2009/11/09

リンちゃん


これは、友人から聞いた、
リンちゃんという子の話だ。


彼女は「林(はやし)」という名字で、
自己紹介のとき、

「あたしのこと、リンちゃんって呼んでね」

と自ら言った。

リンちゃんは、自分自身の名前(下の名前)が
男みたいな名前で気に入っていないらしく、
みんなに「リンちゃん」と呼んでもらうよう喧伝しているのだ。

リンちゃんは、野球観戦と競馬が好きな20代の女の子。
とある会社で、販売業務(接客業)をしている。
お母さんは病気で療養中。
お兄さんはどこかに失踪中。
おもに、お父さんと生活していて、
休暇などにはお父さんと2人、旅行に行ったりする。

リンちゃんは、どちらかといえば、
同年代や歳下の男性より、
歳上の、お父さんくらいの年齢の男性が好みらしい。

職場でも、同年代の男性と話すより、
出入りしている業者さんなどの、
いわゆる「おじさん」と話すことのほうが多い。


そんなリンちゃんの、
かわいらしいエピソードがある。


あるとき、リンちゃんからお菓子をもらった。
どこかのおみやげらしい、個封包装のお菓子。

「あ、これ。お菓子あげる。
 別にお返しとか、いいからね」

お菓子を差し出しながら、
リンちゃんがうれしそうに言う。
リンちゃんは、そうやっていつも、
みんなにお菓子を配って回る。
そして去りぎわ、もう一度、
念を押すかのようにリンちゃんが言う。

「あ、別にお返しとかいいからね」

リンちゃんのくれた「おみやげ」のお菓子。
そのお菓子は、ほかの誰かが旅行に行った「おみやげ」だったと。
休憩室に行って、あとで知った。


また別のあるとき。
仕事が終わったリンちゃんは、
着替えを済ませ、更衣室を出た。

「おつかれさまでーす」

入れ違いに戻ってきた同僚の子と、廊下ですれ違った。
その子の手には、出先で買ったお菓子の袋が握られていた。
それを見たリンちゃんは、

「あ、忘れもの」

と、踵(きびす)を返し、
いったんあとにした更衣室へと戻る。

更衣室に戻ったリンちゃんは、
机の上に広げられたおみやげを見て、

「あれっ、どこのおみやげ?」

と、あくまで「自然な」感じで、お菓子に気づく。

「このお菓子、もらってもいい?」

遠慮がちに、お菓子をもらって帰っていくリンちゃん。

そのお菓子は、自分で食べることもあれば、
先のように、誰かへの「おみやげ」として配られることもある。


ぼくは、
リンちゃんに会ったこともなければ、
直接話したこともない。

けれども。
そんな「けなげ」なリンちゃんを、かわいらしいと思う。

お菓子が好きで、
お菓子をあげれば、みんな喜んでくれると、
純粋に心から信じているリンちゃん。

そして、
ちょっとだけ「計算高い」「小ずるさ」も持ち併せている小悪魔ガール。


不器用で、怒られやすくて、
「損」をすることの多いリンちゃんは、
お客さんからの「クレーム」が積み重なって、
結局、会社から「退職」を命じられてしまったそうだけど。

今日もどこかで、
職場のみんなにお菓子を配っているかもしれない。


「あ、別にお返しとかいいからね」


お菓子をあげれば、誰もがみんな喜んでくれる。
そう信じて疑わない、まっすぐな目で。



< 今日の言葉 >

「こーなりパスタ」 (コンビニの広告で見たキャッチコピー/抜粋)


2009/10/28

雨のエンパイア


ニューヨーク。
文字にするだけで、何だかおしゃれに感じる。
そんな街に、ふらりと立ち寄ったのは、
もう何年か前の話だ。


ぼくは、タワーが好きだ。
エッフェル塔にも行ったし、
カナダのCNタワーにも行った。
目的は「観光」でもあり、
タワーの置物を買うためでもある。

ぼくの部屋の片隅には、
世界のタワー置場がある。
もちろん、日本のタワーもある。
誰かのおみやげのタワーや、
どこかの店で買ったものもあるけれど。
たいていが現地へ行って買ったものだ。

タワーの材質は、
できれば金属(アンチモニーやアルミ合金など)で、
「よけいなこと」をしていないものがいい。

そんなふうにして、あちこちのタワーを集めている。
のんびり、ゆったり。
だから、タワーのある国は、
ぼくの行きたい国でもある。


数年前。
カナダの帰りに、
ひとり、ニューヨークへ寄った。

ニューヨークには、自由の女神がある。
エンパイアステートビルがある。
クライスラービルもある。
残念ながら、ワールド・トレーディング・センタービルは
なくなってしまったけれど。
たくさんの名物ビルがある。

ニューヨーク初日。
「15フィート離れて吸って下さい」と書かれたビルの前で、
数時間ぶりのタバコを吸ったあと。
一路、エンパイアステートビルへ向かった。

途中、みやげ物屋のおじさんに道を聞いた。
ぼくが日本人だと分かってうれしくなったおじさんは、

「ゴズーニ・ストリート、レフト。ゴズーニ・ストリート、オーケー?」

などと、数字だけが日本語(しかも「ゴズーニ(52)」と、かなりなまった感じで)、
ていねいに何度も説明してくれた。

そこで、ニューヨーク最初のみやげを買った。
いま、まさにこれから行く、エンパイアステートビルの置物だ。


大理石と真鍮(しんちゅう)を使った、エントランスの装飾。
・・・まあ、そんな内観の説明はよしとして。
エレベータで上階へ向かう。

チケットを買って列に並ぶと、
空港のような「ボディチェック」が待っていた。
ゲートをくぐると、横にずらりと並んだ孔(あな)から
プシュッ、と風が吹き出すタイプのやつだった。

ポケットの中身を全部出すよう言われたので、
サイフやパスポート、ライターやタバコ、ペットボトル、
みやげや地図やメモ帳などを次々と出していくと、

「おまえはソルジャーかっ」

と、係員のおっちゃんに突っ込まれた。
たしかに、履いていたのはアメリカ陸軍のカーゴパンツ。
大した英語力もないので、
肩をすくめて「てへっ」と笑うのが関の山だ。


待ちに待った展望階。
景色はもちろんだけれど。
何より先に、おみやげの「タワー」を見なければ落ち着かない。

みやげというみやげ、全部を触る勢いで物色する。
棚のすみに、アルミ製のエンパイアステートビルを見つけた。
昔ながらの風合いの、オール金属の一品だ。

あとで買ってもいいのだけれど。
何となく落ち着かないので、すぐ買うことにした。

ビルの先端、アンテナ部分の曲がっている物が多く、
奥から掘り返すようにして、まっすぐなのを選んだ。

ようやく見つけた完璧なエンパイア。
それを手に、レジへ向かう。
レジにいたのは、陽気な黒人男性だった。

「いいのを見つけたな」
「ナイスチョイスだ」

などと、まるで自分のことのように喜んで、
大きな声と身振り手振りで迎えてくれた。
白い歯をのぞかせて、
ダンスでも踊るようにして(実際、軽くステップを踏んでいた)
包装用のエアパッキンなどを取り出す。

片手に持ったエンパイア。
持ち替えそこねた男性の手から、
エンパイアが、床にゴトリと落ちた。

まっすぐだったアンテナが、
見事にぐにゃりとへし折れた。

口笛がやみ、
ステップがぴたりと止まった。

「・・・新しいやつ、持ってきてくれるかな」

男性が、ぼそぼそとささやくように言った。

さっきまで陽気だった姿が見る影もなく。
ものすごくどんよりとした顔つきになった。
ぐにゃりとへし折れたアンテナと同じく。
店員男性の気持ちも、へし折れたようだった。

ほんのわずか数十秒のあいだに、
男性の気持ちの「針」が、真逆に振れるのを目の当たりにしたぼくは、
何とも言えない苦酸っぱい気持ちで買物を済ませ、
展望バルコニーへと向かった。


マンハッタンの景色は、
ものすごくうそっぽくて、
それでいてすごくかっこよかった。

地面からビルが、にょきにょきと生えているような。
どこを見てもビルだらけの景色。
古いビル、新しいビル、窓、窓、窓。

ニューヨークの景色は、やっぱりニューヨークだった。


エンパイアステートビルの1階の、おみやげ屋。
そこで、キーホルダーや置物などをあれこれ買った。

道をはさんだ通り沿いのみやげ屋には、
結局、3回くらい足を運んだ。
そこでは、ほかの店からTシャツを持ってきてもらったり、
在庫をいろいろ出してもらったりと、
親切にしてもらった。


ニューヨーク最後の夜。
もう一度、エンパイアステートビルへ行こうと思った。
今度は夜のエンパイア。マンハッタンの夜景だ。

夕飯どき。
朝から降っていた雨が急に激しくなり、
地下鉄の出口でみんなが立ち往生していた。
しばらくすると、
折り畳み傘を売りに、何人かの人が現れた。
買う人もちらほらいたけれど。
ぼくは買わなかった。

花束を持った黒人男性が、
「おれの力で何とか雨をやませてやる」とか何とか言って、
空に向かって手をかざし、

「ストップ、レイン、ナウ!」

と、何度も叫んでいた。
初めのうちは微笑ましく見守っていたおばさんたちも、
次第に飽きてきたご様子で、
しまいにはぶつくさ言って、その場を離れはじめた。

ぼくは、履いていたぞうりを手に持って、
裸足で雨の中を駆け抜けた。
アスファルトの水たまりを踏みつけながら、
屋根から屋根へと走り抜けた。

どしゃ降りの雨の中。
ほんの10秒くらいで、全身ずぶぬれになった。
裸足のアスファルトと水しぶき。
それがすごく気持ちよかった。


エンパイアステートビルは、
2度目にして自分のマンションのように、
勝手知ったる感じで「入場」した。

屋上、展望バルコニー。
雨足が弱まり、霧雨の舞うマンハッタンの夜景。
おもちゃみたいにぴかぴかで、
きらきらしてて、
ちょっと照れくさいくらいにきれいだった。

どこかの国からきた、
まるで知らない恋人たちに頼まれて。
マンハッタンの夜景と恋人たちの写真を、何枚か撮った。

たくさんのビニール傘が咲いたバルコニーで。
1時間か2時間か、傘も持たずにうろついて、
ニューヨーク最後の夜を眺めていた。

最初の日と最後の日では、見え方が違う。
見てきた場所、歩いた場所が、光の中にあちこちちらばる。

ものすごいたくさんの、光の粒。

途中、あまりにもできすぎてうそっぽい夜景に、
笑いがこみ上げてきた。


そんな日のことを、
なぜだか急に思い出した。

雨に濡れた革靴のせいか、
それとも、教室の窓から見た街の光のせいか。

なぜだか急に、
雨のエンパイアを思い出した。


< 今日の言葉 >

「えっ、ゴリラ豪雨?」


2009/10/21

赤い記憶の記憶


先日まで常滑で開催されていた、
『常滑フィールド・トリップ2009』というイベント。
そのなかで、ぼくは「赤い記憶」と題した作品を展示させてもらった。


初日からの3連休。
台風一過の晴れ晴れとした空。

台風の影響で不通になっていた電車の復旧作業も前日までには終わって、
絵に描いたような快晴の日。
常滑を散歩するにはうってつけの日和になった。

そんな天候にも助けられて。
予想以上にたくさんの人が見にきてくれた。

常滑の、近所の人たち。おじちゃん、おばちゃん。
常滑滞在中、買物をしたり、ごはんを食べに行ったお店の人たち。
常滑で知り合った人たち。
仕事場の仲間や地元の友だち、
そして行きつけの美容院の、“専属スタイリスト”さん。
ぼくのクラスの生徒もきてくれた。

遠路はるばる電車に乗って、わざわざ、だ。

初めて会う人もたくさんきてくれた。

ぼくの作品は室内展示なので、
みんながゆっくりしていってくれているように見えた。
雨漏りでゆがんだ畳の上が、
いつもにぎやかな人たちでいっぱいだった。
2回、3回と見にきてくれる人もいた。
友人知人を誘って、何度か足を運んでくれる人もいた。


展示会場には、常滑滞在の記録(日記)が置いてあった。
ぼくが常滑で「遊んだ」記録だ。
汚い字で書いた、ごちゃごちゃした日記なのに。
それを手に取り、じっくり読んでくれる人がたくさんいた。
日記目当てに通いつめてくれる人も、中にはいた。

そんな人と、夜中、路上で偶然会った。
その人は昼間、コメダのカツサンドを差し入れに持ってきてくれた人だった。
カツサンドは、翌日の朝食にいただいた。
こんなにうれしい朝食は、そうそうない。

ほかにも、作品の制作記録を収めた「赤いアルバム」や、
常滑で描いたスケッチブックの絵や、
これまでに描いた作品のファイルも置いていた。

暇つぶしになるものが多かったせいもあり。
みんながのんびり暇をつぶしてくれた。


会場にいると、いろんな人と話ができてたのしかった。
見る人それぞれが、それぞれ違った意見を聞かせてくれる。

今回は、床の間に移動させた棚に、
おばあちゃんの遺品をそのまま展示させてもらったのだけれど。
苦言をいう人は、見る限りいなかったように思う。

みんな、「人間の業(ごう)」のような、
「人間くさい」部分を感じてくれたようで、
おもしろい話もたくさん聞かせてもらえた。

自分の祖母の部屋を思い出した、とか。
年老いた父親も、「ガラクタのような物」をためこんでいて部屋がいっぱいだ、とか。
田舎の祖母が、農作業のカマが目立つよう、柄(え)に赤い布を巻いていた、とか。
赤い生活用品が並ぶ棚を見て、

「最後にこうやって日の目を見ることができて。
 きっとおばあちゃんも喜んでるんじゃないかな」

「こうして見ると、祭壇みたいにも見えるね」

などと言ってくれる人もいた。


その右手の奥の部屋、
かつておばあちゃんが暮らしていた部屋。

そこは、おばあちゃんの遺した物でいっぱいになっていて、
足の踏み場もなかった場所だ。
ひとつひとつの物を見ながら、
じっくり1カ月半くらいかけて片づけて。

掃除をして、すっかり空っぽになった部屋を、
スプレーガンで真っ白に塗った。

ポリ合板の壁は、ペンキの食いつきが悪いので、
塗装する前にベルトサンダーで表面をはがした。

4回ほど塗って、真っ白になった。

部屋の奥から出てきた金庫も白く塗った。
ちなみに金庫の中からは、
クリスマスケーキの空箱が出てきた。

おばあちゃんが亡くなったのは、
2004年の12月25日、クリスマス。

クリスマスケーキの空き箱は、
何かの「メッセージ」なのか。
関係があるのかないのか。
答えは、ない。


真っ白に塗った、おばあちゃんの部屋。
そこに、赤いマジックで線を描いていった。
「引く」のではなく、線を「描いて」いった。

マジックのインクが切れるまで、ぐるぐると描く。
なるべく1本の線で、途切れることなく、
ぐるぐるぐるぐる描いていく。

この時間がたのしくて。
この時間がたのしみで。
最後までずっとわくわくしていた。


たのしいこと。うれしいこと。
悲しかったこと。つらかったこと。
おもしろいこと。どうでもいいこと。
昔のこと。最近のこと。
いままでに出会った人のこと。

いろんなことを思って、線を描いた。
そんな思いが、たぶん線に出たと思う。


最初のうちは、インクがなくなる前にペン先がつぶれた。
それがたいてい1時間弱くらい。
たんだん力のかげんも分かってきて、
インクを使い切ることができるようになった。

インクがなくなるのは、1時間から1時間半の間くらい。
60分から90分。
ほぼ一定の速さで、ぐるぐると線を描いていった。

天井や壁の高いところなどは、
長い時間描きつづけていると、だるくて吐きそうになった。

だから、疲れてくると、床に逃げる。
低い場所までぐるぐると線を描きながら、移動していく。

気持ちよく走る、赤い線。
このままずっとインクがなくならなければいいのに。
そう思うことも多かった。

最後は、どうしてもがまんできななくなり、
午前0時から朝まで一気に描きたおした。
7時間くらい、ぶっつづけで描いた。

朝、7:20。
終わったときにはうれしくて、
部屋の中をうろうろしつづけてしまった。

外は雨だったけれど、
晴れやかな気持ちだった。


そんなふうにしてできあがった「赤い部屋」。
見にきてくれた人が部屋に入った瞬間、

「わあっ」

という声がする。

笑い声が聞こえる。

子どもが走り回る。

なかには顔をしかめる人も、ひとりふたりみえたけれど。

みんな、自分の中にある「赤」を呼び覚まして、
それぞれの解釈で「赤」を感じてくれたように思う。

途中経過を見にきてくれて、

「たのしんで描いた線だから、たのしく見えるんじゃない?」

と言ってくれた人もいた。


結局、最終日まで、たくさんの人でいっぱいだった。
たのしんでくれている人の姿を見て、
ぼくもすごくうれしかった。

長いような短いような。
常滑での制作が、ひとまず終わった。

これで、何か「こたえ」が出たわけじゃないけれど。
今回の「赤い部屋」を通して見えたものは、
ものすごくいっぱいある。

それをいつか、
言葉にできる日がくるかどうかは分からないけれど。
とにかく、おもしろかった。
最初から最後まで、ずっとたのしかった。

初めて常滑にきた人たちが、
常滑をたのしんでくれたことも。
インチキ親善大使のぼくとしては、
うれしいことだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今回、常滑にきて下さったみなさまには、
ありがとうの気持ちでいっぱいです。

「赤い部屋」を実際に見にきて、
目で見て、感じてもらえたこと。

そのことがすごくうれしいです。

最後に、
フンデルトヴァッサー氏の言葉を
引用させてもらいます。

『美術館へと向かう足が跡を残した線は、
 美術館に展示されている線よりも
 大事なもの』


ご清聴、ありがとうございました。



< 今日の言葉 >

あの頃は ふたり共
他人など 信じない
自分たち だけだった
あとは どうでもかまわない

(『古い日記』/作詞:安井かずみ/唄:和田アッコ)

2009/10/14

90分650円


13:30ごろ。
とある定食屋に入った。
古くからその場所にのれんを掲げ、
常連客の集まる昔ながらの定食屋、といった風情の店だ。

席について、店のおばちゃんにオムライスを注文する。
お茶を飲んで待っていると、
お客さんのひとりに話しかけられた。

「観光で来たんか?」

3人組なのか、それともたまたまその場(店)で3人がそろったのか、
それは定かではないけれど。
ぼくに声をかけたのは、テーブル席のひとり、
60代後半くらいの、白髪のおじさんだ。

「いえ。いま、ここに滞在してます」

そのおじさんは、
昼間からグラス酒をのんでおり、
ほんのり酔っぱらっている様子だった。

もうひとりのおじさんは、
50代くらいの無口なおじさん。
白髪まじりの角刈りで、
紺色の、胸ポケット付長袖Tシャツを着ていた。
いかにも「職人」といった感じの、
無骨な風貌だ。

もうひとり、
カウンターに座る60代後半から70代前半くらいのおばちゃん。
白髪で小柄の、かわいらしい感じのおばちゃんだ。

オムライスができあがるまでのあいだ、
そのおじさんたちの輪に加わり、
話を聞いていた。
おもに話すのは、
最初に話しかけてきたおじさんだ。


おじさんは13歳のころ、九州から愛知に出てきた。
まわりの同級生が高校へ進学する中、
おじさんは、中学を卒業する前に働きはじめた。
家庭の、経済的な事情もあったそうだ。

いわゆる「ぼうや」として、遠く離れた地で
働きはじめた13歳のおじさん。
故郷を離れるとき、母親が、

「ごめんね、ごめんね」

と泣いたそうだ。

塗装工として働き、
仕事も技術も覚えたころ。
おじさんは、独立した。

塗装屋として「開業」した当初は、
「よそ者」ということで、なかなか厳しかったそうだ。
実績もなければ信用もない。
だから、最初はかなり苦労した。

けれども。
少しずつ仕事も増えて、徐々に大きな現場も任されるようになった。
そして20代前半、おじさんは結婚した。
娘も生まれ、順風満帆のように思われたが。
娘が3歳になったころ、
奥さんとの行き違いで、離婚することになった。

そのころのおじさんは、
酒の席が「営業活動」の場だった。
つまり、居酒屋などで酒を酌み交わして、
人との交流を図り、新しいお客さんを見つけていたのだ。

毎日毎晩、居酒屋を飲み歩くおじさんを、
奥さんがとがめた。

「おれの仕事のジャマするんなら、とっとと出て行け。
 けどな、娘は置いてけよ!」

と、勢いよくタンカを切ったおじさん。

そうやって言えば、思い改めて留まるのでは、という計算もあった。
母として、娘と離ればなれに暮らせるはずがない、と。


誤算だった。


寒い冬の夜、
いつものように居酒屋で酒を飲んでいると、
お客のひとりが手招きして言った。

「店の外に子供が立っとるぞ」

見るとそこには、
寒さにふるえながら、腕を抱いて立ち尽くす3歳のわが娘がいた。

おじさんは、
まさか本当に娘を置いて出て行くとは思っていなかった。
そのときばかりは涙が出たと。
おじさんが、思い出すようにつぶやいた。

「いやだわぁ、あたしも泣けてきた」

カウンターに座ったおばちゃんが、
ガーゼのハンカチで目頭をぬぐう。

そのあとのおじさんは、
心を改め、仕事に打ち込んだ。
そして、2度目の結婚。

今度こそは、と。
今度はうまくいく、と。
もちろん、信じて疑わなかったはずだけれど。
2度目の結婚は、2度目の破局を迎えてしまった。

再婚相手には、おじさんと同じく、連れ子がいた。
再婚相手の奥さんは、
血のつながりのある「わが子」への愛情は惜しまなかった。
反面、おじさんの連れ子である「娘」には、
愛情を惜しむだけでなく、
ささいなことでも手を上げたという。

アザだらけのわが娘を見て、
おじさんは、再婚相手を追い出した。

そして、“ 神さま ” に助けを求めた。

それからのおじさんは、
仕事も着実に増やしていき、
人脈も、信頼もこつこつと築き上げていった。

どん底のときには、「よそ者」ということで、
お金を貸してくれなかった銀行も、
ツケを利かせてくれなかった取引先も。
そのころになると、
逆に「お願い」をしにくるようになった、と。
おじさんは、そういう「浮き沈み」も経験してきたそうだ。


話の途中、オムライスができあがった。
おいしそうに湯気を立てる、できたてのオムライス。

「ちょっと大盛りにしといたでね」

と、上品に笑う、店のおばちゃん。

話がまだ続いていたので、
カウンター席からテーブル席に移って、
おじさんの話に耳を傾ける。

店のおばちゃんが、

「えらいねぇ、あんた。ちゃんと席を移って聞くなんて」

と、ぼくの水とおしぼりを持ってきてくれた。
おしぼりは、ていねいに「手洗い」しているのだろう。
ふんわりとやさしい、いい匂いがする。

「酒、おかわり」

グラスを掲げるおじさん。

「おれはおじさんのつらい時期を見てきたで、あんときの苦労はよう知っとる」

低い声でうなるように語る、角刈りのおじさん。

「あんたは地元で、しあわせにやってきたんだで。感謝しないかんよ」

おばちゃんが、お母さんみたいな口調でやんわり言う。


「おれは、△△の社長とも知り合いだでな。いや、本当だよ」

おじさんの口がさらに熱を帯び、話は進む。

仕事がどんどん増えていって、
規模は小さいけれど
大きな仕事を任される「会社」になったという話になった。
最盛期には人を14人使っていた、と。

そして話の規模がどんどん拡大して、
世の中の流れや政治の話になったころ。
話が輪郭を失いはじめ、
内容がぼんやり不確かになってきた。

それは、オムライスを食べておなかがいっぱいになり、
ふわふわと眠気がおそってきたせいもある。

「不景気だっていっても、あいつらは貧乏人から金を吸い取って・・・いや、本当だよ」

「いまの自民党の考え方は、まるっきりおんなじで・・・」

「本当だよ、おれはウソ言わんて」

「国民年金も税金も、けっきょくはおれたちが苦労して・・・・本当だよ」

「本当だよ」

テンポよく続くおじさんの声が、
呪文か音楽のように聞こえはじめた。
意識が朦朧(もうろう)となり、
焦点がぼやけて「トランス」の状態になる。

ああ、なんて気持ちいいんだろう。

話はまったく「聞こえない」。
耳に聞こえてはいるけれど、まったく脳には届かなくなった。

ここ最近、作品展示の準備で
睡眠時間が極端に短い日が続いていた。
そのせいも、あったのか。

昼下がりの定食屋で。
こんなにも深い(ディープな)時間をすごせるとは、
夢にも思っていなかった。

時計を見ると15:00すぎ。
気づくと1時間半ほど、
おじさんの話に聞き入っていたことになる。

言い替えると、
酔っぱらいを相手に
90分の時間を「灰にした」ことになる。

「悪いね、酔っぱらいのつまらん話聞かせちゃったけど。また来てね」

店のおばちゃんが苦々しく微笑む。
会計を済ませて、のれんをくぐると、
太陽がやけにまぶしく見えた。



定食屋での90分。
支払ったのは650円。


後日、ほかの人から聞いた話では。
ある店のおばさんが、

「あの人とずっとつきあっとたら、ダメになるでね」

と評していたそうだ。

昼間っから酒を飲み、
「これから競艇に行く」と言っていた、定食屋のおじさん。
たしかにおばさんの評価も、当たっていなくはないだろうけど。

「名前は聞かん。また、どこかでこうやって会ったとき、酒でも飲もう」

最後にそう言って手を挙げるおじさんの姿には、
紆余曲折を経験してきた人の持つ、独特の哀愁を感じた。


まるで1本の映画を観たような。
そんな気持ちで商店街を歩く。

いったいここは、どこなんだろう。
どこか遠くに行っていたような、
そんな濃密な90分をすごしたあと。
ふと目を向けると、
空気で膨らませた招き猫が、逆光の光のなかで笑っていた。

風のない、おだやかな晴天の日。
同じ時間を、別々の人生をすごした人たちが出会って別れる。


時間と場所とタイミング。
偶然は、同じものが二度とないからおもしろい。


 《 今日の言葉 》

 舌を入れたらアウト (余興のゲームで、ついつい本気になってしまう人へ)



2009/09/24

ムハンマドの親孝行


先日、高校時代からの友人が、常滑の制作現場に遊びにきた。
このクソ忙しいときに・・・などとは微塵(みじん)も思わず。
あっさりとその「誘惑」に乗っかった。

友人を案内すべく、旧常滑の商店街から瀬田(せた)へ抜け、
散歩道へと足を向けた。
「シルバー・ウイーク」なる耳慣れない連休のためか、
散歩道がものすごい人でごった返していた。

『KANDA百貨店』や『sonorite'(ソノリテ)』など、
しゃれた店々も紹介しつつ。
何だかおいしそうな匂いに誘われて、屋台広場の辺りに行った。
オリエンタルで、スパイシーな匂い。
そのおいしそうな匂いの「主」は、1台の白いトラックだった。

トラックの表側に回る。

「いらっしゃいませー、おいしいですよー」

その声を耳に受けながらも、ぼくらの目は、
ラミネート加工されたメニューに釘付けだった。

チキンピタサンド(¥450)
ダール豆のスープ(ダール・スープ/¥300)

ぼくらは迷わず、それを注文した。

あせらず、ていねいに調理する店員の男性。
おそらくインド系と思われる彼は、

「ちょっと待ってね。せっかく食べるんだから、おいしく作るね」

と、白い歯をのぞかせて笑った。

待っている間、トラックの壁面にたくさん貼られたPOPを見ていると、
遅れてこの「店」の名前が目に入った。

『K2』

エベレストに次ぐ高さの山で、登頂難度は世界一とも言われる高峰。
この山の名前は、高校時代の、地理の授業で聞いた覚えがあるだけではない。
たしか、職場でもある学校の近所の、
インド・パキスタン料理の店が同じ『K2』という名前だった。

そんなことを友人に話していると、
店員の男性が手を止め顔を上げた。

「よく知ってるね。そう、それ、ぼくの店だった」

そういって彼は、「過去形」で言った。


店員の、彼の名前はムハンマド。
2年前、4店舗あった店を全部、人に譲った。
祖国(くに)のお母さんが心臓病を患ったためだ。
4店舗あった店を売り払って手術費用をつくり、
インドに帰国したムハンマド。
無事にバイパス手術を受けることができたお母さんは、
現在、元気に暮らしているいうことだ。

ムハンマドが日本にきたのは、いまから約19年前。
ムハンマドは、そのとき17歳だった。
難民という形で入国したムハンマドは、
上野公園の路上で、3カ月ほどすごした。

知り合いになったイラン人が、東京から名古屋へ行くというので、
ムハンマドは彼について行くことにした。
名古屋の、白川公園に着くと、
イラン人の彼は、ムハンマドに10万円を手渡した。

「これで、何とか頑張れ」

そのお金は、「テレホンカード」の販売などで稼いだものだった。
それから3年間、ムハンマドは、水とパンだけでしのいだ。
そして何とか会社に就職することができた。
パチンコ台の製造会社だった。

数年後、その会社が倒産すると知らされたとき。
従業員はみんな、次々と会社を去っていった。
けれどもムハンマドは、社長に言った。

「最後まで頑張ります」

その言葉どおりムハンマドは、
社長と2人、最後まで会社に残って、仕事を全うした。



「歳、いくつ?」

ムハンマドは、ぼくの答えを聞く前に先を続けた。

「ぼくは36歳」

「えっ、36? ぼくらの1コ上じゃん」

「35歳? へえ、そう」

友だちは、すでに誕生日を迎えて35歳。
ぼくはまだ誕生日がきていないけれど、
今年で35歳になる。

ひとつずつ順番に、できあがったチキンピタサンドを手渡される。
思いのほかボリュームがあり、手に持つと、ずっしり重い。
会計を済ませ、ひとくちかじる。

「めちゃくちゃおいしい」

「ありがとうございます」

ムハンマドが頭を下げる。

インドから戻って。
あちこち奔走しながらあれこれと準備をして。
ようやくまた、こうして「店」を開くことができたとのこと。
聞くと、今日で「開業」2日目だという。

白い、軽トラックを改造したこの「店」も、
ムハンマドの「手づくり」だと聞いて。
さすがにぼくは、声を上げて驚いた。
内装をはじめ、電気の配線、
きっちりと荷台に収まる「キッチン」の設計。
外装の目地は、しっかりとコーキングで埋められている。

トラックに200万円、チキン・ロースターが40万円。

「この機械、ふつうに買うと、100万円以上するね。
 けど、ドバイで買って、
 ドバイの空港で働く友だちに頼んで運んでもらったから、40万円で済んだ」

チキン・ロースターでこんがり焼いた、
タンドリー・チキン。
さすがにうまい。
そろそろスープが飲みたくなったぼくは、ムハンマドに言った。

「豆のスープは?」

忘れていたのか、それとも、じっくり温め直していたのか。
はっとしたムハンマドは、スープジャーを開けてスープを注いだ。
そこに、パラパラと、何やらスパイスをかけた。

「何そのスパイス?」

「これ? これは、オリジナルのスパイス」

ムハンマドは、誇らしげに微笑んだ。

さっそく「ダール豆のスープ」を飲む。
うまい。うますぎる。あまりにもうまくて、

「めちゃくちゃうまいね、これ」

と、バカみたいにストレートな感想を、大きな声で口に出した。
ムハンマドは、「ありがとうございます」とまた謙虚に頭を下げた。

「ぼくは日本人大好き。友だち、みんな日本人がほとんど。
 ぼくの店にいたインド人、みんなダメだった。うそつくし、盗むし。
 レジのお金、ちょこちょこ盗んだり。
 レシピ盗んで店辞めて、店はじめたのもいる」

ムハンマドは、彫りの深い顔をくもらせて、締めくくるようにしてこう言った。

「ぼく、外人嫌い」

何だか妙な説得力があるように感じたのは、なぜだろう。

「日本人の味に合わせない店、多い。だからダメ」

そんなふうにも嘆いていたムハンマド。

けれど。

ムハンマドのダール・スープは、
充分オリエンタルで、スパイシーで、
いままで一度も飲んだことのないような味わいだった。
だからこそ、ぼくはおいしいと思った。

「日本人」に「合わせる」必要なんてないと思う。
おいしければ、おいしいと思った人が集まってくる。
おいしいものに、国境なんてない。

「ごちそうさま」

「おいしかった?」

「おいしかった」

「そう、よかった」

「じゃあ。また、店ができるの楽しみしてるから」

「ありがとうございます」

しっかり者のムハンマドが手を上げ、ぼくらを見送る。
その笑みは、1コ上とは思えないほど深みのある顔つきだった。



< 今日の言葉 >

『イギリスのサマセット州ブリッジウオーターに住む40歳のトニー・バーフィールドは、
 電気製品が近くで作動するといつでもひどい痛みを覚えた。
 妻が掃除機のスイッチを入れても強烈な頭痛がして、歯が引き抜かれるような感じがした。
 それに口のなかに金属的な味覚がし、体内が熱く燃えるような気もした。
 しかも彼はほとんどの食品にアレルギーで、
 だからトマトとオレンジくらいしか食べられなかった。
 ・・・(中略)・・・・
 彼はひどい偏頭痛がするようになり、とてものどが渇くようになった。
 そして誰かが電気機器を作動させると激痛を覚えるようになったのだ。
 自分がまるで静電気を帯びているみたいに感じることもあれば、
 体内が燃えているような気がすることもあった。
 1990年以降は水にもアレルギーになった。
 風呂に入れなくなり、濡らしたタオルで体をふくしかなかった。
 食品アレルギーも、同じく1990年に始まった。
 彼は3年間で20キロ以上やせ、どんどん衰弱していった。
 失業し、自分1人では服も着られなくなった』

(1988年イギリス、UFOの近距離遭遇者トニー・バーフィールド氏の症例)

『UFO あなたは否定できるか』ヘルムート・ラマー/オリヴァー・ジドラ著(文藝春秋)より

2009/09/16

『常滑フィールド・トリップ2009』


告知です。

きたる10月10日(土)から10月18日(日)までの9日間、

愛知県常滑市で『常滑フィールド・トリップ2009』という展覧会が開催されます。



そのなかでぼくは、「旧常滑地区」と呼ばれる場所に作品を展示することになっています。

昔、ふとん屋さんをやっていた家の「はなれ」で、

ほとんど空家のような状態になっていた家を展示場所に選びました。

作品名は『赤い記憶』です。



今回、作品をつくるにあたって、

まず、そこで生活をしていたおばあちゃんの「遺品」を片づけることからはじまりました。

おばあちゃんの遺した「遺品」の数々。

それらの「もの言わぬ物たち」を通して、いろいろなことを考え、

いろいろなことを感じながら制作を進めています。


展示場所の一部には、おばあちゃんの遺した数々の生活雑貨も展示します。


現在、まだまだ制作の途中なのですが。

今回の展示を実際に目で見て、体感して、何かしら「感じて」もらえたら。

そう思って制作を進めているところです。


これを機会にぜひ、常滑に遊びにきてみてください。

展示作品以外にもたのしめる要素がごろごろと転がっていますから。


けっして無用なおしゃれなどせず、普段着で来てください。

常滑という場所は、小学生のころを思い出せる「遊び場」です。

走ったり、とんだり、腕をぶんぶん振り回したり。


もし、忘れてしまっているのなら。

小学生だったころの気持ちを「ここ」で思い出してください。



                            家原うんこちんちん利明




詳しい情報を知りたい方は、『常滑フィールド・トリップ2009』のウェブをご覧下さい。


※上記のアドレスでつながらない場合は、まだ「工事中」の可能性もありますので、
 後日、あらためて試してみてください。



< 今日の言葉 >

「何でも一生懸命やれば、いつか目も鼻もつく」

(常滑に住む90歳のおばあちゃん、「竹内さん」が聞かせてくれた言葉)

2009/09/09

科学と学習


右足と左足の長さが微妙に違っていたため、
砂漠をぐるぐると歩き続ける男の話。
昔、江戸川乱歩の小説(だったと思う)で読んだ記憶がある。

先日、新聞を読んでいたら、
ドイツの研究チームがある調査したという記事が載っていた。

30人ほどの被験者に、目隠ししてもらって歩いてもらう。
場所は、砂漠であったり、森のなかであったり。
広い場所を、目隠して数十分(数時間だったか)歩いてもらう。
各被験者の動きは、「GPS」観測システムで記録していく、という実験だ。

目隠ししたまましばらく歩いていると、
ほとんどの人が左回り、または右回りの軌道で
ゆっくりと「円」を描きはじめたという。
せまい人では直径20メートルの「円」を描いて、
「ぐるぐると」同じ範囲の場所を歩きつづけていたそうだ。

手元に新聞がないので、正確な数字は忘れてしまったけれど。
被験者の中で、比較的まっすぐ歩き続けられたのは、
2人か3人(およそ1割)の人だった、と。

研究チームの発表によると、
左右の足の長さの違いが原因ではなく、
視覚を遮られたことで、目的となる対象物がなくなり、
まっすぐ歩けなくなるのだ、ということらしい。

なるほど。


「なぜ、ネコは家(すみか)から
 遠く離れた場所に置き去りにされても、戻ってこられるのか」

という疑問から生まれた実験らしいけれど。
昔、ネコの頭の両側に棒磁石をくくりつけて、
迷路の中に入れる実験映像を見た。

その迷路は、何度か繰り返し歩かせたことのあるもので、
被験ネコにとっては「いともたやすい」迷路だ。
無事に出られれば、「ごほうび」ももらえる。

磁石を取りつけたネコと、そうでない「ふつうの」ネコ。
その結果は、というと。

「ふつうの」ネコは、すんなりと迷路を出ることができて、
磁石をくくりつけられたネコは、壁にぶつかったり、
行き止まりに入ってはまた同じ道をぐるぐると歩きつづけたりで。
なけなか迷路から抜け出られなかった。

この実験で分かったこと。
それは、

「ネコは、地球の磁場(磁気)を利用して、
 自分の位置や道筋を把握している」

ということのようだ。

ネコが言葉をしゃべれるわけでもないので、
ネコの気持ちは分かりようもない。
けれど、もしぼくがネコなら、
頭に磁石をくくりつけられたら悲しいので、
それだけで「ふつう」じゃなくなって、
できることすらできなくなるのかもしれない。


『まだかなまだかな 学研のおばちゃんまだかなー』

小さいころ、テレビのCMでそんなフレーズをよく聞いた。
でも、ぼくの母親は当時、
「学研のおばちゃん」をやっていたので、
そんなふうにして首を長くして待っていなくても、
朝起きれば台所にいるし、学校から帰れば居間とか庭にいたので、
いつでも「学研のおばちゃん」に会えた。

そんな特権を持って育ったぼくは、
さらなる特権、

「ほしい教材(ふろく)があれば、
 何年生の『学研』だろうと取り寄せることができる」

をフルに活用して、
人体骨格見本やカブトガニ飼育セットなどを
取り寄せてもらってはたのしんでいた。


・・・話を本筋に戻して。

先日、月を見上げていて、

「今日は月が大きいな」

という話になった。
まだ、暗くなって間もないころの「黄色い月」。
聞くところによると、
赤みがかった黄色の、色の波長のせいだとか、
黄色という「暖色」が膨張色だから、だとか、
低い位置だと、周りの対象物が近いせいで「大きく」見える、とか。
いろいろな「説」を聞く。

赤やオレンジに染まった夕日(太陽)も、
同じような理由で「大きく」見える、という話も聞いたことがある。

根拠や理論は、わからない。
仮に頭で「解かっても」、
やっぱり「わからない」。

だって、大きく見えるんだから。
だったらそれでいいんじゃないの?
そう思ったりもする。
なぜならぼくは、科学者じゃないから。


< 今日の言葉 >

「魔女は追われ、鞭(むち)打たれ、石を投げつけられたり棒で打たれたりして殺された。
 『シャリバリ』した者にはすぐに「赦免状(しゃめんじょう)』を出した」

「シャリバリ」・・・共同体の規範を逸脱したものに対する儀礼的な制裁(リンチ)。

(『魔女狩り』/ジャン-ミッシャル・サルマン著 を読んでのメモ書きより)