2016/07/26

俗まみれの雲水



「虹の泉」にて




名:【雲水】(うんすい)


◇「行雲流水(こううんりゅうすい)」の略

1)行く雲と、流れる水。

2)定まることなく行く雲と、流れて止まない水のように、
  一カ所にとどまることのない自由な人。またはその境涯。

3)行き先を定めず、諸国を行脚(あんぎゃ)する修行の僧。

4)禅宗の修行僧。









朝、目を覚まし、

朝ごはんを食べて、

煙草を一服。


歯を磨き、トイレに行って。

シャワーを浴びて、

髪の毛を整え、服を着る。


そして元気いっぱい、


「ようし、きょうもがんばるゾ」


と、笑顔でごあいさつ。


これが、家原利明の1日のはじまりである。



この「流れ」は、

かれこれ20年以上、変わっていない。




どこへ行っても、

たとえそれがアメリカでもフランスでも、

この「流れ」は、ほとんど変わらない。


シャワーを浴びる手順も、ほぼ同じ。

頭を洗って、体を洗って、顔を洗う。


洗顔は、

ぬるぬるしなくなってから

水で8回すすぐ。


使い終わったヘアブラシを洗って、

5回ふって、水を切る。


浴室を出る前に、

シャワーの流水を左脚、右脚、

それぞれ8秒かける。



出先や緊急時には、

「省略版」でまかなうこともあるが。

可能なかぎり、上記の「通常版」ですごしている。


たとえできなかったとしても、

何かが大きく、くずれるわけでもない。


自分としては、

儀式でもなければ、

おまじないやジンクスでもないと思っている。



各人みんなに、

それぞれ独自の「流れ」があると思っていたのだが。

人と話すうちに、みんながみんな、

こうした「きまり」があるとは

かぎらないことを知った。







朝食の献立も、

10代後半からほとんど大きな変わりはなく、

パン&その他の毎日だ。


いったん「これ」と決まった献立は、

数日間、または数カ月間、

しばらくつづく。


つづける理由も変わるきっかけもわからないが、

同じ献立がしばらくつづく。



いま現在は、トーストが2枚。


1枚は、こんがり焼いたトーストにバターを塗り、

粒マスタードとマヨネーズをのせてしっかり混ぜて

均一に塗り伸ばし、

そこにコンデンスミルクを糸状に垂らし、

すみずみまでかけていく。

そのうえにナチュラルチーズをのせて、

クミンシードをぱらぱらとかける。

最後にベーコンを2枚のせて、

チーズが溶けるよう、もう一度トーストする。


もう1枚は、

トーストしたパンにハチミツをたっぷり垂らし、

しみこみ、パンが冷めたところで、

厚切りのバターをどん、とのせる。

バターは伸ばさずに、

厚切りのまま、クリームのようにして食べる。


1枚目のパンが、

ピーナツバター&ベーコンだったり、

プレーンオムレツのせだったり、

まれに、ベシャメルソース・ベースとか、

モーレソース・ベースのときがあったりもするが。


だとしても、

基本的に同じ献立が毎日つづく。


「毎日同じもの食べて、飽きないの?」


と、聞かれることはあるけれど。


「うん、飽きない」


としか言いようがない。


献立を変えるときも、

飽きたから変える、というわけではなく、

ただ何となく、気づくと変わっている、

といった感じだ。



2枚のトーストに加え、

濃いめのコーヒー、

食後のデザートに、ヨーグルトとチョコレート。


オレンジジュースやトマトジュース、

冷たいミルクやホットミルク、

食べきれなかった果物でつくったフルーツジュースなどの飲み物類や、

クッキーやビスケット、ワッフルなど、

ここに「おまけ」がつくこともあるが。

コーヒーとチョコレートは、

絶対、と言っていいくらいの、

不動のツートップだ。



昔、それこそ学生のころは、

朝、パンとごはんを食べていた。

冬場には、そこに焼いたおもちが加わる。

パンとごはん(+おもち)に、

卵焼きと、おみそ汁、またはスープを添えた朝食。


おそらく、これが、

1けた台から10代のぼくを支えてくれた

朝の献立だ。



当時は「ミスター穀類」の座を

縦(ほしいまま)にしていた家原だが。


クラスメイトに、


「炭水化物ばっかりだね」


と指摘され、


「なるほど、そのようなくくりは考えてもみなかった」


と、いくぶん省みて、

パンの枚数を1枚減らしたのであった。


(ちなみに日曜日の朝などは、
 サンドイッチやお好み焼きが登場した)




「おこめ期」から「おパン期」への変遷。


それは、10代後半に、

ヨーロッパへ行ったことが起因している。


たかだか2週間ほどの滞在だったにもかかわらず。

帰国後、朝、白いごはんが食べられなくなった。

いや、たとえ何色でも、

急にお米の「ごはん」が食べられなくなった。


もちろん、

食べようと思えば食べられるのだろうけれど。

積極的に食べたいとは思わなかった。



ヨーロッパからの帰国後、

朝のぼくが求めたものは、

「シリアル」だった。


奇しくも「シリアル(cereal)」とは、

「穀類」を意味する英単語だ。


本当は、プレーンのシリアルに、

チョコレート・チップをばらまいて、

冷たい牛乳にひたして食べたかったのだが。


当時『トッピンチョコ』という既製品が

市場(しじょう)で入手できたため、


「あな、これはありがたや」


と、朝のお供に定着したのでありました。



のちに、

同じくして欧州に行った友人にこの話をすると、


「あ、わかる。おなじおなじ! 

 帰ってからしばらくシリアルだった」


とのことで、

希有(けう)な同胞(はらから)をひとり見つけて小躍りした。


その同胞とぼくと、

どちらの「シリアル期」が長かったのかは知るよしもないが。


ぼくの「シリアル期」は、

少なくとも1年ほど存続した。





★ ★





保守的なのか、こだわりすぎなのか。

はたまた、いわゆる「凝り性」なのか。


「大変だね」とか「面倒くさそうだね」とか、

そんなふうに言われることもあるけれど。


日常の「しきたり」や

物事に対する「こだわり」は、

これでも少し「捨てた」ほうで、

かつてに比べて少なくなったと感じる。


自分自身、

言うほど何も考えてはいないから、

日常のなかで、たいして大変だと思ったことはない。



それでも、大変だ、と思う場面はある。



高校時代から

同じメーカーのリップクリームを使い。

10代の後半から

同じブランドで、新しい柄のパンツを買い。


ボディソープや調味料、

画材や文具などの消耗品は、

これ、と「決めて」気に入ったものを、

買い替え、買い足し、

ずっと使いつづけている。


だから、廃盤になったり、

仕様が変わってしまったりすると、

本当にかなしい。


気に入ったものを探す旅に、

また、出なくてはいけないから。


「こんどの旅は、長旅になりそうだ」


置き手紙も残さず、心のうちで、

いとしのジェニーに別れを告げて、

寝顔にそっとくちづけするよな、

そんなはてなき、きびしい旅路もある。


ずっと使いつづけてきたのに。

いまだ見つからぬまま、

探し求めて放浪しているものもある。



だからこそ、

物を買うときには、

長くつき合えそうか、長くつき合ってくれそうか、

その点が重要だったりする。



長く生きていると、

いろいろなことがある。


出会い、別れ、すれちがい。


気に入った蝶々柄のパンツが透け透けになって、

唇を噛んで泣く泣く捨てたこともある。

落してなくしてしまって、

見つかったこともあれば、

二度と手に入らなかったこともある。



ときに、うれしい再会もある。


再販や復刻、中古品など。


「しばらく会わなかったのに、全然変わってないね」


うれしさに、時間すら一瞬にして

飛び越えることがある。



そのまた逆も、ときにはある。


元の姿が分からないほど

すっかり変わり果ててしまって。


「じゃあ、また。・・・元気でね」


と、手をふって、

また来た道を引き返す。


お気に入りだったお菓子と、

そんなかなしい別れを味わったこともある。



紙質が変わったり。

プリント(印刷)だったものがシールになったり。

プラスチック部分がクリア(透明)になったり。

薄手になったり、色味が変わったり。

塗りごこちが重くなったり、軽くなったり。

味が薄くなったり、

余分に感じるものが加わったり。



多少のことであれば、

 おれだって寄り添ってあげられる。

 そう、おれはそんなにわがままな男じゃないぜ



速度なのか、それともその仕様(中身)なのか。

変わりゆくその姿が、

自分にとって心地よく、

変わりながらも

ともに歩みつづけられるものもある。



いいものは、最初から変わらないし、

変わっても、ぼくらを置いていってたりはしない。



そんなこんなで。

もう、30年近く使いつづけている物もある。


こわれても、できうるかぎり修理して、

ずっと同じものを使う。


たとえ古くなっても、

使えば使うほど、よくなってくるから。


だからぼくは、

直してくれる人、修理してくれるお店を尊敬している。


オーダーを訊いて、

具現化してくれる人たちを尊敬している。


いいものを、なくなってしまわないよう

大事にしてくれている人たちを尊敬している。



「希少というものは、

 光を浴びた石ころにすぎない」



とは、かつてのぼくが

物語の冒頭に書いた一節だが。



変わりながらも、

なくならないよう、

ずっとそこにあってほしい。



造花のようなうつくしさではなく、

ガラスケースに入れられた高級花でもなく、

ただそこに咲き誇る、野花のごとく。


変化はしても、

存在自体は変わらないでほしい。



もちろん、そんなことは無理なんだろうけれど。

なるべく、無理じゃない感じになるといい。





★ ★ ★




いったい何の話やら。

自分でもよくわからないけれど。



そのくせじっとしていられない、

おしりの落ち着きのなさはお墨付き、

要・蟯虫(ぎょうちゅう)検査の家原でございます。



「まだ見ぬおもしろい景色はないものか」


俗にまみれた雲水は、まだ見ぬ境地を求めて、

今日も行脚の旅へと歩みを進めるのでありました。



そう。


もともとこたえなどない旅でございますゆえ。

理由など、存在しないのであります。



ただ、思うまま、

行く雲のように、流れて止まぬ水のように。


捨てたり、変えたり、大事にしたり。

さがしたり、見つけたり、執着したり。

型にはまったり、型からはみ出したり。



座して半畳、寝て一畳。

歩く姿はユリの花。



形は変われど、そのもの自体は変わらない。



結局のところ、

思うまま、感じるままに歩みつづける、

俗まみれの雲水なのであります。




< 今日の言葉 >


『貴様ら! おれは一生懸命やってるんだ!』

ふざけてばかりで真面目にやろうとしない4人に対して発した
 師範役であるザ・ドリフターズのリーダー、いかりや長介氏の言葉。
 『8時だヨ!全員集合』「ドリフの剣道 宮本武蔵は一日にしてならず」より