2016/11/30

そんなつもりじゃないのに








買い物に行って、

会計の列に並んでいたとき。

ぼくの前に、

父子(おやこ)の姿があった。


会計の順番がきたお父さんは、

手にしたカゴを台に置いた。


そのとき、

レジ前に陳列された商品が、

ばらばらとちらばり、床に落ちた。

お父さんの手にしたカゴが当たったのだ。


青色と、緑色の、2種類のお菓子。

味がちがうのか、

おなじ商品でも色がちがっていた。

お菓子は、

ちょうど男の子の目の高さに積まれていた。


目の前で散らばったお菓子を

拾い集めた男の子は、

積まれていた場所に戻そうと置きはじめた。


はじめに置いた場所が

ちがっていることに気づき、

青色は青色の山に、緑色は緑色の山に、と、

置き直していた、

そのときだった。


「こら、よけいなものさわるな!」


お父さんがきつめの声で、

男の子を叱咤(しった)した。


男の子は手を引き、

一瞬、困惑の表情を浮かべたものの、

何も言わず、じっとお父さんの手もとを見据えた。


一部始終を見ていたぼくは、


「いやいや、お父さん。

 あなたが落したお菓子をきちんと拾って、

 きれいに並べようとしていたんですよ。

 いけないのは、あなたのほうですよ」


と。そう伝えたかったけれど。

さすがにそんな「事実」を伝えることもできず、

うつむく男の子に心のなかで、


「大丈夫。ぼくは見てたよ」


と、つぶやいて。


店を出て行く男の子の背中に向かって

大きく2度ほど、うなずくばかりだった。



きっとその男の子は、こう思ったはずだ。


「そんなつもりじゃないのに」と。















小学1年か2年生のころ。

大掃除の時間に「まどふきががり」の役を仰せつかった。


水ぶきをして、からぶき。

そうすると、ガラスがものすごくぴかぴかになる。


本当だ!


先生がそう教えてくださって、

家原少年は、いたく感動した。


ひとしきり説明を終えた先生は、

別の掃除場所へと移動した。



水ぶきをして、からぶき。

ぼくは、廊下側の窓ガラスを

ぴかぴかにみがきはじめた。


やるからには徹底的にみがきたい。


執拗(しつよう)な気質の家原少年は、

ガラスの角の角まで、

表も裏も、徹底的にみがいた。



掃除の時間も終わりが近づき、

教室に先生が戻ってこられた。


窓掃除を終えたぼくを見つけるなり、

先生が、顔色を変えて言った。



「窓ガラス、どこにやったの!」



一瞬、先生が何を言っているのか

ちっとも分からなかった。


戸惑うぼくに、

青ざめたままの先生は、

語気をゆるめて言葉を重ねた。


「窓のガラスを、どこに・・・」


言い終わる前に、

先生は、はっとしてガラス窓へ顔を近づけた。


「ああ、びっくりした。

 ガラスがなくなったのかと思った」


ぼくは、うれしくなって、

てへへと笑った。


見えないくらいきれいにみがいて、

ほめてもらえると。

てっきりそう思ったのだけれど。


次につづいた言葉は、

予想に反するものだった。



「危ないじゃないか。これはみがきすぎだ」




そのとき、家原少年は思った。

「そんなつもりじゃなかったのに」と。





★ ★






同じく小学生のころ。


朝礼でときどき、

運動場の「石ひろい」があった。


全校生徒総出で拾う、石ひろい。


運動場で駆け回って転んだりしたとき、

石ころまみれだと危ないからだ。


各自、自分の周囲の石を拾い集め、

石ひろいのために校庭へと持ち出した制帽に入れていき、

最後、拾った石は、

担任の先生が手にした袋に入れるか、

年輩の先生が操る「ネコ(一輪車)」に、

ざらっと入れる。


この石ひろいの行事は、

たしか、年に1回か2回くらいはあったように思う。


石ひろい。


「なるほど、石をひろうのだな」


そう聞くとぼくは、

石ころという石ころを徹底的に拾いたい、

と思ってやまない、

行きすぎた気質だったので、

自分で範囲を決めて、

目で、見えない線を引き、

その範囲内ある石ころをつぶさに拾うことにしていた。



両膝をつき、地面にひれ伏し、

校庭と向き合う。


まずは目についた石という石をひたすら拾う。

ころころと転がる小石が片づくと、

手のひらを地面にひたと当てて、

ワイパーよろしくさかさかとこする。


すると、

地面をうっすらとおおう砂が消え去り、

かたい地盤が顔をのぞかせる。


さらにさかさかとこすっていくと、

埋没していた石たちが露出しはじめ、

あらたな石ころたちのおでましとなる。


その身を半分くらいあらわにした石ころたちは、

爪の先でくいっと引っかければ

ぽろりと取れる。


半身以上  埋没した石ころたちの場合は、

小枝などでこじってやると、

たいてい取れる。


たまに「大物」に出くわしたときには、

石ころ少年家原の腕が鳴る。


「大物石」の周辺を棒などで切削していき、

食いつきが甘くなった頃合いを見計らって、

「てこ」のような具合に

えいっ、とばかりに持ちあげれば、

ごろん、と抜ける。



地中にあった部分が、

しめって、色が濃くなっている。


そのとき、

きれいだと感じてよけておいた石も、

あとで見ると、乾いてくすんで、

たいしてきれいじゃなく思えたりする。


ふしぎだね。



さて。



小学校低学年のころ、

「石ひろい」の日がやってきた。


例のごとく「範囲」を決めて、

石ひろいに没頭する。


と、自分の作業エリア内に、

見たこともないような質感の「石ころ」を発見した。


白い、陶磁器のような「石ころ」。


全容は明らかにされてはおらず、

その一部分だけが地上に顔をのぞかせている。


白い、お茶碗か湯吞みのような断片が、

校庭に埋まっている。

地上から出ている部分は、

丸く、ひらたくて、

「お神酒(みき)」のふたのような感じが

しないでもない。



ぼくのあたまは、

一瞬にしていろいろなことを思った。


(化石? むかしの人のおちゃわん?

 なにかのぎしきのうつわかな?

 それとも、なにかのぶひんかな?)


何にせよ、こんなものが

「ぼくたちの校庭」に埋まっていたら危ない。


よし、と。

ひとつうなずいたぼくは、

意を決して発掘することにした。


お神酒のふた状のそれは、

掘ってみると、それほど浅くはなく、

掘れども掘れども

その全貌(ぜんぼう)を明らかにする気配はなかった。


掘っている層も、

砂、というより、もはや土だった。

薄暗い、暗褐色の、固い土。



小学生のぼくは、

一瞬だけ本気で思った。


(このままほりすすんで、

 ブラジルまでいっちゃったらどうしよう)


(いや、途中に「マントル」があるぞ。

 まんなかまでいったら、

 マグマで  もえちゃうかなぁ)


中途半端に知識のある家原少年は、

無心で掘りながらも、

頭のすみではそんなことを思ったりしていた。



もう、何十分も掘ったかのような気がした。


現実に返り、はたと見てみる。


まわりのおともだちは、

裏返しに置いた制帽の中に、

ざっくざっくと小石を収穫している。


自分は、といえば、

この白い物体にかかりっきりで、

まるでほとんど手ぶらの状態だ。



しばしの葛藤(かっとう)。

焦燥(しょうそう)。

不安。


掘りつづけるか、それともやめるか。


それでも掘る手は休めない。


ここまできたのだから、

正体を見極めてやる。



これまでよりさらに加速して、

先のちびった棒で、

がつがつ土をえぐっていく。


白磁器のような肌地のそれは、

思いのほか胴長で、

途中にくびれがあり、

見たこともないような形をしていた。


でも、何かに似ていなくもない。


(むかしのヤクルトかなぁ?)


ぼくのあたまに、縄文人めいた人が

陶器のヤクルトを飲んでいる姿が思い浮かんだ。


(それとも、ぶきとかかなぁ・・・)


ふと見ると、

白い肌地にうっすらと

文字らしきものが書かれていた。


アルファベットと数字。


(ほんとうにぶきかもしれないぞ!)


白地に紺色で「印刷」された

アルファベットと数字を見ると、

本当に、軍隊の物のように思えてきた。


(もしかして、フハツダンかなぁ・・・)


はっきり意味は分からなかったが、

その言葉だけは知っていた。

だからこそ、

そのまま掘りつづけられたわけだが。


そして、ついに。



「ごろん」



地中に埋まった白い物体が、

その身を投げ出した。


「・・・やった!!」


とはいえ。


全貌が明るみに出たところで、

状況は何も変わらなかった。


白磁器でできた『ヤクルト』か、

はたまた軍隊の代物なのか。


手に取ってみても、

まったく見当がつかない、

「謎の物体」だった。



途中、

こそこそと掘り進んでいたせいもあり、

誰にも気づかれなかったのだが。


ついに掘り起こすと、

まわりのおともだちがちらほら集まり、

なんだなんだ、と、

小さなさわぎになった。



ヤクルトか、フハツダンか。

古代のものか、未来からのものなのか。


誰も、その正体を知るものはなかった。


小集落ができたせいか、

ぼくらのもとに、

となりのクラスの先生がやってきた。


「なんだ、どうした。

 まだ終わりじゃないぞ」


その声に、

あったはずの集落が

見る影もなく分散した。


行き場を失った先生が立ちつくし、

視線を足元のぼくへと泳がせた。


「なんだ、それは?」


「これ、うまってた」


適切な敬語を知らない、

低学年の家原少年が、

素朴(または愚直)に言った。


ぼくの手のなかの物体を、

先生はしばし凝視したあと

やや顔を寄せて、

驚き、勢いよく言い放った。


「これはガイシだ、掘っちゃいかん!」


(え? がいし? が石? なんだ、それは?)


ぼくはそのとき、

ガイシという言葉を初めて耳にした。


あたまのなかは、

クエスチョンマークの洪水だった。


(石なのに、ほっちゃだめな石?

 がいし、って石じゃないの?

 がいし、って、なんだ?)


困惑して固まるぼくに、

先生が言い募った。


「ガイシを掘るやつがあるか。

 これはな、目印のためのガイシなんだから。

 早く元に戻して埋めなおせ!」


先生に、ガイシガイシ、と何度も言われて。

しまいには埋めなおせ、とおこられて。


そのときのぼくの

消沈ぶりといったらなかった。


せっかく掘ったのに、

ほめられるどころかおこられた。


よかれと思ってしたことが、

悪ふざけのように思われて、

問答無用で叱られる。



永平寺のお坊さんがおっしゃっていたお話。


空腹で困っている人におまんじゅうを与えて、

たとえそれで相手が腹をこわしたとしても。

自分自身を、責めることはない。

よかれと思って行なった行為で起こったことならば、

それを罪に感じる必要はない、と。



当時の家原少年は、

そんな金言も知らなかったし、

まだまだ未熟な小坊主だった。


ただ、ガイシというものは、

運動場に埋まっている場合は、

徒競走をするときや列に並ぶときの基準点になるもので、

けっして掘ってはけない「石」なのだと。


そのことだけは、痛いほど分かった。


よいこのみんなも、

うんどうじょうにうまっている白いガイシは、

いくら「石ひろい」のときでも

ほりかえしちゃダメだよ!



電線には、絶縁のための碍子(がいし)がある。

あの碍子とガイシが同じものだと気づくには、

そのあとまたしばらくの歳月を要した。




碍子(がいし)見るたび 思い出す

なつかしきわが 無知な好奇ぞ






★ ★ ★







青色のお菓子と、緑色のお菓子。


いいことをして、おこられた。


男の子の背に、

かつての自分の姿を映し見たのかもしれない。



けれどもぼくの場合は、

きっと普段の行いが悪かった因果だろう。


少年家原は、

いつもおこられてばかりの、

こまったちゃんでありました。



でもね。



大人になったいまでも、

ときどき思う。


そんなつもりじゃないのに、と。



だからね。


つもり、なんて、

もうこれからは思わないつもり。


ぼくは、おなかが減った人に、

おいしいおまんじゅうをあげたいだけなのです。





< 今日の言葉 >


『もしもおばあちゃんのつくったシュークリームの皮が、

 油揚げだったら・・・』


(イエハラ・ノーツ/Oct.2016より)