2018/08/22

みほさん















みほさんと出会ったのは、

2010年4月、

千葉県のギャラリーでのことだ。


前年の2009年に

常滑市で知り合った作家さんから声をかけられ、

急きょ、二人展に参加することとなり、

千葉県いすみ市のギャラリーで作品を展示をした。


ギャラリーで絵の展示するのは初めてで、

絵を販売するということも初めてのことだった。


会期中の数日間、千葉のギャラリーに滞在して、

何人かのお客さんと顔を会わせた。

ギャラリーの方のおかげもあって、

何枚かの絵も買っていただけた。



みほさんは、

そんなお客さんのうちのひとりで、

ギャラリーに何度か足を運んでくださり、

絵を1枚、買ってくださった。

《聞きたい》という作品だ。


夫婦でお蕎麦(そば)屋さんを営むみほさんは、

お店に飾るのだと言って、

よろこんで帰っていかれた。



ぼくよりほんの少し歳上のみほさん。

小柄で、快活で、笑顔のすてきな女性だった。




そんなみほさんが、先日、亡くなった。


8月7日の夜だった。



ぼくが訃報を知ったのは、

8月9日の朝のことだ。


二人展でお世話になった、

千葉のギャラリーの方からのメールで知った。


みほさんの携帯電話の待ち受け画面が、

ぼくの絵だったということで、

とにかく知らせてくれたらしい。


もし、ギャラリーの方が知らせてくれなかったら、

ぼくは、みほさんの死を知らずに

ずっとすごしていたかもしれない。



メールを読んで、

ぼくは、うそだ、と思った。


そしてしばらく、放心した。



みほさんは、癌(がん)だった。



そのことを知ったのは、

いまから5年ほど前、

みほさんから届いた手紙だった。






● ●





みほさんと顔を会わせたのは、

数にすると数回でしかない。



2010年4月の二人展で2、3回。


2013年3月、千葉再訪問のとき、

大勢での会食でご夫婦そろってお会いしたことと、

みほさん夫婦のお店の、

お蕎麦屋さんでお食事させていただいたときの2回。


そして最後に顔を会わせたのが、

同じ年の夏、名古屋市・有松の旧山田薬局で開催した

『家原美術館2013』の会場でのこと。


ついでがあったから、と。

千葉から遠路はるばる名古屋の会場まで、

足を運んでくれたみほさん。

そのときは、

まるで近所からふらりと来たような感じで

さらっと現れたみほさんの姿に、

びっくりしすぎて一瞬、何が何だかわからず、

感覚が追いつかなかったことを覚えている。



どちらかというと、

マニアックな絵をいいと言ってくれて、

なかなか希有(けう)な人だな、という印象だった。


2014年の千葉でのグループ展で

買っていただいた作品《ジプシー》も、

なかなかマニアックな絵だった。


だからこそ、うれしくもあった。















実際に顔を会わせた回数は、

ほんの、数える程度でしかないけれど。


名古屋の会場で顔を会わせた翌年、

春がすぎたころ



みほさんから、手紙が届いた。



みほさんからの、初めての手紙


かわいらしい便箋に、

黒いボールペンで書かれた手紙には、

文字とは不釣り合いとも思える内容が記されていた。



癌、という文字。

漢字で書かれた「癌」の文字。


自宅で転倒したはずみで大腿骨を骨折して、

病院へ行ったさい、

みほさん自身、その検査の結果で癌の存在を知った。


レベル4。

そういうことにうといぼくでも、

かなりの進度だとわかった。


余命半年。



初めてもらったみほさんからの手紙には、

病気の発覚から医師に告げられたことなどが記されていて、

文面や文字からは、

悲痛な感じも、激昂した感じも伝わってこず、

ただただ事実なんだということばかりが

動かざることとしてそこにあった。



読みながらぼくは、

声に出して、うそだ、と言った。

そうすることで、

うそになると思ったわけでもないが、

どうしても信じがたくて、

なんとかしたい気持ちでいっぱいだった。



ペンを執り、みほさんに返事を書いた。



ばかで無責任なぼくのできる、精一杯の励まし。


楽天的で前向きなぼくは、

本当に、心の底から、治ると信じていた。


元気になることを信じて、

ぼくは、手紙を書いた。



そこから、

みほさんとの手紙のやりとりがはじまった。



ときに、闘病中のみほさんが退屈しないよう、

アイロンビーズや塗り絵やCDなどを同封したり。

おまじないのお守りや、ガン封じのお守り、

家原美術館手ぬぐいの新作ができたときには、

それを送ったりした。



みほさんからは、

送ったアイロンビーズで作ってくれたキーホルダーや、

手づくりのフェルト人形たち、

現場で滞在制作していることを知って、

体を洗うスポンジを送ってくれたり。


闘病中のみほさんは、

糖質制限で癌の活動を抑える療法を実践していたので、

大好きなお菓子やケーキが食べられなかった。


「おいしいお菓子を見つけたので、

 代わりに食べてください!」


そんな手紙とともに、

見るからにおいしそうなクッキーやケーキ、

たくさんのお菓子の詰め合せなど、

本当にたくさんの贈り物を送ってくれた。


ぼくも負けじと、

お世話になっているシェフに、

砂糖を使わないお菓子を開発してほしい、と、

無理なお願いをしてみたり、

ブルガリアの「春を迎えるお守り」や、

毒出しにいいという、柿の葉茶を送ったりしたが。


どうしても、もらっているほうが多い気がして、

いつも「負けないぞー!」と、うきうきわくわくしていた。





半年がすぎ、1年がすぎて。

「余命」のことなど、すっかり忘れていった。




みほさんとの手紙のやりとりは、

数えられないほどではないが、

数すらわからないほど

ずっとつづいていた気がする。


みほさんの病状を知るたび、

自分でもびっくりするくらい、

わがことのように一喜一憂して、

よくなったとの報せに、

声に出してよろこんだことも幾たびか。


「ガン封じ」のお寺を見つけるたびに、

みほさんがよくなるようにと祈ったり。



どうしてそんなことをするのか。

そんな自分が、不思議だった。


きっと、みほさんだから、

そう思ったのだろう。


ただ、みほさんの病気がよくなってほしいと。

心から、そう思った。





2年、3年と月日が経ち、

みほさんの「余命」と、闘病がつづいた。


その間、

ぼくは、絵を描き、展覧会を開いたり


たのしんだり、わらったり、

落ち込んだり、いろいろ思い悩んだりした。


そんなときにも、

みほさんは、いつも手紙でぼくを応援してくれていた。


「たのしんで絵を描いてくださいね!」

「たのしい絵を見ると元気が出ます!」

「本当に、健康に気をつけて、体を大切にしてください」


病気のはずのみほさんに、

ぼくはいつでも、励まされていた。

いつも、元気と勇気をもらっていた。



みほさんから届く手紙には、

いつも、元気で前向きな言葉ばかりが綴られていた。


けれどもときに、闘病のつらさや、痛み、

行き詰まった思いなどが、綴られていた。


医者でもなければ家族でもないぼくは、

無責任に、ただただ治ることばかりを心から信じて、

つたない言葉で応援しつづけた。


本当に。

ぼくが知るかぎり、みほさんは、

捨て鉢になったり、投げやりになったり、

乱れたりせず、自分の病気とまっすぐ向き合っていた。


がんばってるなぁ、すごいなぁ、と、

心の底から敬服した。


だからこそ、


「ときどき、こっそり甘いものを食べちゃってもいいと思います」


とか、本気で思って、手紙で伝えた。


がんばりすぎず、がんばってほしい。


けれど、ぼくはみほさん本人じゃないから、

みほさんが選ぶことに、まちがいはないとも思っていた。


本当に、ぼくの想像をはるかに越えた、

本人にしかわかり得ない、

苦痛やつらさがあるのだから。


ぼくは、無責任で楽天的なことしか言えなかった。


ただ、心にもないことだけは、

一度も言わなかった。


ぼくは、絶対に治ると思っていたし、

みほさんが元気になって歩き回る姿を信じて、

それを思い描いていた。


影の部分が小さくなった、と、

MRIの経過の印刷画像を送ってくれたり。



「ぜったい治してやる!」


元気で前向きな、みほさんの言葉に、

いつしかそれが本当のことで、

そうなるものだと信じていた。


ばかなぼくは、

よくなっているとしか、思っていなかった。







● ● ●






去年末、ぼくは、

ふるわない気分に包まれていた。


心がすこし、しぼんでいた。



年が明けて、

みほさんから、手紙が届いた。


差出人を見なくてもわかる、

見なれた、みほさんの文字。



自分のことで必死になっていて、

すこし、みほさんのことを忘れてしまっていた。



手紙の中には、これまでと変わらず、

たたかいつづけるみほさんの姿があった。


みほさんの勇姿に、

自分自身がちっぽけに思えた。


ぼくは、ザ・クロマニヨンズのアルバム、

『LUCKY & HEAVEN』を送って、

その中の1曲『どん底』を聴いてほしいと、

手紙に書いた。


それは、

ぼく自身「どん底」の気持ちで、

その曲を聴いて「そうだな、あがるだけだな」と、

思っていたところだったので、

とにかくみほさんに送った。


「どん底だから、あがるだけ」


ぼく自身に言い聞かせるような、

そんな気持ちでもあった。



3月、

みほさんはそれを聴いてくれて、


「"どん底だからあがるだけ・・・"を聴いて、

 何回も泣いちゃった・・・」


と返事をくれた。



みほさんもがんばってるんだから、

ぼくもがんばろう。


そう思った。



4月。


手紙には、


「病気がわかったのが2014年3月だったので

 今年で5年目になります」


と、書かれていた。


いつになく、

すこしだけかしこまったような、

そんな手紙に感じた。


けれどもそれは、

5年、という節目の、

「お礼の手紙」だからかな、

というふうに思った。


「5年間ずっと励ましていただいて

 ありがとうございます。

 何度も心が壊れそうになったときも

 元気づけてくれて、勇気づけてくれて、

 救っていただきました。

 もっともっと元気になるように努力します」


だから、そんな文面を見ても、

いやいやこちらこそ、

という気持ちでいっぱいだったし、

早く元気なるといいな、と

すなおに思った。


ぼくは、みほさんの手紙に、


「5年という月日が、長いのか、短いのか。

 それはみほさんにしかわからないことですよね」


「5年間がんばったごほうびで、

 自分においしいお菓子を食べさせてあげてください!」


というようなことを書いたと思う。


けれど、返事は来なかった。



これが、最後の手紙になった。






● ● ● ●






ぼくは、お葬式がきらいだ。

行かないですむなら、行きたくない。


遠く離れて暮らしていた人であれば、

お葬式にさえ行かなければ、

それまでと変わりなくすごすこともできる。


行かなければ、お別れしなければ、

自分のなかでずっとその人が

生きているのとおなじ気がして、

ぼくは、お葬式には行きたくないと思う。




けれども、

みほさんの訃報を知ったとき、

ぼくは、何の迷いもなく、

行こう、と思った。


お葬式に行かなければ、

もう二度と会えない、と。

そう思ったから、

行こうと思った。



5年前の展覧会場でしゃべった、わずかな時間。

あれが最後になるなんて、

そのときはまるで考えもしなかった。




告別式は8月14日。



13日の夜中、3時に家を出た。


かなり余裕を見て家を出たのだけれど、

東名高速を抜け、首都高速を走り、

京葉道路にさしかかったとき、

車の流れがわるくなった。


『東金道路 二輪事故 渋滞』


電光掲示板に、

これから行く道の渋滞を知らせる案内があった。


時刻は9時50分。


カーナビもスマートフォンもないので定かではないが、

告別式のはじまる時間、10時には、着きそうにない。



間に合わなかったらどうしよう。

会えなかったらどうしよう。


気持ちがあせった。



今回、みほさんのお葬式に行くことは、

誰にも伝えていなかった。

行けば言うまでもないことだと思ったからだ。


携帯電話を持たないぼくは、

ギャラリーの方などの連絡先をひかえることもなく、

そのまま家を飛び出してきた。


唯一、書き留めてきたのは、

式場の住所と電話番号だけだった。


告別式は、もうはじまっている。


何とかして式場に電話を入れて、

遅れて行くことを告げた。


式の終わる時間は11時20分。


なんとかそれまでには間に合いますように。


祈る気持ちで、

のろのろと車を走らせた。


到着予定時刻には、

かなり余裕があったはずなのだが。

車は遅々として進まない。


喪服は後部座席にある。

会場に着いてから着替えるつもりでいたのだが、

そんな時間もなさそうだ。


車が停まっているうちに、着替えよう。


そんなときに限って走り出す車。

ほんのすこしの停車のすきに、

ズボンを脱いで、

また次の機会にズボンを履き替え、

靴下から靴、シャツまで着替え、

なんとか服装が整った。


そうこうするうちに、車が走りはじめた。


式の終わりまでにはまだ時間がある。

それまでには、何とか間に合いそうだ。


追い抜き車線を走ったりしながら、

有料道路の出口を下りたころには、

10時30分を過ぎていた。



実感こそなかったが。


みほさんの訃報を聞いてから、

毎朝、シャワーを浴びるたびに、

涙がこぼれた。



くやしさ。無力さ。理不尽さ。

よくわからない思いがこみ上げて、

涙がこぼれた。


急いで車を走らせていたおかげで、

めそめそするひますらなかったのだけれど。


出口を下りてしばらくして、

式場の案内看板が目に入った瞬間、

急に涙があふれた。


山あいの深緑の樹々に囲まれて、

そこだけ陽が差した田んぼが、もえぎ色に輝いていた。

その、蛍光緑のような、燃えたつ緑の風景と、

青い空と、白い雲と、

その横に立てかけられた告別式の案内看板と、

いろいろなものが一瞬にして、

胸を締めつけた。


いい天気だなあ。

こんなに空が青いんだ。

いい景色だなあ。

きれいな緑。

ここでみほさん、育ったんだなあ。

看板に書かれたみほさんの名前。

本当なんだな。

ああ、ほんとにきれいな景色だなあ。

みほさん・・・。



泣いてるひまもなく、

ひたすら車を走らせ、会場に着いた。


そのままの勢いで式場に入ると、

まっさきにギャラリーの方が、

ぼくのもとに駆け寄ってきてくれた。

ほとんど同時くらいに、

みほさんのご主人もそばにきてくれた。

みんな、泣いていた。


間に合ったのかどうか、

それもどうかよくわからないまま、

ご主人、ギャラリーの方と、言葉を交わした。


遅れて、しかも突然現れたのにも関わらず、

ご主人も、ご家族の方も、ほかのみなさまも、

あたたかく受け入れてくださって、

ご主人が、いましがた式が終わったばかりの会場へ、

ぼくを招き入れてくださった。



子どもじみて、不謹慎な言い方をするかもしれないが。


棺に横たわったみほさんを見て、最初に浮かんだのは、

「知らない人」という感覚だった。


棺の中に静かに横たわっているみほさんは、

ぼくが見知っているみほさんとはまるでちがっていて、

やせ細って、歳を取って、

まったく知らない別の人だった。


手紙のやりとりをしているとき、

ぼくの目には、

最後に会ったときのみほさんの姿が浮かんでいた。



棺に横たわるみほさんと対面して、

5年間という、

みほさんの時間の流れを目の当たりにした。


ぼくの時間とはちがう、

みほさんの5年。



手を組みあわせてじっとするみほさんの前で、

ご主人、お母さまとお話しさせていただいた。

みんな、すごく泣いていた。

かなしかった。

ぼくも涙が止まらなかった。


お蕎麦屋さんに行ったときに見た、

みほさんとご主人。

夫婦そろって切り盛りする姿。

沸騰するお湯に蕎麦を落すときの、

ご主人の真剣な眼差し。

おしゃべりするときに見せる、柔和な顔。

お蕎麦の説明、天ぷらの説明をひとつひとつ、

ていねいに、快活に話してくれたみほさんの顔。

すごくおいしかったし、

お店も、ふたりも、すごくいい雰囲気だった。














みほさんが手紙に書いていた「私よりも小柄な母」。

その小柄なお母さまが、

自分のことを悔いるように、涙を流していらした。



ぼくには想像もできない。

まるで想像がつかない。


ずっとそばで支えてきた人たちのことも、

ましてや、みほさん本人のことも。


ぼくには、想像すらできないことだ。



「本当にありがとうございます」


お礼をくり返すおふたりに、

ぼくは、頭を下げて、お礼を返すことしかできなかった。


みほさんと、ご主人と、お母さまとぼく。

ほかの方々は誰もいない。

遅れてきた身なのに、

逆にみほさんとご家族との特別な時間をいただいた。


ぼくは、使い切って短くなった、

蛍光ピンクの色鉛筆を1本、

棺の中に入れさせてもらった。


ご主人も、お母さまも、ずっと泣いていた。

お父さまは泣きながら、

静かに、お母さまの肩を支えていた。



写真の中では、

ぼくの見知ったみほさんが、笑っていた。



いったん退室していた参列者の方たちが

式場に戻ってきた。


みんなでお花を入れることになり、

白い菊の花を棺に入れた。

ぼくは、なるべくきれいに並べたくて、

みほさんの足元をきれいに飾った。


色のついた花を入れたあと、

みほさんがすきだった花、ひまわりを並べていった。

横たわったみほさんが、

黄色い花に包まれていく。


すごく、あったかそうで、

はなやかで、きれいだった。


すごくきれいで、よかったな、と思った。


みほさんに、会えてよかったなと思った。


今日、最後に会えて、よかったなと思った。


今日までずっと、ありがとうございました。


ぼくは、みほさんからもらったたくさんのものを、

ずっと大切にしていきます。


かなしくて、つらくて、

よくわからなくて、信じられない気持ちだったけれど。


会えないだけで、

いなくなったわけじゃあ、ないと思った。


棺にふたをして、最後のお別れをして。


ぼくらは、みほさんを乗せた車を見送った。



みほさんのおかげで、

なつかしい人たちと会うこともできた。


みほさんのおかげで、

なつかしい景色を見ることができた。



ありがとう、みほさん。

みほさんは、最後までみほさんでした。


ぼくは、今日のことをずっと忘れません。




あわただしく終わった式のあと、

海のほうまで車を走らせた。


海は青くて、雲は白く、

空はどこまでも青かった。



















夕暮れ。


海辺の街は、

お盆の送り火で、

提灯(ちょうちん)を手に歩く人の姿があった。


お寺にも、お墓にも、

提灯の灯りがやさしく灯っていた。













こうしてふり返ってみても、

わからなことばかりだ。



けれどもひとつ、言えることがある。


みほさんのおかげで、

出会ったこと、知ったことがたくさんある。


みほさんがいなければ、

いまは、いまとおなじじゃないと思う。


みほさん、ありがとう。



ぼくは、みほさんからいっぱい、

大切なものをもらいました。






2018年8月22日