2009/03/15

迷惑な人たちが僕らのじゃまをする


「衝撃が走っている」(2009)




「メール」というものを過信していた。


つい最近になって、
友人からのメールが
自分の手元に届いていなかったことを知った。

つまり、

「メールを出したはずが、
 届いていなかった」

ということだ。

電話なら、
電話番号が履歴に残る。

残されている履歴に友人のものがあれば、
その友人にかけ直せばいい。

逆にこちらから電話をかけた場合でも、
いなければ(つながらなければ)
「留守」だと分かる。

呼び出し音や、アナウンスの声が
それを知らせてくれるからだ。


メールでも、何らかの理由で
「突き返された」場合、
『ノット・デリバリー』
という結果を知らされることがある。

それは、電話でいうところの
アナウンスのようなものだ。

何にせよ相手が出られない
(つながらない)状態だということを、
知らせてくれる。

それなのに。

「電子メール」では、もし届かなくても、
履歴はおろか、相手が送ったという形跡すら
残らない場合がある、と。

それを、つい最近なって
ようやく「実感」した。


ひさびさに再会した友人らに、
「メール送ったのに」とか、
「えっ。返事送ったのに、届かなかった?」
と言われて。
初めて「行き違い」だったと知ったのだ。

メールがもし届いていなくても、
出した側はそれに気づかない。

「送信済み」という印が
手元に残されるのだから。

きちんと「届いた」ものだと安心して、
相手からの返事を待つ。

けれど、届かなかった相手の側には、
送ったということが伝わらないのだから。
何も送られていないものだと思い、
何も知らないままでいる。

ここで、行き違いが起こる。

行き違いは、メール
(メッセージ)そのものだけでなく、
それぞれの認識の行き違いでもある。


「送ったのに無視された」

「あいつは約束を無視するいい加減なやつだ」


お互い、
行き違いだということには
全く気づいていない。

それでは、ときに
問題を起こしかねない。

何ひとつ手がかりを残さず、
こつ然と姿を消してしまうメール。


その原因は、どうやら
「迷惑メール」にあるようだ。


毎日、多ければ何十から
何百と送られるダイレクトメール。

みんなはその「迷惑」な
「メール」を受け取らないために、
「迷惑メール」を拒否する
「壁」をつくっている。

けれども、使っている機器の
機能や機種の違いによって、
「迷惑」という認識が違ったりもする。

迷惑を「検出する」フィルターの
網目が違うのだ。


コンピュータのシステムは、
送られてくるメールを機械的に、
「迷惑メール」としてはねのけてしまう。

コンピュータは、
ただただ言われたことを
しっかりと真面目にこなしているだけだ。


罪もなければ責任もない。


迷惑なメールのせいで、
大切な手紙が届かなくなる。

あるべき予定が狂ってしまう。


何のオチも工夫もない話だけれど。
つい今しがた、それを痛感した。

メールが不安定だということに。


電話や手紙などにも、
「迷惑」な種類のものはある。

それでも、
「迷惑かどうか」を選ぶのは、
あくまで自分自身の意志だ。

自分で見て、聞いて、感じて、
自分のものさしで選ぶ。


まだまだメールを
過信してしまっていた。


手紙の文字。

電話の声。

そして実際の顔や声の調子。

言葉づかい、紙の種類、
ペンの色、文字の形。

声の抑揚、表情、服装、
髪型、話の内容・・・。


電波や電気、電子などを介さない、
直接会っての「生」のやりとりが、
やっぱりいちばん誤解がない。


どうしてもそれが言いたくて。
こうしてオチのない話を
つらつらと書いた。


迷惑な人たちは、お金で動く。

そんな人たちに、
じゃまなんかさせない。

いくらバカだからって、
ひとつのものだけに頼ったりしない。
そいつのいいところだけを、
いい感じに使う。


人のつくり出したものだけに
頼り切ったりしない。

いつも頼れるのは自分の感覚。

最後にものを言うのは自分自身で、
結局は使う側にあるってことだ。