2009/08/25

福袋の中身 〜はずれかあたりか〜


つい先日の話。
とある玩具店兼駄菓子屋で、
店先に「福袋」のようなものが置かれているのを見つけた。

シワだらけの、髙島屋の紙袋と、茶色の紙袋。
おそらく「リサイクル」と思われるその袋には、
5センチ四方の紙がセロテープで貼りつけてあり、
そこに『60』と手書きの文字で記されていた。

どうしても中身が見てみたい。
赤白カラーの髙島屋の袋と、茶色の紙袋。
違いがあるのかないのか。
それも分からないので、両方買うことにした。

店内には、高校生だろうか、
10代半ばくらいの女の子が所在なく立っていた。
彼女が店番をしているのだろうか。

そう思っていると、背後から灰色頭のおばちゃんが現れた。

「今日、店のおばあちゃんが出かけてるから。
 値段が書いてあるものなら、いいですよ」

といって、笑顔で迎えてくれた。
このおばちゃんも、どうやら店番を任されているひとりらしい。

紙袋を指差し、聞いてみる。

「これって、60円ってことですよね?」

「60って書いてあるもんね。うん、60円でいいと思うよ、たぶん」

迷いながらも、笑顔でにこにこと答えるおばちゃん。
その、店番のおばちゃんがいうには、
店の主は、89歳の「元気なおばあちゃん」で、
今日は町内の用事で出かけているとのことだった。


店内に入ると、
最近のおもちゃから懐かしいおもちゃ(70〜80年代)までが、
新旧入り交じって、ごくごく普通に売られていた。

ひととおり「パトロール」したあと、
ふたつの紙袋をいったん「レジ」前に置き、
手づくり感満載の「くじ引きボックス」に目を向けた。
『1かい30えん』と書いてある。
そばには、くじの景品らしきキーホルダーがいくつもぶら下げられていた。

そのなかのひとつ、
キャラクターものの黄色いキーホルダーがどうしても欲しくなった。
どことなくにせものっぽい、ぼんやりした造形のキーホルダーだ。


くじ引きボックスのそばには、
おそらく店のおばあちゃんの手によるものであろう、
くじの景品用らしき「説明書き」が貼りつけてあった。

広告の裏に、ボールペンで書かれた景品一覧。
そこには、こんなふうに書かれていた。

『1とう 600えん
 2とう 300えん
 3とう 100えん
 けいひんにはそのほかいろいろなものがあります
 あたった商品をもらわないとはずれになります
 はずれは10えん分のおかしです』

最初、意味が分からなかったけれど。
じわじわと意味が分かってきた。

1等や2等、3等が出れば、
くじがそのまま「商品券」として使えるということらしく、
あとはくじに書かれている「景品」がもらえるのだろう。
それを「拒否」すると「はずれ」になる。
はずれは、店内にある駄菓子コーナーから
好きな10円のお菓子が選べてそれをもらえる、
・・・という「画期的な」システムだ。

くじ引きボックスそばのキーホルダー。
店番のおばちゃんといろいろ「交渉」していくうち、

「そうだね。くじの近くにおいてあるから、たぶん景品だよね」

という結論に落ち着いた。

さっそく、くじを引いてみた。
町内会のお祭りで使うような、三角形に折った紙製のくじ。
ホッチキスで留められた部分をバリっと開く。

真っ白だった。
中には何も書かれていない。
どうやらこれは「はずれ」らしい。

キーホルダーが欲しかったぼくは、
もう百円渡して、あと3回チャレンジすることにした。
限度を決めないと、きりがないからだ。

再チャレンジ1回目、白紙。はずれ。
2回目、白紙。はずれ。
そして3回目。
白紙、はずれ。

全部、はずれだった。

何も書かれていない、白紙のくじは、
「はずれ」と書かれているよりも「スカ」感が大きい。
何ひとつ「メッセージ」がないので、
まるで相手にされていないような感じがする。
ぼくは「あたり」というより、
白紙以外の、何か文字が書いてあるくじが見たくなった。
けれども。

「今日のところはこれくらいにしておいてやろう」

よくある捨てゼリフを心の中でつぶやいて、
白紙(はずれ)のくじをおばちゃんに渡した。
最初の「はずれ」はすでに『ラブラブ・グミ』という
ハート形のグミと交換したので、
はずれ券が3枚ということになる。

「はずれが3枚だから、30円分のお菓子でもいいよ。
 いいよね? そういうことだよね?」

自分で出した気の利いた提案に。
ちょっと自信なさげなおばちゃんは、
お客のぼくに同意を求め、聞いてきた。

「いいと思うよ」

そういって、ぼくは
30円の『シャーベットペロ』というキャンディをもらった。
グレープ味しか置いていなかったので、味は選べなかった。

ぼくは、接客をしてくれたおばちゃんにいった。

「また今度、おばあちゃんのいるときにくるよ。
 おばあちゃんと仲良しになったら、
 はずれでもあのキーホルダー、くれるかもしれないし」

するとおばちゃんは、

「どうかなぁ。あのおばあさん、
 そうとうケチ・・・っていうか、しっかりしてるから」

と、あわてて言い直した。

それを「裏付ける」かのように。
レジ前の卓上を覗くと、
はずれの券がどっさりと、輪ゴムで束ねてあった。
ふと見ると、すぐそばに「11:00 集金」などと書かれたはずれ券が、
セロテープで卓上に貼りつけてある。
おばあちゃんは、白紙のはずれ券をメモ用紙として
再利用しているらしかった。

それを見た店番のおばちゃんは、
分厚くまとめられたはずれ券にならって、
ぼくのはずれ券4枚も捨てずに束のなかにまとめた。


店から出るとすぐに、
「福袋」を開けて中を見てみた。
まずは、赤白の、髙島屋の紙袋から。

出てきたのは『遊戯王』のカードの空き箱と、
輪ゴムで束ねられた『遊戯王』のカードが数枚と、
最近のアニメらしきキャラクターの描かれた、丸いメンコが数枚。
そして、ガチャガチャのカプセルに入ったスーパーボールがひとつ。

続いて茶色の紙袋も開けてみる。
出てきたのは『遊戯王』のカードの空き箱と、
輪ゴムで束ねられた『遊戯王』のカードが数枚と、
ガチャガチャのカプセルに入ったスーパーボールがひとつ。
そして、ガチャガチャのカプセルに入った「鈴」がひとつ。


「・・・・・・。」


しばらくのあいだ、
デューク東郷のごとき沈黙がぼくをおそった。

カプセルに入った、鈴。
紅白のヒモがつけられた鈴が、ガチャガチャのカプセルに入っている。
トラディショナルで、純和風デザインの鈴が、
工業的で、チープなカプセルに入っている。

この「シュール」な見えづらに、
少しばかりの光明を見いだしはしたものの。

全体的に、「はずれ」だった。

そして思った。

店のおばあさんは、かなりの「やり手」だと。
まんまと鈴の音(ね)に「だまされた」ぼくは、
すっかりおばあさんの術中にはまった、ということだ。




帰り道、庭に作品をつくっている芸大生の所に寄った。
あいにく誰もいなかった。
だから、休憩場所らしきテーブルの上に、
『遊戯王』のカードとメンコを置いてきた。

広場に行くと、小学校の先生が「ワークショップ」の片づけをしていた。
そこに、小学生のガキがふたりほどいた。

『遊戯王』のカードの話をすると、

「えつ、どこにおいてきたの? ここからとおいの?」

などとしつこく聞いてきた。


仕方なく、取りに戻ることにした。

芸大生の庭は、思ったより遠かった。

ちょっと急いだ。

庭が、想像以上に遠いことに気づいた。

途中、本気で走った。

別に急ぐ必要はなかったのだけれど。
広場に戻ってみて、ガキがいなくなっていたらかなしいので、
長距離走のように走った。
ひとり、『走れメロス』のような気持ちになって、
ひたすら走った。

すぐに息があがってきたので、
鼻で2回吸って、口から大きく吐き出す呼吸法で走った。
裸足にゴム草履だったけれど、意外に走りやすかった。

『遊戯王』を手にして、広場に戻る。
汗だくだった。

ガキどもは、ぼくのことなどそっちのけで、
『遊戯王』のカードやメンコに夢中だった。
取りあうように中身を見て。
ガキふたりを中心に、わいわいと興奮していた。
ぼくにとっての「はずれ」も、
ガキどもにとっては、なかなかのものだったらしい。

そのあと、ガキどもといっしょにメンコをやった。
ぼくだけがメンコをめくることができた。
ガキの世界では、ぼくがいちばん「えらい」のだ。

「これ、いくらだったの?」

とガキが聞いてきた。
ひとつ60円だったと説明すると、「高い」とのことだった。
やっぱり、おばあちゃんは「やり手」だったのだ。

メンコに飽きたぼくは、

「ブラジルに帰る」

といって、ガキと別れた。

ガキと遊ぶのはきらいじゃない。
けれども、ガキが好きなわけでもない。
ぼくはただ、たのしく遊べればいいだけだ。

ガギと遊ぶのは、ちょっとたのしい。
だってガキは、「でたらめ」を話しても信じてくれるから。


< 今日の言葉 >

『島にないもののことを言っちゃダメ!』

(映画『十五少女漂流記』で、あれが欲しいこれが欲しいと
 「ない物ねだり」をする仲間の少女をいさめる奥山佳恵)


2009/08/19

見えたり見えなかったり


昔読んだ本に、こんなことが書いてあった。

イギリスの航海家、キャプテン・クックが、
島の岸に大きな船を停泊させていた。
山ほどもある大きな帆船。
けれども島の人たちには、その大きな帆船の姿が見えなかった。
それは、これほどまでに大きなものを一度も見たことがなかったためだと。

つまり、目には映っていたけれど、
知覚(意識)はされなかった、ということだ。


先日、お坊さんが、こんな話をしてくれた。

「桜、と言われて、想像するのはどんな映像ですか。
 おそらくいま頭に浮かんでいるのは、花が満開の、春の『桜』ではないでしょうか。
 では、いま現在、桜はどうでしょう。桜は、ないのでしょうか。
 ・・・・そうではないはずです。
 ただ花が咲いていないだけで、桜の木は、いまもそこにあるのです」

お坊さんの話は、そこから西行法師の辞世の句の話に移り、
最終的には「輪廻」の話になったので、
「見えないもの、見えていないもの」という話がしたかったわけではないのだろうけど。
夏や秋や冬に、桜の木を見つけると、
春の、桜が満開の様子を想像したり思い浮かべたりすることがある。

春になると、やたらと「ちやほや」される桜の木。
桜の木肌や枝ぶりは、夏でも秋でも冬でも、見応えがある。


見えないだけで、そこにある。
見ようとしていないだけで、そこにはある。

お坊さんの話を聞いて、そんなことを思った。


英才教育、というものがある。
幼いころから美術や音楽、スポーツなどを始め、
早くからそれに慣れ親しむことをいうのだけれど。

始めた年齢が早ければ早いほど、
感覚(色、形、音楽、知覚など)に対する脳の割当が大きくなるのだという。


『色彩領域がとくに発達した人なら、三次元のフォルムが最初に印象に残る。
 輪郭がまず目に入る人もいれば、細部から見る人もいる。
 目の前にある原材料は同じなのに、意識されるイメージは変わってくる』
 (『脳と心の地形図』リタ・カーター著 養老孟司監修/原書房)

逆に、生まれて間もない動物に、
視覚の一要素(例えば水平の線など)をわざと見せないようにすると、
成長してからも「正しく」見ることができなくなるそうだ。

細胞のなかには、ある特定の刺激に対して反応を示すものがある。
赤に反応する細胞。
素早く動くものに反応する細胞。
甘い匂いに反応する細胞・・・など。

使わなければ、道具も錆びる。
磨かなければ、道具もなまる。


同じ赤を見ても、その「赤さ」はみんな違う。
同じ映画を観ても、
見えなかったり、見逃したり、見過ごしてしまったり。
ある一定の部分をじっくり見たり、
全体像を大きく捉えたり。

同じ音楽を聴いても、
聞こえたり、聞こえなかったり、
感じたり、感じなかったり。
人によって、
見え方も感じ方も違う。

知覚(感覚)の「密度」。
その密度が細かければ細かいほど、
いろいろな情報や刺激が手もとに飛び込んでくる。
逆にその「密度」が粗ければ、
いろいろな情報や刺激が、ぽろぽろと手もとをすり抜けていく。


粗すぎてもいけない気がするけれど。
細かければいいってものでもないと思う。


ときどき、世界が「模様」でできているように見えたりする。
ざらざらした水玉模様や、なみなみの縞模様。
不規則な格子模様や、規則的な四角形の繰り返し。
人工的な無機物でも、自然にできた有機物でも。
世界は、いろいろな「模様」でできているように見えることがある。

それは「模様」を意識して、
「模様」を中心に世界を見ているからかもしれない。

意識。
見えるも見えないも、意識するかしないかが大きく関わってくる。
意識することで見えるものもある。
意識することで初めて見えてくるものもある。


先述の本のなかに、「共感覚」というものが出てくる。
これは、音が「見えたり」、
景色が「匂ったり」、味覚が「見えたり」する感覚の持ち主をいう。
先天的(生まれつき)にそういった感覚を持っていたり、
事故などによる脳への障害で起こったりする場合があるそうだ。

おそらくカンディンスキーは、
共感覚ではなかったのだろうかと。
うる覚えだけれど、たしかそんなふうに書かれていたように思う。

彼は、幼いころから音楽を学び、
一時は音楽家を目指した人だ。
彼にはたぶん、音が「見えて」いたに違いない。
音に、色や形があるのを、
彼は「視覚的に」感じていたのだろう。

彼は音を色や形にして、絵を描いていた。
もしかすると、
パウル・クレーにも音が「見えて」いたのかもしれない。


小さなころは、たしかに「お化け」や「怪物」が見えていた気がする。
空に浮かぶ怪物や、闇にひそむお化けなど。
想像力の仕業かもしれないけれど、
たしかに「見えないもの」が「見えて」いた。

歳を重ねるごとに、
知識ばかりが増えすぎて、
知覚のほうがずいぶん「ひ弱」になってきた。
そんな気がしないでもない。

見えないものでも、見えなかったものでも。
見ようと思えば見える。
見ようと思えば見えてくる。

銀色に光る宇宙船とか、
毛むくじゃらの怪物だとか。
人の心の中だって、見ようと思えば見えてくる。
空気の色や風の匂いも。
「見よう」と思えば「見えて」くる。

見えないものを追いかけて、飛んだりはねたりはしゃいだり。
そんなことばかりしていたら、
いつか本当に「おかしなひと」に思われちゃうのかもしれない。
そうなってしまわないよう、
授業中、先生に当てられたらハキハキちゃんと答えようと思います。


< 今日の言葉 >

『それよりも、私が気になったのは男たちの「目」。私の中の悪ナタリアが・・・』
(『ワールド・ダウンタウン』より)

2009/08/12

スーパーおばちゃん


最近、制作のため、ちょくちょく常滑(とこなめ)に滞在している。
いまは空家となった「離れ」が、
制作の現場であり、「生活」の場でもある。

ある日、作業をしていると、ふらりとおばちゃんが入ってきた。
扉は、風を入れるために開けてある。
おばちゃんいわく、

「電気が点いてたから」

とのことで、入るなりいろいろと質問を投げかけてきた。
いま何をしているのか、普段、どんな仕事をしているのか、
年齢はいくつか、嫁はいるのか・・・等々。
動かしていた手を休め、おばちゃんと向かい合う。

こんな調子で、いつもふらりとやってきては、
すうっと去っていく。

何の前ぶれもなくやってきては、
何かを思い出したかのように、突然「さいなら」と帰っていくのだ。
長いときは小1時間ほど話し込むこともある。


このおばちゃん、聞くところによると「スーパー主婦」らしい。
料理はもちろんのこと、
シュークリームやマドレーヌなどのお菓子づくりもお手の物。
普段着ているワンピースなども、おばちゃんの手づくりだ。
ぼくは、このおばちゃんを「スーパーおばちゃん」と(心の中で)呼んでいる。


そんな「スーパーな」おばちゃんぶりを聞いたあと。
スーパーおばちゃんが、パウンドケーキを焼いたからと、持ってきてくれた。
アルミホイル、いや、「銀紙」に包まれた手づくりのパウンドケーキ。
レーズンや、赤や緑やオレンジの「ドライフルーツ」が入っていて、
見た目にもすごくおいしそうだった。

食べてみると、ちょっと笑っちゃうくらいにおいしくて、
ひと口ほおばるたびに笑みがこぼれる味わいだった。

やさしくて、それでいてしっかりしていて。
中身がぎゅっと詰まったパウンドケーキは、
おばちゃん自身をそのまま表現したような感じだった。

「あんた、ごはんは食べたの?」

「まだ食べてない」

「なに、もう。ちょっと待っときな。ニンジンごはん炊いたの握ってくるで」

数分後、「ニンジンごはん」のおにぎりと、
キュウリのビール漬けを持って。おばちゃんが戻ってきた。
「ニンジンごはん」は、甘みの利いた炊き込みごはんのようなもので、
これまたやさしい、手づくりの味がした。

栗の甘露煮の小瓶に入れられた、キュウリのビール漬け。
もちろんこれもおばちゃんの手づくりだ。
甘みと塩味が絶妙で、おにぎりの「おかず」にぴったりだった。
初めて食べる味わいに感動しつつ、
結局ひと瓶、ぺろりと食べてしまった。


スーパーおばちゃんは、籐で編んだカゴの、乳母車を持っている。
職人の作った重厚な乳母車で、もう28年の付き合いだという。
こっそりカゴの部分に乗ってみた。
押しても乗っても、すうっと滑るような滑らかさだった。

スーパーおばちゃんは、ステンレス製の丈夫な自転車を持っている。
住所と名前を反射素材のネームシールに書いた、
これまた年季の入った自転車だ。
ハンドル部分には「手袋」が付いている。
暑い、いまの季節になぜ・・・?
よく見ると、レース素材のやわらかな布でできていて、
たぶん「日焼け防止」のためだと気づいた。
当然、おばちゃんのお手製だ。


あるとき、
晩ごはんのメニューを聞いていて、おばちゃんが言った。

「あと、ぬんめらこっち」

「ぬんめらこっち?」

「そう。ぬんめらこっち」

思わずおうむ返しにしてしまった「ぬんめらこっち」。
この「デーダラボッチ」ならぬ「ぬんめらこっち」は、
「ナマズに似た頭の、海のサカナ」らしく、
刺身にするとおいしいらしい。
いままで生きてきて、初めて耳にした呼び名の魚だ。


作業ズボンの破れを繕った「アップリケ」を見て、
スーパーおばちゃんは、

「パッテンコ」

と言っていた。
これが方言のなのか、
それともスーパーおばちゃんの「オリジナル」なのか。
よく分からないけど、
とにかくすごく新鮮な音の言葉たちだ。


スーパー(マーケット)で買い物をしていると、
さっきまで話していて別れたはずのスーパーおばちゃんが、
背後からいきなり、

「みりんはあったほうがいい。煮物にも使えるし」

と、いまのいままでそばにいたかのように話しかけてきたこともある。
「アサシン」のような気配のなさに。
みりんを手にして立ち尽くしたまま、思わず失笑してしまった。


そんなスーパーおばちゃんは、
たしかに「スーパー」なのだけれど。
町自体が「スーパー」な気もする。

レストランに行けば、せんべいやスイカや、
茹でたトウモロコシなんかがついてくるし。
帰り際、とれたての野菜がもらえたりもする。

居酒屋でラーメンを食べていると、
焼酎が一升瓶で丸ごと机に置かれて、
エイヒレをあぶったつまみが出てくる。
もちろん、お店の大将からの「サービス」で。

菓子屋でまんじゅうを買うと、
4個買って4個「おまけ」がついてきたりもする。

道ばたで絵を描いていても、
いろんな人が話しかけてくる。
これからマージャンに行くという、上下白いパッチ姿のおじさん。
イヌを連れて、雨も降っていないのに、いなり寿司みたいなカッパをかぶったおばちゃん。
質問はするけど、答えはあんまり聞こえない様子のおばあさん・・・。


小学校の帰り道、
近所のおばあちゃんに話しかけられたり、
駄菓子屋のおばちゃんに叱られたり。
最近、常滑にいると、そんなことを思い出す。

みんな「お母さんの心」を持った人たちばかりで、
みんな、いろいろなものをくれる。
お菓子や果物、おいしい食べ物だけでなく。
もっと大きくて、目には見えない「何か」をたくさんくれる。

おじちゃんも、おばちゃんも、おじいさんも、おばあさんも。
みんな、けっこう「スーパー」な人たちばかりだ。


「あんたは、ここの家の親戚か何かかえ?」

いいえ、と答えたはずなのに、
同じ質問を2度3度、繰り返されて。
それでも、なんだかいいものをもらったように感じられるから、
不思議でしかたない。



< 今日の言葉 >

「このあいだ、ああいうのを『ジャシコ』で買ったんだけどね」

(おそらく『ジャスコ』のことを話している、バスの中のおばちゃん)