
病院に連絡を入れてくれたのも、
ここまで運んでくれたのも、
受付の場所まで案内してくれたのも、
ぜんぶ、彼らだ。
なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく、
ごくあたりまえのことのように。
彼らは、ぼくらのために、
現場からここまで運んできてくれただけでなく、
すぐ診てもらえるように、段取りしてくれていた。
たまたま後ろを走っていただけなのに。
彼らは、ぼくら以上にけんめいに、
迅速にことを進めてくれたのだ。
2階受付。
夜間の窓口には、
アメリカのアニメに出てきそうな感じの、
ずいぶんふくよかな男性が座っていた。
「今日はどうしましたか?」
ゆったりとおだやかな問いかけに、
ぼくらを助けてくれたふたりが、
「さきほど連絡を入れたものですが」
と、説明してくれた。
「事故ですね。
それじゃあ、これに記入してください」
用紙を渡されたぼくらは、
言われるままに記入していった。
病院の廊下の、蛍光灯の下で。
初めておたがいの顔を見たぼくらと彼ら。
おそらくぼくらよりも歳下だろうが。
男性も、女性も、
ふたりともすごくしっかりした印象だった。
ぼくらを見た彼らはどう思ったのか。
受付の男性に生年月日を聞かれ、
ぼくらの答えに一瞬、
「えっ?」という表情を浮かべたような。
しっかりした彼らふたりと、
ぜんぜんしっかりしていない、ぼくらふたり。
その、あまりの「しっかりぶり」に、
病院関係か、それとも何か、
専門的な職業に
就いているのではないかと思ったぼくは、
男性に聞いてみた。
「お仕事は、何されてるんですか?」
「ごくふつうの、会社員です」
男性は、謙遜するような感じで言った。
本当に。
ぼくには彼らが、
まぶしいくらい立派に見えた。
もし、自分が同じ立場だったら。
自分も彼らと同じような行動に出たかどうか。
正直、何とも言えない。
そして彼らは、
いまやぼくらの付き添い人となって、
診療が終わるのを待ってくれているようだった。
まだまだ時間がかかりそうだったので、
心配げに付き添ってくれている彼らに言った。
「こんなところで
新年を迎えてもらったら申し訳ないんで。
ぼくらの分まで、初詣してきてください」
友人とともに、
ここまでの親切に対して厚くお礼を述べて。
男性に、住所と名前と連絡先を聞いた。
かけがえのない親切に対して、
うまくお礼が伝えられたかどうかは自信がないが。
とにかく、感謝の気持ちでいっぱいだった。
先ほどの、病院までの道のりで、
正直、ちょっとだけ泣きそうになった。
どうしてこんなに親切な人がいるんだろう。
そう思って胸がいっぱいになった。
彼らに重ね重ねお礼を言って、見送る。
連絡先を見ると、
電話番号が書かれていなかった。
あわてて追いかけて、電話番号を聞いた。
「ぼくらの代わりに、
こんにゃくフライを食べてきてください」
などと、よく分からないことを言いながら。
今度こそ初詣へと向かう彼らの背中を見送った。
聞き直したはずの連絡先だったが。
名前が、名字しか書かれていないことに
遅れて気がついた。
● ● ● ●
受付に、記入を済ませた用紙を出し、
イスに座って呼ばれるのを待つ。
ふくよかな受付男性は、
ペットボトルを逆さにして、
カチカチに凍ったミルクティを飲んでいた。
彼には、冬とか病院とか、
そういったことは関係ないらしかった。
男性の、
夏休みの少年のような姿に心なごみつつ。
しばらくして、
診療カードを渡されたぼくらは、
診療室の待合へと移動した。
がらんとした待合室には、
マンガや雑誌が置かれていて、
誰かが読んだまま放置したマンガが数冊あった。
スピーカーから、
友人の名を呼ぶ声が聞こえた。
おでこの出血も固まりつつあったが。
きちんと診てもらうまでは安心できない。
「それじゃあ」
という感じで、友人が診療室へと向かう。
友人が診療室に消えてしばらくすると、
ぼくの名前が呼ばれた。
呼ばれたのは、
友人が入ったのと同じ診療室だった。
同乗者ということで、
いっしょに診るとのことだった。
ERの男性医師は、
素足にクロックスを履いて、
緑色の作業衣の上に白衣を羽織った、
ラフないでたちだった。
胸元からは、
胸毛を剃毛(ていもう)した素肌が
ちらりとのぞく。
年齢は、ぼくらよりも若そうだった。
まずは状況を説明して、
医師に聞かれるまま、問診に答えていく。
医師は、キーボードを叩きながら、
パソコン上のカルテに入力していく。
ぼくは、さして痛いところもなかった。
友人は、ぼくの頭とぶつかった額の傷のほかに、
右太ももと、左胸の肋骨あたりが
痛いことを伝えた。
額や太ももは打撲のようだが。
左胸は「息を吸うと痛い」ということなので、
骨折していないかが心配された。
カーテンごし、
となりの診療室からは、
子どもの泣き声が聞こえてくる。
ひどく泣いている子どもの声に。
年末のこの時期に大変だな、と、
自分のことを棚に上げて、
その子どものことを思った。
何か、大けがでもしたのだろうか。
数人の看護婦さんらしき声と、
男性の、医師の声。
泣き叫ぶ子どもの声。
数人がかりで「処置」をしているようだが。
どんな「けが」なのか、声だけでは分からなかった。
カーテンのすぐ裏手。
ひとりの看護婦の声が聞こえた。
「浣腸、まだ使う?」
「あ、うん。まだ使うと思うから」
別の看護婦の声が答える。
詳しいことは、よく分からないけれど。
「浣腸」と聞いて、少しばかりほっとした。
もちろん、当人にとっては
深刻きわまりないことなのだろうが。
「大けが」ではなさそうだった。
ぼくの勝手な考えでは、
「うんこがつまった小さな子どもが、
うんこが出ないことで
つらくて泣いているの図」
が頭に浮かんで、
少しばかり、ほほ笑ましくも思った。
さて。
医師が問診と触診をもとに、
カルテを書いていくさなか。
カーテンごしに、
「おめでとうございます」
と交わされる声がいくつも聞こえた。
ハッピーニューイヤー。
どうやらぼくらは、
新年をERで迎えてしまったらしい。
2010から2011へ。
そしてぼくらは、
診療室からレントゲン室へと移動した。
ナースルームは、引き継ぎのためか、
看護士さんと看護婦さん、
医師の姿がたくさん見られた。
にこやかに新年のあいさつを交わしたあと、
まじめな顔つきに戻って、
業務の申送りをする看護士さんたち。
レントゲンの順番待ちをするぼくは、
ひとり、そのようすを見ていた。
なんだかテレビか映画を観ているような。
そんな、現実感のない、
非日常的な感覚だった。
現場からこちらに向かうとき。
なぜか車のなかから、
たくさんの荷物といっしょに
「スペース・ニードル」の置物を
持ってきていた。
スペース・ニードル。
シアトルにあるタワーのことで、
ブルース・リーがのちの奥さん、
リンダ・エメリーと
初デートした場所としても知られている。
このスペース・ニードルの置物は、
シアトルに行ったとき、
タワーの下のお土産売場で買った。
その置物の底にマグネットを貼りつけて、
車のなかにくっつけてあったものだ。
冷静な頭で、あわててカバンに入れた、
スペース・ニードルの置物。
その意味することろは分からないけれど、
とにかくぼくは、
「持っていかなくちゃ」
と思ってカバンに入れた。
いまにして思えば、
やはり、冷静ではなかったようだ。
友人がレントゲン室から出てきて、
ぼくの順番になった。
レントゲン技師は、初老の男性で、
ずいぶんのんびりとしていて、
ものごしのやわらかな人だった。
「はい、それじゃあ、
息を止めてくださいねー」
と、ゆっくり言うので、
どこで止めたらいいのか、
タイミングがむずかしかった。
ぼくは、念のため
頸椎(けいつい)の写真を撮った。
レントゲン撮影が終わって。
再び診療室に通されて、
医師の説明とともにレントゲン写真を見ていく。
「大きな損傷はないみたいですね。
あとは経過観察ということで
大丈夫だと思います」
ぼくも、友人も。
現状、緊急処置の必要なけがではなく、
後遺症の残るようなけがはないとの診断で、
まずは48時間、ようすを見るように
ということだった。
「お大事にしてください」
医師からの言葉を受けて、
ようやくほっと胸をなで下ろした。
会計のとき。
その金額を聞いてびっくりした。
ぼくは数千円で済んだのだけれど。
友人のほうは、8万円近い金額だった。
それが一般的なことなのか、
それとも当院だけに限ったことなのか、
それは分からないけれど。
「事故」ということで、
通常請求額の200%(2倍)になり、
さらには、今回、自費で計算してもらったため、
8万円近い会計になったのだ。
もし、健康保険で支払うなら、
8万円の半分の、3割(国保)になるそうだが。
なんだかよく分からないことが多すぎたので、
とりあえず友人分の支払いは
「保留」にしてもらった。
額にガーゼを貼られた友人と、
外用薬をもらうために、
「おくすり券」を持って窓口へ向かう。
「おくすり券」の引き換え番号は「No.2」。
ぼくらの座るその横に、
おじさんと若い女性が座っていた。
「おくすり番号、1番さん、2番さん」
となりに座った女性が顔を上げる。
おくすり番号1番の患者さんは、
インド系の若い女性だった。
ゆっくりと話す看護婦さん説明に、
つたない日本語で
「ハイ、ワカリマス」と答える彼女。
その横でおくすりを待つ、
額にガーゼを貼った友人と、
荷物をいっぱい抱えたぼく。
その場にそぐわない派手な格好と、
たくさんの手荷物。
その姿はまるで、
田舎から出てきた異邦人のようだった。
けがの治療はひとまず終わった。
「人」の次は、「車」だった。
● ● ● ● ●
新年を迎えて、1時間ほどが経った。
ロードサービスの車は、
まだきそうにない。
連絡が入るまでのあいだ、
ファミリーレストランで
時間をつぶすことにした。
寒空のなか、
いたずらに体力を消耗してもいけないので。
病院からほど近いファミリーレストランで、
暖をとりながら連絡を待つ。
新年のファミリーレストランは、
初詣帰りの人のせいか、
深夜だというのに
かなりのお客でにぎわっていた。
まるで学食のようなにぎわいに、
カーゼを貼った友人とふたり、
喫煙席に落ち着いた。
腹は減っていたけれど、
それほど食欲があるわけでもない。
それでも、
食べておかないと体力がもたなくなる。
ぼくらは山盛りポテトやらギョーザなど、
1品ものをばらばらと頼んで、
温かいコーヒーでひと息着いた。
友人とふたり。
ここまでのことを話し合った。
凍結したミルクロードで、
スリップしたことは事実だったが。
もし、あのとき、
ライトのまぶしい後続車を
やりすごしていなかったら、
はたしてどうなっていたのか。
もし、やりすごしていなかったら、
間合いのつまっていた4台の車が、
次々とぶつかっていたかもしれない。
もし、あの場所が
上り坂じゃなくて下り坂だったら。
もし、左側の土手が、
土手じゃなくて「崖」だったりしたら。
凍結した路面でくるくる回った車が、
前向きでなく、後ろ向きに停まっていたら。
路肩ではなく、
道の真ん中で停まっていたりしたら。
あのとき、ぼくはやむを得ず
ハンドルを左に切った。
ハンドルを左に切っていたせいで、
土手にぶつかったあと、
弧を描いて左後方へと車が後退した。
そのおかげで、
道路にはみ出すことなく
車が路肩に留まった。
いろいろな「まちがい」があって、
すべったことも、
ぶつかったことも事実だけれど。
いくつもの「もし」が
また別のほうに向いていたら、
もっとたくさんの「まちがい」が
起こっていたかもしれない。
馬鹿なぼくらは、
自分たちの「幸運」に感謝した。
ぼくらを守ってくれた何者かに、
ぼくらはお礼を伝えたかった。
暖かな室内と温かなコーヒー。
そのあたたかさが、
ぼくらにひとときの休息をもたらした。
注文した山盛りポテトフライが
想像以上に山盛りで、
「フジヤマ級」というキャッチコピーが
大げさな表現ではなかったことも。
そのときぼくらには、
ちょっとした朗報のように感じた。
● ● ● ● ● ●
午前2時30分ごろ、
ロードサービスから連絡が入った。
こんなとき、携帯電話は便利だと思う。
いまだに携帯電話を持たないぼくは、
友人の携帯を手に、
携帯を持っている友人に感謝する。
電話のかけ方も、通話の切り方も分からないので、
そのつど友人のもとに駆け寄る必要があったが。
とにかく、ロードサービスの車がくるとのことだ。
ロードサービスの車が、
ここ(ファミリーレストラン)の前を
通るものだと思っていたのだが。
逆方向から来るらしく、
同乗しようという目算が消えてしまった。
ロードサービスの積載車に事故車を積むときには、
本人がその場に立ち会う必要があるとのことで。
何にせよ、現場まで自力で戻らないといけない。
ファミリーレストランの人に、
タクシー会社の番号を聞いて。
タクシーを1台手配して、待つこと15分。
店の外にタクシーがやってきた。
現場に向かう車中、
タクシーの運転手さんが教えてくれた。
「凍結してたら、ぜったいに
ブレーキを踏んだらダメですよ。
ハンドルも切らず、アクセルも踏まずに、
そのままゆっくり走らないとダメですよ」
初めて聞いた話じゃなかったけれど。
タクシーの運転手さんの
「親心」のようなものを感じ、
うれしく思った。
病院まで乗せてもらっていたときには
気づかなかったが。
タクシーで現場に戻ってみて、
けっこうな距離があったことを知った。
あらためて、助けてくれた二人に感謝した。
現場には、
すでにロードサービスの
積載車が到着していた。
青い光が煌煌(こうこう)と連なるその車は、
なんだかえらく宇宙的に見えた。
「派手にやったねえ」
と、笑みを浮かべる
ロードサービスのおじさん。
笑いまじりの軽い感じの切り口が、
そのときのぼくらには心地よかった。
フロント部分が大破した、ぼくの車。
痛々しかった。
見ると、右後ろ部分もがっつりへこんでいた。
現場を去るときにはなかったような。
それを見て、
ロードサービスのおじさんが言った。
「当てられとるね、これ」
言うとおり。
もしかすると、病院へ行っているあいだに、
誰かがぶつかったのかもしれない。
路肩とはいえ、
凍結道路に車を置いていたのは、
ぼくの責任だから。
ぶつけられたことはしかたがない。
それよりも、
ぶつかった車が心配だった。
ふと見ると、
対向車側の路肩にも、
車が1台、スリップしていた。
その車は、土手に突っ込むような形で、
車体が少し浮いていた。
もしや、とも思ったが。
ぼくの車に当たったのは、
角度的に見て、その車ではなさそうだった。
車を積み終わり、同乗する。
おじさんの車は、
シフトレバーも青いクリスタル調で、
車内をぼんやり青く照らしている。
そのせいもあってか、
真っ暗な夜道を走るその車が、
宇宙船のように感じられた。
ふりかえると、
傷だらけのぼくの車が、こちらを見ている。
直るのか、それとも無理なのか。
ロードサービスの車で、
ひとまず安全な場所に車を移動しようと
思っていたのだけれど。
これからどうしたらいいのか迷っているぼくに、
おじさんは、帰りついでに自宅であずかって
あげてもいいと申し出てくれた。
そこからは電車で帰って、
後日また取りにこればいいと。
一見、ぞんざいで、
荒っぽい感じにも見えるおじさん。
けれど、
見ず知らずのぼくらのために、
そんなふうに言ってくれた。
おじさんの申し出をありがたく思いつつも、
ぼくらは最寄りの市街地へ向かうことにした。
その圏内で車を停められそうな場所を探した。
(そのときは無知で、300キロ圏内の
レッカーが可能だということを知らずにいた)
カラオケ屋さんの駐車場。
路地裏の、第2駐車場なら、
比較的じゃまにはならないだろうと。
そこで車を降ろしてもらった。
「カラオケ唄ってたら、
朝なんてすぐくるからね」
おじさんは、そう言って笑いながら、
手を挙げて去っていった。
「ちょっと、一服していっていいかな」
そういってぼくは、車のなかを指差した。
友人とふたり、
冷え冷えとした車のなかに座る。
ゆっくりと煙草を吹かしていると、
ぼくの頭に、いろいろな不安がこぼれ出た。
疲れや寒さもあって、
一瞬、弱気になりかけた。
それに気づいたのか、友人が口を開いた。
「車、直るといいね」
「そうだね」と返すぼく。
「やっぱりこの車が、いいもんね」
ゆっくりと、車のなかを眺める友人の視線に。
ぼくの迷いがすうっと消えた。
一生乗ろうと決めて選んだこの車。
人がどう言おうと、ぼくは乗り続ける。
できるかぎり、乗り続ける。
カラオケ屋さんの店内に入って、
受付の女性に事情を話す。
受付の女性は、
まるで3つ星ホテルの受付のような物腰で、
快く事情を理解してくれた。
そのうえ、
タクシーの電話番号を教えてくれて、
さらにはここから最寄りの駅までの行き方と
所要時間をていねいに教えてくれた。
最後に彼女は、こう言った。
「すみません。何のお役にも立てずに」
柔和な顔で頭を下げる彼女に、
ぼくはまたしても心打たれてしまった。
なんていい人たちばかりなんだろう。
こんなぼくなんかに、
どうしてみんな、やさしくしてくれるんだろう。
「本当に、ありがとうございます」
彼女にお礼を言って、
ぼくらはカラオケ屋さんをあとにした。
駅までは、
歩いて15分くらいの距離だった。
駅ホームの待合室には、
新年ムードの人たちがたくさんいた。
ここからは少し、余談になるけれど。
リュックサックに破魔矢(はまや)を刺した男性が、
待合室に入るぼくらに、
「どうも、おめでとうございます」
と声をかけてきた。
「あ、おめでとうございます」
ぼくはその人にあいさつを返した。
その人は、誰に話すでもなく、
大きな声で「ひとりごと」を言いはじめた。
待合室に、男2人女1人の、
若い3人組が入ってきた。
うちひとりの男性は、
やや酔っぱらっているようすで、
陽気な感じであれこれ話している。
「浜崎あゆみ、結婚だって。
けどさぁ。無理じゃねーの、やっぱ」
そう切り出した酔っぱらい男性に、
破魔矢の男性が口をはさんだ。
「え、どうして無理なの?」
「だって、浜崎あゆみですよ?
結婚生活なんて。家事とかそんなの、
考えられないでしょ」
酔っぱらい男性は、
ごく親しい感じで言葉を返した。
「どうして?」
破魔矢の男性の問いかけには
明確な返事は返らなかったが。
ぼくらは『浜崎あゆみ結婚』というニュースを、
彼らのおかげで知ることになった。
破魔矢の男性が席を立ち、
ひとつ伸びをした。
その流れで「さりげなく」リュックを手に抱くと、
「はーぁ、寒い寒い」
などとつぶやきながら、
席を詰めて酔っぱらい男性の横に座った。
そして、いつのまにか、
彼ら3人組のなかまに入っていた。
「看板っていうか。
浜崎あゆみがエイベックスを
背負ってるっていうか、
食わせてるっていうか・・・」
いかにも親しげに
会話に入ってきた破魔矢の男性に。
酔っぱらい男性以外の2人は、
困惑しているようすだった。
酔っぱらい男性は、
ほぼ空になったコーンポタージュの缶を
口もとに当てて、
とんとんと缶底を叩くと、
飽きたように手もとの荷物置き台に
その缶を置いた。
破魔矢の男性の手が、
あやまってその缶をコン、とはじいた、
次の瞬間。
酔っぱらい男性が缶をむんずとつかみ、
手もとの荷物置き台の上に、
「カン!」
と、力づよく置き直した。
その音にびくっとなった破魔矢の男性は、
先と同じような感じで、
「あー寒い寒い」
と、つぶやきながら、
もといた席へと戻っていった。
待合室のなかを流れる、
何ともいえない、苦い空気。
ほどなくして電車が
ホームにすべりこんできた。
みなそれぞれが、待合室から出て、
それぞれの車両に乗り込んだ。
缶っていうのは、
本当に「カン」っていうんだなと。
そんなことを思いながら、
ぼくらも電車に乗り込んだ。
電車を乗り継ぎ、家路へ向かう。
2011年1月1日。
元旦。
東の空が明るみはじめ、
紺色の空が温かな色に染まっていく。
最寄りの駅に着いたころ。
工事中の高架のすきまから、
まん丸い太陽の姿が見えた。
初日の出だ。
いつもは寝ていて
見ることのない初日の出。
何年ぶりかに見た初日の出は、
ありがたいほどまぶしくて、
力づよくて壮麗な、金色だった。
金色の初日が、
街を、道路を、ぼくらを、
金色に染め上げる。
本日も晴天なり。
数日にも感じられるような。
そんな密度の濃い時間をすごした
年明けだった。
(次回へつづく かも)
< 今日の言葉 >
寒い冬の朝、カチカチになったボトル入りのハチミツをしぼり出そうとして、
思わずおならが出てしまったことのある方、スイッチオン。
(イエハラノーツ2011新年号より)