2025/09/15

わが身を映す鏡







 うまくいくこと、いかないこと。


期待も執着も

コントロールもしないけれど。

平和な心を波立たせる、

自分以外の存在がある。


近頃どうも、かみ合わない。


困ったちゃんの母に、

手紙を書いた。


よくないことばかりするのが、

悲しいと。

仲よくしたくても、

これじゃ仲よくできないと。


子どもみたいな言葉で、

母に伝えた。


耳では聞いているのに、

ちっとも話を聞こうとしない母の姿に、

悪意は感じられないが、困惑する。


御年80歳。


テレビばかりを観るという悪習から

離れられない母は、

どんどん会話が難しくなっていく。


一方通行。


まるでテレビだ。


一方的に話し、

人の話は聞こうとしない。


どうしたものか。


加齢のせいばかりには

したくない。


母と、うまくやりたい。


そう思い、手紙を書いてみた。


ぼくはときどき、母に手紙を書く。

感謝の気持ちやお礼の手紙が多い。


けれど。


たまに、

悲しい気持ちや、

伝わらない想いを手紙にしたため、

母に渡す。


すると、母から手紙が返ってくる。


返事には、

母のその時の気持ちが

書かれていて、

思いが通じたような

気持ちにあふれる。


でも、

それはほんのひととき、

刹那のこと。


喉元過ぎれば、

ではないけいれど。

母の中での「問題」が過ぎれば、

すぐにけろりと笑顔に戻って、

何事もなかったかのように、

また元の黙阿弥、

ふりだしに戻ってしまうのだ。


最近の母は、

すぐに語気を強めて、

言い返してくるようになった。


普段、温和な母なのだが。


思わずこちらも、言葉を強める。


しかし。


落ち着いて見てみると、

それは自分の感情の、不安や不満が

母の言葉や声を借りて、

そのまま

はね返ってきているのだと気づいた。


自分の努力では

どうしようもないことが

増えてきて。

いつしか笑顔が消えていた。

深刻になりすぎ、

肩に力が入って、

むきになってしまっていた。


ふと思った。


もしかすると、

子どものころは、

反対の景色だったのかもしれない。


「こんなに一種懸命やってるのに・・・。

 こんなにも愛情を注いでるのに・・・。

 どうして思いが伝わらないんだろう」


おそらく母が、

そう思った瞬間はあるはずだ。

一度や二度ではない。


「うるさいなぁ、もう」


などと返す、青き日のぼくに、

唇を噛みしめた場面は

数え切れないほどあったに違いない。


逆転した立場で、想像してみる。


思いの届かないもどかしさ、

悔しさ、虚しさ、悲しみを味わい、

それでもなお、

まっすぐな愛情を注ぎ続けてくれたことを。


悪態をつこうとも、

予告なく帰宅が遅くなろうとも、

外で食事を済ませてこようとも。


毎日、

あたたかな食事を用意してくれて、

清潔に衣服を洗ってくれて。


母親の立ち位置と、

息子から見た景色は、

もちろん同じようにはいかない。


けれども。


想像することはできる。


最近、母への不信感が募っていた。


生活に関わる大切な約束を守らなかったり、

小さな嘘をついたり、ごまかしたり。


「わかったわかった」


と、そのときには返事するのだが。

すぐまた同じことをくり返す母に、

辟易としていたぼくは、

母に、冷ややかな顔で、

冷たい声を放っていたことに気づいた。


母の姿は、鏡だった。


今の自分の心を映す、

曇りなきまっすぐな鏡だった。


ぼくは、原点にかえって、

笑うことにした。



◆ ◆






「おはよう」


朝、笑顔で母にあいさつする。


「暑いね、今日も」


などと、話をする。


気になることも、おかしなことも、

全部そっちのけで。


笑顔で母と向かい合う。


問題は解決しない。


けれど、

心のもやもやだけは

自分で解消できる。


すべては心次第。


母に悪意は微塵もない。

あるのは、ただの欲と、

母なりの愛とやさしさだけだ。


怠惰 習慣 億劫

不安 心配 まあいいか。


そう。


母の問題は、母のことだ。

見守りはしても、

ぼくが解決する必要はない。


曲がりなりにも母は、

今日まで80年間、

死ぬこともなく生きてきた。


命に関わる危ないことも、

本当にどうしようもない過ちも、

していない。


だったらいいじゃないか。


そう。


「まあ、いいか」


母を、信じること。


心の余裕がなくなり、

まだ起こる前から心配ばかりして、

事前に予防策を張り巡らすことに

躍起になっていた。


『アンの青春』で言うところの、

ミス・エリザ・アンドリュウスのように。

何もかもを悲観的に見て、

何事にも心配性で、

まだ起ってもいないこと、

または、

起こりもしない出来事に

おろおろ不安を抱いている。


仏教用語では、

それを「妄想」と呼ぶ。


古今東西、老若男女、

時代を問わず。

悲観的な「妄想」は、

いつでもどこでも押し寄せる。


妄想は、

今の景色を澱ませる。

今現在の楽しい気持ちを、

曇らせ、濁らせ、

どんよりどっぷり沈ませる。


今考えたって仕方がないこと、

考えたって解決しないことで、

せっかくの今を台無しにするより。


今は今で、めいっぱい楽しみたい。



これまで、

努力で何とかなることが多かった。

自分の頑張りや工夫で、

何とかなることが多かった。


試行錯誤の末の解決。


そう。

自分の力で

「解決」できるものが多かった。


人のことは、どうすることもできない。

家族だろうが身内だろうが。

「他人」のことは、

コントロールできない。


促したり、

提案したりはできても、

変えることも、

強制的に従わせることもできない。

たとえできたとしても、

そんなことはしたくない。


線を引くこと。


境界線


無関係なわけでもなく、

無視するのとも違って。


ただ、受け止めて見守ること。

そばにいること。


そして、肯定。


「いいよ」


「いいと思うよ」


「いいんんじゃない」


本人がそう思うなら。

心の底からそれを

いいと思っているなら。


それが、いちばんいい。


自分の心に嘘をつかず、

心のままに、

第一希望を選ぶこと。


答えも解決策も

あげられないけれど。


世間がなんと言おうとも、

そばにいる自分が

「いいよ」

と言ってあげられることが、

何よりいちばんの支えになると思った。


本人に取って変わることはできない。


だから、黙って見守る。


答えはいらない。


無関心な目で、

冷ややかに突き放すのではなく。

あたたかな眼差しで、

黙って見守る。


そんなふうになれたらなと。


おせっかいなぼくは、

「沈黙」という術を

身につけたいと思った。


「沈黙こそ最大の言葉である」


なんていう言葉を、

最近聞いた。


依存と慈悲は違う。


依存は、

相手を自分の都合のいいように

変えることであり、

慈悲は、

相手の自立を促すことだと。

これまた最近、耳にした。


過干渉は、

依存のはじまり。

おせっかいは、

相手を変えることにつながる。


「As you like」


本人の好きにするのが

いいちばんいい。


何を言っても「聞かない」母に、

そんなことを教わった。



◆ ◆ ◆



先日、

甥っ子の家に遊びに行った。


ミニカーで遊んでいた、

22歳下の甥っ子が、

車を買って乗り回し、

レゴで遊んでいた小さな手で、

買ったばかりの大きな家の

玄関を開ける。


感慨深さ、というより。


もはや、

セワシくん宅に招待された、

のび太のような心境だった。


甥っ子宅でくつろいだあと、

雨が上がったので、

近所の散策がてら、

コンビニまで歩いた。


甥っ子はコーヒーを買い、

ぼくはクッキークリームサンダーを買った。

甥っ子と、奥さんの分も一緒に買った。


そう。


22こ下の甥っ子は、

新婚さんなのだ。


学生のころから

付き合いのある女性と、

晴れて昨年結婚した。


付き合い始めた当初、

わざわざ二人でぼくの家まで来て、

彼女を紹介してくれたこと。


結婚することを

二人で報告しに来てくれたこと。


そんなことを、

考えるでもなく思い返しながら。


「ソフトクリーム食べない?」


と、誘う。


いつもならカップにするのだが。

甥っ子がコーンがいいと言うので、

ぼくもコーンにしてみた。


久しぶりに食べた

コーンのソフトクリームは、

スプーンまでもが「コーン」だった。


容器である「コーン」に比べて、

やや香ばしく軽く、

サクサクとした歯ごたえが

心地よかった。


「おいしいね」


二人、肩を並べて歩きながら、

真っ白なソフトクリームを味わう。


「にいちゃん。

 最初に全部

 スプーン食べちゃったら、

 だめじゃない?」


「にいちゃん」とは、

言わずもがな、

叔父であるぼくのことである。


「はぁっ! しまった!

 サクサクしておいしいから、

 思わずいきおいで

 食べちゃった!」


「どうすんの?」


笑う甥っ子。


「大丈夫。

 もともとソフトクリームは、

 スプーンなしで食べるものだからね」


などと胸を張るぼくに、

甥っ子は、白い歯をこぼして、

楽しげに笑っていた。


「ほら、食べれるでしょ?

 ほら、ね」


二人、あははと声に出して、

楽しく笑った。


すごく楽しい一幕だった。



もしここで甥っ子に、

真面目くさった顔で、


「にいちゃん、

 それはまったく無知蒙昧な、

 無計画で無邪気すぎる行ないで、

 無軌道で無鉄砲にもほどがあるよ。

 大人としての振る舞いとは、

 到底思えない。

 僕より22歳年上なんだよね?

 大丈夫? しっかりしてよね」


などと、

半ば呆れたように、

講釈を述べられたりしたら。


おそらく、

非常に悲しいことだろう。


悲しく、寂しく、切なくて。

無邪気に楽しく振る舞う自分を

心から呪い、

穴があったら頭まですっぽり

埋め尽くしたい気持ちに

駆られることだろう。


配役を、

母とぼく(息子)に変えてみる。


「母さん。

 しっかりしてよね。

 なんで最初に全部使っちゃうの?

 今まで何年やってきたの?

 大丈夫? しっかりしてよね」


並べた言葉が、

いくら正しいものだとしても、

悲しくて、寂しくて、

切ない気持ちでいっぱいで。

どこかへ消えたい心地になるだろう。


かわいい甥っ子に

そんなことを言われたら、

泣いちゃいそうだ。


かわいいかどうかは別として。

手塩にかけて育てた息子に、

そんなふうに言われたら。


悲しくって、仕方がないはずだ。



正論でも、慰めでもなく。

どうせなら、笑ってほしい。


悲しい顔や、呆れた顔で、

冷ややかに見つめないで。


できることなら、

笑っていてほしい。


何もしてくれなくていい。

何も言わなくていいから。


ただ一緒に笑っていてほしい。



ぼくは、立派な叔父ではない。


ちょっと馬鹿でまぬけで、

気まままに生きてる、

だめな「大人」だ。


母に偉そうなことを

言えた立場ではない。

人にあれこれ

言えた柄でもない。



母の姿は、自分の鏡だ。


今の自分を映す、曇りなき鏡だ。



わが「鏡像」を見て、

はたと気づいた。


今の自分は、よろしくないと。


景色がそう見えるのは、

自分の心がそう見せたがってるから。


目の前の現実がそう見えるのは、

現実がそうなのではなく、

自分の心が

そのように見たがっているからだ。


事実と現実は、

同じようでいて同じではない。


事実は変えられないけれど、

現実は、どう見ようと自分次第だ。


「妄想」ではなく、

自分が見たい「現実」を見ればいい。


そう思ったぼくは、

笑うことにした。


ごまかすのではなく、

見ないようにするのでもなく。

すべてを受け止め、わかったうえで、

心から笑う。


冷ややかな目をした、

口元だけの笑いではなく。

腹の底から、思いっきり笑う。


まだまだうまくできない場面もあるが。

少しづつ、できるようになってきた。


何も解決はしていないのだけれど。

不思議なもので、

なんだか世界が明るく染まり、

心に羽根が生えたみたいに軽くなった。



そして、ある晩。


冷蔵庫に、

一枚のメモが

貼り付けられていた。




『今日も一日おつかれさまでした。

 利君の幸せな顔を見ているだけで

 母さんもとても幸せですよ

 オヤスミ』



冷蔵庫の前で、

ハワイ土産のマグネットを握りしめたまま、

ぼくは泣いた。


うれしくて、ほっとして、

ありがたくて。

そのほか、

名前もつけられない感情が

ごちゃまぜになって。


見慣れた母の筆跡を目に映しながら、

声を漏らして一人泣いた。


「ありがとう」


誰に言うでもなく、

ぽつりとこぼした。



9月14日。


昨日は、亡き父の誕生日。


一昨日は、

父が死んで1年の日だ。


1年。

あっという間のような、

そうでもないような。


この1年間、いろいろあった。


悲しみばかりではなく。

手放したくないほど、

尊い時間の連続だった。


うまくいかないことばかりに見えても。

それ以上にうれしいことがある。


「母さん。

 もし生まれ変われるとしたら、

 どんなふうに生まれ変わりたい?」


「うぅん・・・

 別にいいかな、このままで。

 今日まで生きてきて、

 なんやかんやいろいろあったけど、

 楽しかったなぁって。

 昨日、寝る前にふと思った」



曇った鏡に

それは映らない。

歪んだ鏡では感じられない。


今の自分を映す鏡。


そこに、

どんな自分が映っているのか。


醜く歪んだ姿ではなく、

できれば笑った顔を見ていたい。


いい加減とか適当なのは

好きじゃないけど。

あんまり真面目すぎても、

笑えない。


楽しむために

生まれてきたのだから。


なるべくなら、

肩の力を抜いて、

ゆったり構えて笑っていたい。


鏡に映った顔が

どんより曇って歪まぬように。


「あの人、大人なのに。

 全然ちゃんとしてないね」


なあんて言って、

たとえ人から笑われようとも。


半ズボンを履いていたころの気持ちで、

ほがらかに笑っていたい。




< 今日の言葉 >


『うそには、二とおりある。

 足がみじかくなるうそと、

 はながながくなるうそとね』


(『ピノッキオの冒険』カルロ・コルローディ)




2025/09/01

第三の答え





芍薬の花束をもらった。


蕾のまま開かない花も、

立ち枯れて散り落ちた花もあった。


きれいに咲く花も、

うまく咲かない花も。

咲くことだけを考えて、

散りはてる最後の瞬間まで、

まっすぐ生きている。


なんてけなげで

潔いんだろう。


ひたむきに咲く

芍薬の花たちに、ぼくは、

そんなことを思った。


*  *


考えにつまった時。


人に相談して、

もらった言葉がそのまま

答えになるとも限らない。


第一の答えが

自分の、

これまでの「答え」だとして。

第二の答えが

人から聞いた

「答え」だとしよう。


人と話して、

新たに浮かんだ

第三の「答え」。


相談することで、

新たな選択肢が

浮かんでくる場合があるものだと、

最近、実感した。



* * *



母の調子が、

おかしくなった。


体ではない。

身体的には、いたって健康だが。

心がなんとなく下を向き、

元気がないのだ。


母は、何か悩みごとや

心配ごとがあると、

言葉にこそ出さないが、

気持ちがうつむきになり、

日常生活に変化が出る。


覇気を失い、

テレビの前に座る時間が、

長くなる。


朝が昼になり、

午前が午後になって、

夕方が近づく。


あっというまに時間がなくなり、

不意にあわてはじめる。


話もかみ合わなくなり、

テレビで観た、

暗いニュースばかりを口にする。


何が気になるんだろう。

何か、あったのか。


そんな母を眺めて、

1週間ほど経ち。


行動もややいい加減になり、

開けっぱなし、やりっぱなし、

言っておいたことや

約束を忘れる場面が増えている。


齢80歳の母ではあるが。

どちらかといえば、

もともととぼけた気質の人で、

言っことや、約束などを、

すぐに忘れる。


さらに、頑固というのか、

融通が利かない気質でもある。


記録媒体に喩えると、

CD-Rといったおもむきで、

USBなどのように

「上書き保存」や

「更新」などが不得手な人だ。


せっかく習慣化した「よき行動」も、

何かの拍子に「元に戻る」。


デフォルト状態への初期化。


もっと言えば、

あまりよろしくない、

まちがった習慣へと戻ってしまうのだ。


日がな一日、

テレビを観続けて、

何もやらなくなったり。


お風呂に入って、

そのまま窓を閉め切ったままにして、

カビさんたちの大好きな環境を

提供し続けたり。


計算もせずに、

思いっきり買い物をしてしまったり。


どうでもいいような、

細かいことばかりだが。

積もり積もると、

なかなか厄介な問題になる。


お金の使い方も然り。


「いい?

 ここにカステラがあるとして。

 母さんはこれを、

 ひと月で食べるはずなんだけど」


などと、子どもじみた

説明をしてみたり。


こうするといいよ、と、言っても、

届かない場合が多くある。


おだやかな口調で伝える言葉が、

苦言に聞こえているわけでも

なさそうだが。

ときどき面倒くさそうに、

表情を曇らせる。


何度も同じことをくり返す母に、

どうしていいのか、

どうしたらいいのか、

戸惑い、悩んでしまうことがある。


おそらく母自身も、

同じく戸惑い、

困惑しているのだろう。


堂々巡り。

悪循環の、悪環境。


まあいいか、で済むこと、

済まされないこと。


いろいろある。


あまり目くじらを立てて、

なんでも禁止や取り上げで

母を「取締り」たくはない。


そうは思うのだけれど。


どうにかしたいのに、

どうにもいかないこともある。


話が通じない。

言葉が届かない。


そんな折、

母のことを、姉に相談した。


現実家の姉は、

まこと明快な答えを

いつもくれる。


開けっ放しにする扉には、

自動で閉まる器具をつければいい、とか。


今の母さんには、

テレビを観るくらいしか

隙間の時間を埋めることが

できないのだから仕方ない、とか。


お金の管理は、

もう任せないほうがいい、とか。


誤解のないように言っておきたいが。


姉は、冷たい人ではない。

とてもやさしく、温情のある、

面倒見のいい姉ちゃんだ。


ただ、頭がよくて、

本質的な人なのだ。


いつでもぼくのことを思って、

言ってくれていることばかりだ。


だからこそ、

夢想家のぼくには、

姉の言葉、考え方が

とてもためになるし、

いつも気づかされて助けられている。


今回、相談——というか、

おしゃべりをしに行って、

竹を割ったような姉の回答に、

なるほど、と思いつつも。


どこか腑に落ちない、

すっきりしない感情が

くすぶっていた。


あきらめきれない、

割り切れない気持ちが

ひっそりとあった。


以前のぼくなら、

「答え」を急いでいただろう。


事を「解決」しようと、

躍起になったことだろう。


もうできないことだと

あきらめる選択。



果たしてそれで、

いいのだろうか?


ぼくの「もやもや」は、

母に、ではなく、

自分に向けられたものだった。



行動に出る前に、

母の姿を観察しながら、

1週間ほどじっくり考えた。


母の行動ではなく、

自分が今、何を思い、

どういうときに何を感じるのか。

ノートに書いて整理してみた。


ほかの、些細なことも。

「もう仕方がないこと」だと、

あきらめ、切り捨ててしまって

よいものだろうか。


何事も、

すぐには変わらないのだから。

ゆっくり向き合う必要がある。


将来、大事な場面で、

同じようなことが起こった時。

大切な人を見捨てたり、

あきらめたりしないためにも、

今、ここで「練習」しておく必要が

あるのではないか。


姉は言う。


「自分のしあわせが、まずいちばん大事。

 自分のしあわせをいちばんに考えなよ」


自分がしあわせになる、

そのためにも。


自分のために、

自分自身が変わるべきだと。

そう思った。



解決ではなく、向き合いたい。



そう思ったっぼくは、

ほかの人にも、話してみた。

家族のことを話せる、

家族のような人に。


「答え」を出さないその人は、

「答え」を求めないぼくの気持ちに

そっと寄り添ってくれた。



かつてのぼくは、極端だった。

0か100か。

白か黒か。

やるかやらないか、

その二択しかないと決め込む気質だった。


最近にしてようやく、

「グレーゾーン」を設けることが

少しばかり「わかる」ようになった。


一刀両断に、答えを出したり、

解決するんじゃなくて。


ただ、向き合うこと。


もう二度と起こらないような

方法を見つけ、

事態を完全防御するのではなく。

また今度起こった時にも、

笑顔で受け止められる自分でありたい。


成長。 器。 度量。


外側に、ではなく、

内側に変化を求めること。


それが、

ぼくにとっての「しあわせ」の形だ。


ぼくは、笑顔がいい。

自分だけじゃなく、

目の前の人も、笑顔なのがいい。


準備や方策よりも、

「いいよ」と言える自分でありたい。


二人に話して、思った。


二人に話したからこそ、思った。



答えは、二択ではないと。



第三の「答え」。


答えを出さないという「答え」が、

あるということを。


そんな考えが、

流星みたいにひらめいた。



* * * *



姉が、母を誘って、

映画を観に行った。


めずらしいことだった。


映画の内容が、

母の趣味につながる

ものだったこともあるが。

母を思い、

気晴らしに行ったのかもしれない。


帰ってきた母に、

映画の感想などをを聞いてみた。


「すごくよかった」


母は楽しそうに笑っていた。


「映画なんて、

 タイタニック以来だわ」


おそらく、

ちょっと大げさに

色づけされたであろう、

母の述懐を耳に受け。

ぼくも笑っていた。


(事実、母は

『アナと雪の女王』を

 姉の家族と観に行っていた。

 母の中ではずっと、

「アンと白雪姫」なのだけれど)


「映画、

 3時間もあったんでしょう?」


「3時間?

 どうりで長いと思った」


母が驚きをそのまま顔に浮かべる。


夕食の支度をする母が、

コンロの上のフライパンを滑らせ、

派手な音を立てて床に転がした。

晩ごはんのおかずが、

床の、マットの上に散らばった。


「ごめぇん・・・どうしよう。

 せっかく美味しいの作ったのに。

 このフライパン、

 底がつるつるだで、滑るんだわ。

 どうしよう・・・

 マット、今朝洗ったばっかりだから。

 いいとこだけすくって

 食べればいい?」


「うん、いいよ、それで。

 こぼれただけで、

 やけどしなくてよかったね」


鶏肉とじゃがいもの炒め物には、

母の白い髪の毛が1本

入っていた。

潔癖性でも神経質でもないぼくは、

皿に盛られた料理を食べた。


そして、母と話した。


今、何を悩んでいるのか。

何を心配しているのかと。


母は言った。


自分が失敗ばかりしていて、

みんなに嫌われて、

一人ぼっちになって

しまうんじゃないかと。


母は「何もできない自分」を、

憂えていた。


ぼくは話した。


そんなふうに考えて、

うつむいてたら、

本当に一人ぼっちに

なってしまうよと。


「大丈夫だよ。

 ぼくもみんなも、

 母さんのこと大好きだから。

 元気に楽しくやっていこうよ。

 たった一人の家族だもん。

 仲よくやっていこ」


母は、嬉しそうに笑った。


問題は、

何も解決していないけれど。

心はそちらに向いている。


それで、よかった。


ぼくは母を信じている。


歳の割にしっかりしていて、

健康で、毎日元気に、

家事や料理をこなしている。


「しんどくない?

 しんどかったら

 やらなくていいからね」


「大丈夫、

 しんどくはない。

 手が痛かったり、

 肩とか、足が痛いけど。

 料理したりするの、楽しいから。

 それは、やっていきたい」



ぼくの「答え」ではない。

母の「答え」がそうならば。

それが「家族の答え」だ。




今日までぼくは、

母にたくさん世話になってきた。


恩義だけではない。


母は、

たった一人の母親なのだ。


「下手でもいいから、

 楽しんで作ってね。

 ぼくは母さんの作った料理を、

 1日でも多く食べたいから。

 毎日、元気に楽しんでね」


言葉は、無力だ。


けれど、

言葉にして伝える意味が、

皆無だとは思えない。


夢想家のぼくは、信じていたい。


現実的な「答え」のほかにも、

「答え」があるということを。


言葉や気持ちが

物事を解決してくれなくても。

安心だとか、嬉しい気持ちには、

なれるということを。


ぼくは、死ぬまで信じていたい。


面倒で、大変で、

戸惑ってばかりだけど。


そんな面倒な時間を

いとおしく思い、

まっすぐ向き合っていきたい。


答えは、いらない。


ただ向き合って、受け止めたい。


ぼくは、第三の答えで、

母と向き合う。


母の手を取り、握手した。


「長生きしてね、母さん」


「あんたの手、冷たいねぇ」


「母さんの手が、あったかいんだよ」


母の顔が、

子どもみたいに笑った。



次の日。


母に、シュークリームを買ってきた。

丘の上にあるケーキ屋さんの、

おいしいシュークリームだ。


「いつも頑張ってくれてありがとね。

 お礼にシュークリーム買ってきたよ」


「まぁああ! 嬉しいわぁ。

 涙が出ちゃう。

 やさしいねぇ、あんたは」


「やさしいよ、ぼくは。

 紅茶いれるから、一緒に食べよ」


「昨日、映画観たあと、

 シュークリーム屋さんの前で、

 いいなぁってじっと

 眺めとったんだわ。

 今日もなんか買おうと思ったけど。

 買わんでよかったわ」


「そうなんだ。以心伝心だね」


母と二人、紅茶を飲みながら、

シュークリームを頬張った。


母が、昨日観た映画の話をした。


「吉沢亮さん、

 お母さん好きなんだわ」


「すごいね、母さん。

 最近の人の名前とか、

 ちゃんと覚えられるんだ」


「そりゃそうだがね。

 あの人、何に出とったかな。

 あの人と知り合ったのはねぇ・・・」


と、

まるで本当の知り合いみたいに、

母が言う。


元気になった母の姿に、

ぼくの心も元気になる。


大切な人の笑顔ほど、

嬉しいものはない。


たった1、2回のために、

1万円弱のテープレコーダーを

買ってきた母に、

ぼくはもう、何も言わなかった。


また再来月の末に、

お金がない、と言って

落ち込むのかもしれないけれど。

そうなると限ったわけでも

ないのだから。


「今日、80歳に見えない、

 若く見えるねって、言われた。

 このシュークリーム、おおいしいねぇ。

 クリームがたっぷり入っとる。

 大きいねえ、これ。

 お母さんの顔くらい

 あるんじゃないの?」


嬉しそうに笑う、母の顔。


いい歳をした二人が向かい合い、

ぽろぽろナッツをこぼしながら、

シュークリームを味わった午後。


初めての風景のはずなのに、

なんだかなつかしい匂いがした。


いくつになっても、母は母だ。


自分の母を愛せない人間が、

ほかの誰かを愛せるはずがない。


ぼくは、大切な人を、

母以上に愛したい。


だからこそ、母に学ぶ。


信じること。

受け入れること。

受け止めること。

最後までじっと見守ること。


人からどう言われようが、関係ない。

自分がそうしたいのだから。


ぼくは、ぼくの答えを選ぶ。


耳を貸さないわけではない。


いろいろな話を聞いて、

最後は自分の心で決める。

頭ではなく、心で決める。


自分がなりたい、自分であるために。

かっこいい自分であるために。


ぼくは、ぼくの答えを選ぶ。



こんな気持ちの悪い、

きれいごとみたいな話を

書いておくのも。


ほかの誰でもなく、

未来の自分のためだ。


見失い、力つき、

迷子になった自分の道しるべ。


「産んでくれて、ありがとう」


たとえ大切な思い出を

忘れたとしても。


この感謝の気持ちは、

忘れたくない。




きれいに咲く花も、

うまく咲かない花も。

散りはてる最後の瞬間まで、

咲くことだけを考えて、

まっすぐ生きている。


それぞれが、

それぞれの咲き方で、

まっすぐに咲き誇っている。


どう見られるか、ではなく、

どう在るべきか。


懸命に生きる姿に、ぼくは、

そんなことを思った。





<  今日の言葉 >


『そうさな、

 わしには十二人の

 男の子よりも

 おまえひとりのほうがいいよ』


(男の子のほうが役に立ったでしょう、と尋ねるうアンに、マシュウが返した言葉。/『赤毛のアン』(Anne Of Green Gables)モンゴメリ:作・村岡花子:訳)