◆
うまくいくこと、いかないこと。
期待も執着も
コントロールもしないけれど。
平和な心を波立たせる、
自分以外の存在がある。
近頃どうも、かみ合わない。
困ったちゃんの母に、
手紙を書いた。
よくないことばかりするのが、
悲しいと。
仲よくしたくても、
これじゃ仲よくできないと。
子どもみたいな言葉で、
母に伝えた。
耳では聞いているのに、
ちっとも話を聞こうとしない母の姿に、
悪意は感じられないが、困惑する。
御年80歳。
テレビばかりを観るという悪習から
離れられない母は、
どんどん会話が難しくなっていく。
一方通行。
まるでテレビだ。
一方的に話し、
人の話は聞こうとしない。
どうしたものか。
加齢のせいばかりには
したくない。
母と、うまくやりたい。
そう思い、手紙を書いてみた。
ぼくはときどき、母に手紙を書く。
感謝の気持ちやお礼の手紙が多い。
けれど。
たまに、
悲しい気持ちや、
伝わらない想いを手紙にしたため、
母に渡す。
すると、母から手紙が返ってくる。
返事には、
母のその時の気持ちが
書かれていて、
思いが通じたような
気持ちにあふれる。
でも、
それはほんのひととき、
刹那のこと。
喉元過ぎれば、
ではないけいれど。
母の中での「問題」が過ぎれば、
すぐにけろりと笑顔に戻って、
何事もなかったかのように、
また元の黙阿弥、
ふりだしに戻ってしまうのだ。
最近の母は、
すぐに語気を強めて、
言い返してくるようになった。
普段、温和な母なのだが。
思わずこちらも、言葉を強める。
しかし。
落ち着いて見てみると、
それは自分の感情の、不安や不満が
母の言葉や声を借りて、
そのまま
はね返ってきているのだと気づいた。
自分の努力では
どうしようもないことが
増えてきて。
いつしか笑顔が消えていた。
深刻になりすぎ、
肩に力が入って、
むきになってしまっていた。
ふと思った。
もしかすると、
子どものころは、
反対の景色だったのかもしれない。
「こんなに一種懸命やってるのに・・・。
こんなにも愛情を注いでるのに・・・。
どうして思いが伝わらないんだろう」
おそらく母が、
そう思った瞬間はあるはずだ。
一度や二度ではない。
「うるさいなぁ、もう」
などと返す、青き日のぼくに、
唇を噛みしめた場面は
数え切れないほどあったに違いない。
逆転した立場で、想像してみる。
思いの届かないもどかしさ、
悔しさ、虚しさ、悲しみを味わい、
それでもなお、
まっすぐな愛情を注ぎ続けてくれたことを。
悪態をつこうとも、
予告なく帰宅が遅くなろうとも、
外で食事を済ませてこようとも。
毎日、
あたたかな食事を用意してくれて、
清潔に衣服を洗ってくれて。
母親の立ち位置と、
息子から見た景色は、
もちろん同じようにはいかない。
けれども。
想像することはできる。
最近、母への不信感が募っていた。
生活に関わる大切な約束を守らなかったり、
小さな嘘をついたり、ごまかしたり。
「わかったわかった」
と、そのときには返事するのだが。
すぐまた同じことをくり返す母に、
辟易としていたぼくは、
母に、冷ややかな顔で、
冷たい声を放っていたことに気づいた。
母の姿は、鏡だった。
今の自分の心を映す、
曇りなきまっすぐな鏡だった。
ぼくは、原点にかえって、
笑うことにした。
◆ ◆
「おはよう」
朝、笑顔で母にあいさつする。
「暑いね、今日も」
などと、話をする。
気になることも、おかしなことも、
全部そっちのけで。
笑顔で母と向かい合う。
問題は解決しない。
けれど、
心のもやもやだけは
自分で解消できる。
すべては心次第。
母に悪意は微塵もない。
あるのは、ただの欲と、
母なりの愛とやさしさだけだ。
怠惰 習慣 億劫
不安 心配 まあいいか。
そう。
母の問題は、母のことだ。
見守りはしても、
ぼくが解決する必要はない。
曲がりなりにも母は、
今日まで80年間、
死ぬこともなく生きてきた。
命に関わる危ないことも、
本当にどうしようもない過ちも、
していない。
だったらいいじゃないか。
そう。
「まあ、いいか」
母を、信じること。
心の余裕がなくなり、
まだ起こる前から心配ばかりして、
事前に予防策を張り巡らすことに
躍起になっていた。
『アンの青春』で言うところの、
ミス・エリザ・アンドリュウスのように。
何もかもを悲観的に見て、
何事にも心配性で、
まだ起ってもいないこと、
または、
起こりもしない出来事に
おろおろ不安を抱いている。
仏教用語では、
それを「妄想」と呼ぶ。
古今東西、老若男女、
時代を問わず。
悲観的な「妄想」は、
いつでもどこでも押し寄せる。
妄想は、
今の景色を澱ませる。
今現在の楽しい気持ちを、
曇らせ、濁らせ、
どんよりどっぷり沈ませる。
今考えたって仕方がないこと、
考えたって解決しないことで、
せっかくの今を台無しにするより。
今は今で、めいっぱい楽しみたい。
これまで、
努力で何とかなることが多かった。
自分の頑張りや工夫で、
何とかなることが多かった。
試行錯誤の末の解決。
そう。
自分の力で
「解決」できるものが多かった。
人のことは、どうすることもできない。
家族だろうが身内だろうが。
「他人」のことは、
コントロールできない。
促したり、
提案したりはできても、
変えることも、
強制的に従わせることもできない。
たとえできたとしても、
そんなことはしたくない。
線を引くこと。
境界線
無関係なわけでもなく、
無視するのとも違って。
ただ、受け止めて見守ること。
そばにいること。
そして、肯定。
「いいよ」
「いいと思うよ」
「いいんんじゃない」
本人がそう思うなら。
心の底からそれを
いいと思っているなら。
それが、いちばんいい。
自分の心に嘘をつかず、
心のままに、
第一希望を選ぶこと。
答えも解決策も
あげられないけれど。
世間がなんと言おうとも、
そばにいる自分が
「いいよ」
と言ってあげられることが、
何よりいちばんの支えになると思った。
本人に取って変わることはできない。
だから、黙って見守る。
答えはいらない。
無関心な目で、
冷ややかに突き放すのではなく。
あたたかな眼差しで、
黙って見守る。
そんなふうになれたらなと。
おせっかいなぼくは、
「沈黙」という術を
身につけたいと思った。
「沈黙こそ最大の言葉である」
なんていう言葉を、
最近聞いた。
依存と慈悲は違う。
依存は、
相手を自分の都合のいいように
変えることであり、
慈悲は、
相手の自立を促すことだと。
これまた最近、耳にした。
過干渉は、
依存のはじまり。
おせっかいは、
相手を変えることにつながる。
「As you like」
本人の好きにするのが
いいちばんいい。
何を言っても「聞かない」母に、
そんなことを教わった。
◆ ◆ ◆
先日、
甥っ子の家に遊びに行った。
ミニカーで遊んでいた、
22歳下の甥っ子が、
車を買って乗り回し、
レゴで遊んでいた小さな手で、
買ったばかりの大きな家の
玄関を開ける。
感慨深さ、というより。
もはや、
セワシくん宅に招待された、
のび太のような心境だった。
甥っ子宅でくつろいだあと、
雨が上がったので、
近所の散策がてら、
コンビニまで歩いた。
甥っ子はコーヒーを買い、
ぼくはクッキークリームサンダーを買った。
甥っ子と、奥さんの分も一緒に買った。
そう。
22こ下の甥っ子は、
新婚さんなのだ。
学生のころから
付き合いのある女性と、
晴れて昨年結婚した。
付き合い始めた当初、
わざわざ二人でぼくの家まで来て、
彼女を紹介してくれたこと。
結婚することを
二人で報告しに来てくれたこと。
そんなことを、
考えるでもなく思い返しながら。
「ソフトクリーム食べない?」
と、誘う。
いつもならカップにするのだが。
甥っ子がコーンがいいと言うので、
ぼくもコーンにしてみた。
久しぶりに食べた
コーンのソフトクリームは、
スプーンまでもが「コーン」だった。
容器である「コーン」に比べて、
やや香ばしく軽く、
サクサクとした歯ごたえが
心地よかった。
「おいしいね」
二人、肩を並べて歩きながら、
真っ白なソフトクリームを味わう。
「にいちゃん。
最初に全部
スプーン食べちゃったら、
だめじゃない?」
「にいちゃん」とは、
言わずもがな、
叔父であるぼくのことである。
「はぁっ! しまった!
サクサクしておいしいから、
思わずいきおいで
食べちゃった!」
「どうすんの?」
笑う甥っ子。
「大丈夫。
もともとソフトクリームは、
スプーンなしで食べるものだからね」
などと胸を張るぼくに、
甥っ子は、白い歯をこぼして、
楽しげに笑っていた。
「ほら、食べれるでしょ?
ほら、ね」
二人、あははと声に出して、
楽しく笑った。
すごく楽しい一幕だった。
もしここで甥っ子に、
真面目くさった顔で、
「にいちゃん、
それはまったく無知蒙昧な、
無計画で無邪気すぎる行ないで、
無軌道で無鉄砲にもほどがあるよ。
大人としての振る舞いとは、
到底思えない。
僕より22歳年上なんだよね?
大丈夫? しっかりしてよね」
などと、
半ば呆れたように、
講釈を述べられたりしたら。
おそらく、
非常に悲しいことだろう。
悲しく、寂しく、切なくて。
無邪気に楽しく振る舞う自分を
心から呪い、
穴があったら頭まですっぽり
埋め尽くしたい気持ちに
駆られることだろう。
配役を、
母とぼく(息子)に変えてみる。
「母さん。
しっかりしてよね。
なんで最初に全部使っちゃうの?
今まで何年やってきたの?
大丈夫? しっかりしてよね」
並べた言葉が、
いくら正しいものだとしても、
悲しくて、寂しくて、
切ない気持ちでいっぱいで。
どこかへ消えたい心地になるだろう。
かわいい甥っ子に
そんなことを言われたら、
泣いちゃいそうだ。
かわいいかどうかは別として。
手塩にかけて育てた息子に、
そんなふうに言われたら。
悲しくって、仕方がないはずだ。
正論でも、慰めでもなく。
どうせなら、笑ってほしい。
悲しい顔や、呆れた顔で、
冷ややかに見つめないで。
できることなら、
笑っていてほしい。
何もしてくれなくていい。
何も言わなくていいから。
ただ一緒に笑っていてほしい。
ぼくは、立派な叔父ではない。
ちょっと馬鹿でまぬけで、
気まままに生きてる、
だめな「大人」だ。
母に偉そうなことを
言えた立場ではない。
人にあれこれ
言えた柄でもない。
母の姿は、自分の鏡だ。
今の自分を映す、曇りなき鏡だ。
わが「鏡像」を見て、
はたと気づいた。
今の自分は、よろしくないと。
景色がそう見えるのは、
自分の心がそう見せたがってるから。
目の前の現実がそう見えるのは、
現実がそうなのではなく、
自分の心が
そのように見たがっているからだ。
事実と現実は、
同じようでいて同じではない。
事実は変えられないけれど、
現実は、どう見ようと自分次第だ。
「妄想」ではなく、
自分が見たい「現実」を見ればいい。
そう思ったぼくは、
笑うことにした。
ごまかすのではなく、
見ないようにするのでもなく。
すべてを受け止め、わかったうえで、
心から笑う。
冷ややかな目をした、
口元だけの笑いではなく。
腹の底から、思いっきり笑う。
まだまだうまくできない場面もあるが。
少しづつ、できるようになってきた。
何も解決はしていないのだけれど。
不思議なもので、
なんだか世界が明るく染まり、
心に羽根が生えたみたいに軽くなった。
そして、ある晩。
冷蔵庫に、
一枚のメモが
貼り付けられていた。
『今日も一日おつかれさまでした。
利君の幸せな顔を見ているだけで
母さんもとても幸せですよ
オヤスミ』
冷蔵庫の前で、
ハワイ土産のマグネットを握りしめたまま、
ぼくは泣いた。
うれしくて、ほっとして、
ありがたくて。
そのほか、
名前もつけられない感情が
ごちゃまぜになって。
見慣れた母の筆跡を目に映しながら、
声を漏らして一人泣いた。
「ありがとう」
誰に言うでもなく、
ぽつりとこぼした。
9月14日。
昨日は、亡き父の誕生日。
一昨日は、
父が死んで1年の日だ。
1年。
あっという間のような、
そうでもないような。
この1年間、いろいろあった。
悲しみばかりではなく。
手放したくないほど、
尊い時間の連続だった。
うまくいかないことばかりに見えても。
それ以上にうれしいことがある。
「母さん。
もし生まれ変われるとしたら、
どんなふうに生まれ変わりたい?」
「うぅん・・・
別にいいかな、このままで。
今日まで生きてきて、
なんやかんやいろいろあったけど、
楽しかったなぁって。
昨日、寝る前にふと思った」
曇った鏡に
それは映らない。
歪んだ鏡では感じられない。
今の自分を映す鏡。
そこに、
どんな自分が映っているのか。
醜く歪んだ姿ではなく、
できれば笑った顔を見ていたい。
いい加減とか適当なのは
好きじゃないけど。
あんまり真面目すぎても、
笑えない。
楽しむために
生まれてきたのだから。
なるべくなら、
肩の力を抜いて、
ゆったり構えて笑っていたい。
鏡に映った顔が
どんより曇って歪まぬように。
「あの人、大人なのに。
全然ちゃんとしてないね」
なあんて言って、
たとえ人から笑われようとも。
半ズボンを履いていたころの気持ちで、
ほがらかに笑っていたい。
< 今日の言葉 >
『うそには、二とおりある。
足がみじかくなるうそと、
はながながくなるうそとね』
(『ピノッキオの冒険』カルロ・コルローディ)