2024/05/05

エリックとロバート

 

CN tower (2007)






2006年、

カナダ・トロント。


滞在中に書いた日記が

手元にないので、

正確さと詳細に欠ける話かもしれないが。


ときどきふと、

思い出すことがある。


エリックと、ロバート。


それは、

カナダ滞在中のある日のことだ。



* *



友人に連れられ、

エリックの元を訪れた。


エリックとは、この日が初対面で、

ロバートから誘われての訪問だった。


「彼が喜ぶから、ぜひ来てくれ。

 日本の話とか、

 いろいろ話してあげてほしい」


そんなようなことを言われた。


トロント郊外だったか。

正確な場所は忘れてしまったが、

着いたのは、

アパートのような、

何かの施設のような感じの

建物だった。


10階建てくらいか、

それとももっと高かったか。

コンクリートの建物を、

地上から見上げた記憶だけは

鮮明に残っている。


「こんにちは」


「いらっしゃい」


そんなやり取りのあと、

簡単な自己紹介が交わされた。


エリックは、25歳(だったと思う)。

自分たちより歳下で、

20代の青年だった。


「やぁ、こんにちは!」


明るく笑う彼の声は、

嬉しそうに弾んでいた。


エリックは、

20代になったばかりのころ、

川に飛び込んで背骨を折った。


以来、歩くことができなくなった。


エリックは、

ベッドの上で暮らしている。

ぼくらを迎えてくれたのも、

ベッドの上からだった。


ベッドの背を起こし、

明るい声でぼくらを迎えたエリックは、

興奮気味に

いろいろ話し始めた。


それほど英語が

堪能だったわけでもないので、

ぼくらはほとんど聞き役だった。


ときどき彼に質問したり、

そうなんだ、と合いの手を入れたり。

エリックにとっては、

それでも充分、嬉しいらしく、

心からはしゃいでいる様子だった。


アパートメントなのか、

施設の一室なのか。


白く清潔な室内は、

がらんとしており、

病棟のような雰囲気だった。


間口の広いシャワールールは、

ベッドのまま入ることができ、

つやつやと光る床は

すべてフラットだ。


キッチンもあったが、

エリック本人が使うのではなく、

介助をする人が

調理をするためのものである。


ロバートは、

エリックの介助をする一人だった。


身の回りの世話をしたり、

話し相手になったり、

何かを買って届けに来たり。

こうして「友人たち」を

招いたりするのも、

ロバートの「役割」だった。


といっても、何かの契約や、

仕事といった感じではなく、

好意のような形で

その役目を担っていた。


ベッドに座ったエリックは、

尽きることなく話し続ける。

ぼくらを飽きさせないよう、

まるで沈黙を恐れるかのように、

途切れることなく話し続ける。


話が途切れてしまったら、

みんなが帰ってしまうんじゃないか。


そんな気持ちが

伝わってくるような、

熱を帯びた話し方だった。


「あ、そうそう、これ見てよ。

 すごく面白いよ」


などと、リモコンを手に、

たくさんのチャンネルの中から

画面を選ぶ。


手元には

4つほどのリモコンが並んでおり、

テレビや映画、音楽などが、

ベッドにいながらにして視聴できる。


エリックは嬉しそうに笑って、

次々とお気に入りを披露する。


親戚の子どもが、

自慢のおもちゃを見せてくれるように。

自分の部屋に、

1分でも長く留まってもらえるように。


ぼくらを

「もてなして」くれる

エリックの姿は、

そんないじらしさと

懸命さが同居していた。


「・・・・はぁあ」


笑いのあとに、

短かい沈黙が生まれる。


そのとき、

眼鏡の奥で見せるエリックの目は、

どこかさみしげな、

ここではない何かを見ているような、

そんな色に沈む。


ほんの一瞬だけれど。

おそらくそれは、

楽しさの陰にひそむ、

エリックの「素顔」でも

あるように思う。


嬉しさに勝る、さみしさ。

楽しさのあとに訪れる、さみしさ。

ごまかしきれない感情。


それでもエリックは、

今、このひとときを

心から楽しむように、

嬉しそうに、楽しそうに、笑っていた。


ぼくは、英語が堪能でない自分を、

悲しく思った。


だからこそ、必死で耳を傾けた。

話し相手としては、

物足りなかっただろうが。

拙い語彙力で、

エリックの会話を楽しんだ。


「あれは、何?」


ぼくは、

誰でも話せるような

簡単な質問をした。


ぼくが指差す先には、

窓辺でくるくると回り続ける、

銀色のモビールがあった。


何か、ということは、

聞かずともわかっていたが。

話題の糸口として、

エリックに尋ねた。


「ああ、あれは

 CNタワーのモビールだよ」


タワー好きなぼくにはたまらない、

高さ世界一を誇る(当時)、

カナダのタワー。


CNタワーには、

もう登っているのだが、

こんなかっこいいモビールは、

土産物店でも、

周辺の店でも見かけなかった。


「どこで買ったの?」


「・・・もらった物だから、

 わからないなぁ」


そんなやり取りのあと、

ぼくらは、

ゆるやかに回り続ける

銀色のモビールを眺めていた。


薄い、金属製のモビールは、

風のない部屋の中で、

ぐるぐると、ゆっくり回り続ける。


年輪のように、

たくさんの輪が

何重にも重なった形状で、

中央にタワーの形をした部分がある。


銀色の肌に、

景色や光の、さまざまな色を映しこみ、

見ていると吸い込まれていきそうになる。


永遠に続く光のトンネルみたいに。


ぐるぐるとぼくらに

魔法をかける。


しばらく息をするもの忘れ、

きらめきながら回転するモビールに、

目だけでなく、

心も奪われていた。


あの時間。


それほど長いわけでもないはずなのに、

永遠にも感じた、あの時間。


ぼくらはたしかに、

「ここ」ではないどこかへ、

旅に出ていた。


こういうのを、

「トリップ」というのかもしれない。


いつまでも、

ずっと見ていられる。

ずっと、見ていたい。


言葉はなかったけれど。

深く、やわらかで、

居心地のいい、静寂だった。



* * *



エリックの部屋を出て、

ぼくらは屋上へ行った。


ロバートは、

くるくると巻いたたばこに火を点け、

青い空に紫煙を履いた。


風のない青空に、

白い煙が溶けてにじんだ。


「来年から、

 日本に行かなくちゃいけない」


手すりにもたれたロバートが、

煙と一緒に、

ふうっと長い息を吐き出した。


先生の仕事で

来日するとのことだったが。

何やら浮かない顔をしている。


そのわけを尋ねると、

ロバートが真面目な顔で、

笑わずに言った。


「Because ,

   can't smoke in Japan」


・・・そのときは何も

思わなかったのだけれど。


少し経って、いろいろ思った。


ロバートは、

エリックの介助をしながら、

一緒に「医療大麻」を

吸っていたのだろう。


カナダでは

医療大麻が認められており、

おそらくエリックは、

それを処方されていた。

たしか、そんなようなことを

言っていた(気がする)。


日本では吸えない。


ロバートの憂鬱は、

そこにあるらしい。


日本のどこに行くのか、

という問いに、

ロバートが返した答え。


「IKOMA」


真面目顔のロバートと、

どこかそぐわない音色で。


そのときぼくは、

ほのぼのとした心地で、

ふふふ、と笑った。


ぼくの頭の中には、

生駒山頂遊園地の風景と、

大仏や茶がゆや鹿の姿とともに、

渋い顔のロバートが

先生をしている姿が

ゆらゆらと浮かんだ。


ぼくは思った。


お酒もたばこも悪くなないが。

そんなものがなくても、

「旅」には出られると。


エリックの部屋で味わった、

濃密な時間。


記憶と体験。


旅の扉は、自分で開けられる。


ただ、その開け方を、

忘れているだけ。

忘れてしまっただけだと。


走り回る子どもには、

お酒もたばこも、何もいらない。


なくしたんではなく、

忘れてしまっているだけだと。



* * * *



フルネームも知らない、

エリックとロバートとの

思い出の断片。


それが何かということよりも。


ふと、思い出したことに

意味がある。


2006年。


ワールドカップで

イタリアが優勝した年。


ジネディーヌ・ジダン選手が

相手にヘディングした年。


セント・クレア・ウエストの駅前では、

優勝を祝うイタリア系カナディアンが、

びっちりと景色を埋め尽くしていた。


2006年。


気づけば早18年。


探し物をしていて、

18年前に書いた「物語」を

見つけたせいもあるのか。


ふと、そんなことを思い出した。



18年前に書いた物語。


もう一度読み直し、

まとめ直して、投稿してみた。


18年の歳月。


うまくは言えないけれど。

止まったままの時計を手にして、

時間旅行に出かけたような。


そんな、気がした。



< 今日の言葉 >


鉛筆の削りかすを、

『ルマンド』の破片と思ってかじり。

消しゴムの消しかすを、

おじゃこを間違えてご飯にのせて。

本を読んでいて、

大航海時代、

コロンブスが発見したものを、

「新大陸」ではなく

「新大阪」だと読み違えて。


ついにここまできたかと、苦笑い。