*
20代の頃。
ディスプレイの仕事をしていて、
現場で、フリークライミングの
壁面と顔を会わせた。
大きなホールの、
高い天井にまでそびえる、
巨大な壁面。
カラフルな
ストーンチョコみたいなブロックが
いくつもボルトで固定されていた。
上にあがると、
ひらがなの「て」みたいに
反り返った傾斜にが待ち構えている。
映像か何かで、一度くらい、
目にしたことはあったけれど。
当時はまだ、
日本に上陸したばかり、
というような代物で、
初めて目の当たりにしたぼくは、
いてもたってもいられず、
仕事の合間——あるいは仕事中か、
おもむろに
その「壁面」をのぼりはじめた。
何も考えず、
カラフルなブロックを見すえて、
次はそれ、その次はあれかと、
一挙手一投足、
右手左手、右足左足を動かし、
手がかり、足がかりとなりそうな
場所を選びながら、
どんどん上へ上へとのぼっていった。
視線は目の前のブロックと、
先につながる景色しか見ていなかった。
ちょうど、
ひらがなの「て」の部分にあたる
反り返った箇所へ差しかかったころ。
「何やってるの!」
不意に足元から声がした。
一緒に現場入りした、
営業の女性の声だった。
「危ないから、早く降りて!」
声に振り返ると、
自分がえらく高い場所に
いることに気づいた。
次の一手を
考えあぐねていたぼくの足は、
にわかにぶるっと震えだした。
反り返った壁面は、
これ以上、進めそうにはない。
引き返そうにも、
思った以上、高くのぼっていた。
ぼくは、
一歩一歩、一手一手、慎重に、
まるで尻込みするかのような挙動で、
地上に向かってくだっていった。
のぼるよりも、
くだるほうが怖かった。
何度も足を滑らせそうになりながら、
一歩一歩、地上が近づいてくる。
地面があと
3、4メートルほどにまで迫った時。
思い切って、飛び降りた。
その時、営業女性の、
悲鳴のような声を聞いた。
地面には
柔らかなマットが敷かれていた。
まだ仮の状態で敷かれたマットは
それほど分厚くはなく、
かといって、地面ほどは難くない。
そんなマットに「着地」したぼくは、
電気みたいに走る痛みを、
じいいんと足首に感じながら、
同時に、ほっと安堵の吐息をついた。
そしてすぐに、営業の女性の、
心配とも安堵とも
怒りともつかない声を、
全身に浴びた。
「落ちたらどうするの!
命綱なしでのぼるものじゃ
ないんだから!」
まったくその通りだった。
ぼくは、
何もわからず、何も考えず、
ただただのぼっていた。
好奇心なのか、何なのか。
何も考えずにぼくは、
ただ、のぼっていた。
* *
たいしてやったこともないものを
喩えに挙げるのも恐縮ですが。
生きていると、
まさしくロッククライミングや、
フリークライミングのように感じる
瞬間がある。
おそらく言い尽くされたほどの
喩え話だろうけれど。
それでも実際、
そう感じる場面がある。
次の一手は、どこに置こうか。
どこに運んで、どう進むべきか。
新たな障害に突き当たり、
考えあぐね、戸惑う場面で。
頭に浮かぶのは、
切り立った壁面の、
岩場のような風景だったりする。
高い場所へ、
山登りのようにしてのぼる人もいる。
ハーケンを打ち込み、
ザイルを張って、はしごにしたり、
こつこつ岩を削りながら、
階段をつくってしまう人も
いるかもしれない。
王様みたいに、人を動かして、
なだらかな回廊やエレベーターなどを
つくる人だっていよう。
そういった中の、ひとつ。
ロッククライミング、
または、
フリークライミングという方法。
方法というより、
道、というほうがふさわしいのか。
人生の途上、
険しく切り立った「壁」に、
ふと、クライマーの気持ちになって思う。
はて次は、
どの岩に取りすがるべきか、と。
どうにも行き詰まった時。
もしもお酒を好む人は、
お酒という「岩」に手をかけてもいい。
買い物やギャンブルで気持ちが晴れるなら、
その「でっぱり」に足をかけるのもいい。
前に進めるのであれば、
上にのぼれるのであれば、それでいい。
どれだけそこにいようと構わないが。
すこに居座ってしまっていては、
のぼることはできない。
ほんのいっとき、
その岩の「でっぱり」に、
手をかけ足を休ませて、
再びまたのぼっていける
「一手」になるのであれば、
それもいい。
気力体力がもつのであれば、
一心不乱にのぼるもいい。
脇目も振らず、
寝る間も惜しんで、
ひたすらのぼっていってもいい。
かつての自分は、
そんな感じだった。
景色にすら目を向けず、
ただがむしゃらに、
目の前のでっぱりだけを
じっと見つめて、
休まず素早く
のぼっていた気がする。
技術などはない。
あるのは瞬発力と体力だけ。
命綱もつけず、
落ちることも厭わず——
そう。
怖れることなく、
落ちても別に構わない、といった心根で、
勇猛果敢というより、
ただただ無鉄砲な馬鹿だった。
まさに力業。
足場が崩れたとしても、
岩もろとも落ちる前に、
ほかの岩へと飛び移る。
三点支持、などということも考えず。
離れ業を駆使したこともあっただろう。
とにかく何も考えていなかった。
命が惜しいわけでは
なかったと思うが。
自分が落ちることなど、
一瞬たりとも考えたことがなかった。
それは、
落ちたことがなかったからだ。
さいわい、というのか。
それとも、災難というのか。
落ちることで初めて、
落ちる、ということを知る。
それで「終わって」しまわなければ、
落ちるということを、体感できる。
本当に落ちるんだ。
痛い。苦しい。
死ぬかと思った。
恐怖や不安も、覚えるかもしれない。
経験は、学習だ。
その学習を、どう活かすか。
前向きに生かすのか、
それとも後ろ向きに使うのか。
おそらく何度か
落下したであろうぼくは、
考えるようになった。
手足を動かす前に、
切り立った壁面をじっと見つめ、
次の一手に最良な、
いちばんふさわしい「岩」を
探すようになった。
最初は目や頭で探していたが。
今では心で探すようになった。
行動に移ったり、
声に出して訴えたりする前に。
自分の中で、静かに自問自答する時間。
もう少し賢ければ、
命綱をつける、という
選択肢もあるだろうが。
ぼくはいつでも、全力でいきたい。
落ちた時には、全力で痛くて、
全力で苦しむだろうけれど。
のぼりきった時には、
全力で嬉しいから。
ぼくは、ハーネスなしで、
岩場をのぼる。
それでも。
——いや、それだからこそ。
無理や無茶は、しない。
しなくなった。
下まで落ちたら「終わり」だから。
たとえ命がけでも、
命をかけるような真似はしない。
やり直しのきかない緊張感の中で。
嘘も偽りもごまかしもなく、
真剣勝負で壁をのぼっていくこと。
そこにあるのは、
ただの自己満足かもしれない。
それでもやっぱり、
命綱は、つけたくない。
落ちないという約束の中での冒険よりも、
落ちたら終わりという中で味わう景色が見たい。
だからこそ、
一挙手一投足が大切で、
とても愛おしくなる。
真剣っていうものは、
竹光じゃあない。
切れ味鋭い刀だからこそ、
真剣なんです。
かつての自分は、
死ぬことが怖いと思わなかった。
それはおそらく、
死が遠くにあったからだ。
身近な人の死を経験したり、
間近に死を味わったり。
死というもののリアリティが
頭ではなく、
経験として感じられたせいもある。
死にたくないと思える理由が
明確にできたせいもある。
恐怖は、悪い感情ではない。
かつてロボトミー手術が研究された時代、
恐れを知らぬロボトミーの兵士がいた。
彼らは怖れを知らないあまりに、
果敢に攻めて、あっさり死んだ。
死への恐怖がないということは、
生きることへの執着もない。
執着は、今もないけれど。
ただいたずらに
勇壮なだけではいけないと。
法定速度30キロの道路は、
時速30キロで走る意味がある。
そう思えるようになった今では、
急ぐことも、力任せに突き進むことも、
むやみに我を押し通したりするような
「一手」を選ぶことも、少なくなった。
おそらくこれも、
全力で「落ちた」せいだろう。
落ちて苦しむ人の気持ちも、
痛みも、今では少しわかる。
落ちても落ちても、
のぼり続ける人の凄みも、
今ならわかる。
もし命綱をつけたまま
のぼっていたら。
多分、わからなかった。
痛みも、苦しみも、
喜びも、感動も。
この景色も多分、わからなかった。
* * *
大人になると、
手加減を覚える。
明日に備え、未来に備え、
準備をしたり。
同じ失敗を繰り返さないように、
やる前から予防したりする。
それは賢明な選択だと思う。
けれども度を過ぎると、
保険と保証の命綱で、
がんじがらめになる。
ある時、壁に貼ってある紙を見た。
『運鈍根』
人生を成功させるための秘訣だという。
運——。
運気。運勢。機運。
なるほど。
ひとつ飛ばして、根——。
根気。根性。性根。根幹。
なるほど。
鈍?
鈍感。鈍磨。愚鈍。
鈍——。
言っていることはわかるが。
ぼくは「鈍」にはなりたくない。
感じないのは嫌だ。
感じた上、受け止めた上で、
前に進みたい。
鈍は、
生きたまま半分死んでしまう気がして。
今のぼくには、
まだわからない感覚だ。
落ちないように、のぼるのだけれど。
落ちたら落ちる。
それでも、落ちることを怖れず、
落ちてもいいなどと開き直らず、
一挙手一投足を味わいたい。
全身で、全力で、
思いっきり味わいたい。
大人になって、
技術やコツを覚えたとしても。
それだけに頼りたくはない。
筋肉は、使わなければ衰える。
鍛えなければ、脆弱になる。
感覚を鈍させて、
自分を守るくらいなら。
ぼくは、思いっきり泣いていきたい。
いつでも真剣勝負で、
本気で笑って、本気で泣く。
やたらと怒ったりはしないけれど。
本気で悔しがったり、
本気で悲しんだりしていきたい。
感じないのと、
表出しないのとは、大きく違う。
* * * *
何度も何度も落ちてきたからこそ、
致命傷には至らなないような落ち方が、
ほんの少しはわかったのでしょうか。
今でもときどき
思いっきり落ちて、
本気で悔しがって、
本気で泣いてますが。
ふり返って景色を見たとき、
何度も落ちてのぼった風景に、
感慨深くて涙があふれます。
ある人が言いました。
「生きることすべてが作品だ」と。
ぼくは今、作品をつくっています。
タイトルもなく、
額にも入っていない作品ばかりだけれど。
自分では最高傑作の作品ばかりを、
毎日つくっています。
「最新作が最高傑作」
絵を描いているとき、
いつも心に念じていた言葉。
毎日が最高傑作。
そう思って生きられたら。
空っぽになりかけた心を満たすものは、
物ではなくて、心なのだと。
命綱なしでのぼったからこそ、
心の奥に、深く強く、染み渡った。
のぼる人には、わかる。
今見えている景色。
何が、見えますか?
自分が見たかった景色ですか?
心ときめく、
まだ見ぬ景色が見てみたい。
そう思って、またのぼる。
懲りもせず、飽くこともなく、
のぼり続ける。
そういう人に、ぼくはなりたい。
そういう馬鹿に、ぼくはなりたい。
< 今日の言葉 >
『植物に優しく語りかける人と、
無関心に世話をする人とでは、
同じ条件下でも
生育が変わることがある。
それは、言葉の内容ではない。
言葉に込められた「振動」が
相手に届いているのだ』
ニコラ・テスラ
