2012/02/28

甥っ子からのプレゼント



先日、甥(おい)っ子の誕生日だった。
早いもので、甥っ子もこの春から高校生になる。


ちょっとした節目ということもあり、
プレゼントを箱づめにして甥っ子に渡した。




「誕生日おめでとう」


「わぁ、ありがとう! 開けてもいい?」




いいよ、というとすぐに、
甥っ子はプレゼントの箱を開けはじめた。


箱、といっても、
自作のダンボールの箱で、
きっちりした作業の苦手なぼくがつくった
ややあやしげな感じの代物だ。


開けるなり、甥っ子が中身を広げて声を上げた。




「うわあ、やったー!」




1970年代のポリシャツ(ポリエステル100%のドレスシャツ)と、
デニム生地のベルボトム。


ベルボトムにガラ物のポリシャツという服装は、
ぼくが好んでする服装で、
甥っ子が「ぼくもベルボトム欲しいなぁ」と言っていたこともあり、
今回、シャツとズボンのセットを箱づめにしてみた。




「着てみていい?」




「いいよ」




待ちきれないようすで、
さっそくポリシャツ、ベルボトムに着替えた甥っ子。



「わー、かっこいい! すごい、サイズもぴったり!」




上のシャツはややゆとりがあるだろうと思っていたが、
ベルボトムは自分が見積もったとおり、
サイズも長さもぴったりだった。


よく知っている人なら、
服のサイズはだいたいはずれない。
ぼくは服のサイズを見るのがまあまあ得意だ。




自分の体を包んだポリシャツとベルボトムを、
まず目で眺めた甥っ子は、
鏡の前に移動して、
その姿を前から横から斜めから後ろから眺める。




「わーやったー、ありがとうにいちゃん」




甥っ子からすると、本来ぼくは「おじさん」なのだけれど。
甥っ子は、ぼくのことを「にいちゃん」と呼ぶ。


男ばかり、3人兄弟の長男の甥っ子は、




「ぼくにはお兄ちゃんがいないけど、
 にいちゃんがぼくのお兄ちゃんだから」




と言っていた。
それを聞いて、ぼくは、
甥っ子の「お兄ちゃん」になろうと思った。




甥っ子は、シャツのボタンを全部しめたり、
少し開けてみたりしながら、
鏡に映った姿を見つめてにこにこしている。




「わー、すごい。よかったね」




はたで見ていた姉も、にこにこしながら言った。




「ねえちゃん、覚えてる?
 むかし、高校1年のころ、
 ねえちゃんがぼくにくれたプレゼント」




高校生になったお祝いだと、
当時、姉がぼくに古着のネルシャツと、
コーデュロイのズボンを買ってくれた。


その上下セットのプレゼントを、
きれいな箱に入れて手渡してくれた。


その箱は、ふたを開けると、
高級なワイシャツを買ったときみたいに
透明窓の中ぶたがついていて、
きれいにたたまれたシャツとズボンが、
いかにもプレゼントっていう感じに見えて、
すごく特別な気持ちになったことをよく覚えている。


おりたたまれた服の上には、
きれいな誕生日カードも添えてあった。


ぼくは、それがすごくうれしかった。




「ああぁ、あったね、そんなこと」


忘れかけた記憶を、
なつかしそうに思い出す姉。




ありがとうとか、うれしいとか。
そういう気持ちを表現するのが上手じゃなかったぼくは、
たぶん、あっさりした顔で
姉からのプレゼントをもらったにちがいない。




そんな思いもあって、
ぼくは甥っ子に「箱づめプレゼント」をあげた。




ぼくは、そのときうれしかったことをずっと忘れなかったから、
たぶん甥っ子も、ずっと忘れないはずだ。


いつまでも自分の姿を眺めつづける甥っ子を見れば、
そのうれしさを量るまでもない。




「いいなー、いいなー」




うらやむ弟たち。


うれしそうにうろうろ歩きまわる甥っ子。


よろこんでもらえて、うれしかった。






ごはんができるまでのあいだ、
ぼくは、甥っ子たち3人と「スロットカー」で遊んだ。






スロットカー。




コントローラーで操作して走らせるレーシングカーゲームで、
コースは、鉄道模型のように自分たちでつないで組み立てる。


コース上に「みぞ(スロット)」があり、
その両側の金属部分から電力を得る仕組みになっていて、
みぞに車(プラスチック製のボディのミニカーのようなもの)をかませると
コントローラーの操作でびゅんびゅん走る。


1960年代ごろにブームを巻き起こした
カーレースのおもちゃで、
ぼくも、幼少期にそれで遊んでいた。


ブームから10年ほどおくれた1970年代。


ぼくは、父が誰かからもらってきた
年代物のスロットカーでひたすら遊んでいた。






甥っ子が、スロットカーを
近所の人にもらったという話を聞いていたので。
ぼくは、どうしてもスロットカーがやりたかったのだ。




「なつかしい!」




車、コントローラー、ガードレール、
直線、曲線、ループなどのコース部品。


衣装ケースいっぱいのそれらを、
甥っ子は、家の近所にある
欧州車専門の自動車整備店の人にもらったそうだ。


どんだけ親切な人なんだと。


もらった量はもちろん、何台ものレースカーやパーツ、
こまごました部品がきちんと仕分けされた工具箱やひきだしまで
くれたのを見て、ぼくは、すなおに驚いてしまった。




甥っ子は、そこの人にずいぶんよくしてもらっていて、
仕事を見せてもらったり、
いろいろな話を聞かせてもらったりもしている。




自分が中学3年生のころ、いえば。


大人のことなんて信用しておらず、
くわえ煙草でパチンコをしたり、
路上に落ちてるチョコレートを食べたり、
サッポロポテト『ベジタブル』と『バーベキュー』を交互に食べたり。


やんちゃで目つきの悪い中3で、
いまの甥っ子とはまるでちがった中3だった。




ただ、幼さという点では同じかもしれない。




絵を描いたり、おもちゃで遊んだり。


くだらないことに夢中になって、
必死で「何か」を追求していた。




スロットカー。




3人の甥っ子たちといっしょに、
コースを組み立てていく。




「なるべく部屋いっぱいに広げて、
 長いコースつくろうよ」




甥っ子どもに指示を出すぼく。




「ほら、そこ、曲がってるよ。
 こことここがまっすぐそろってないと気持ちが悪い」




子どもたち相手に何を言っているのか。






コースが完成して、
レース大会が開催された。




1分間で何週まわれるか。
ラップ(周回)数を競うレースだ。




飛び散る火花。


白熱するレース。




いちばん下の甥っ子(小4)が、
2番目の甥っ子(小6)と、
もう1回やらせてほしいだの、だめだのと
言い争いはじめて。


そのまま順番を抜かされたぼくは、




「こらーガキどもー!
 おれの番だぁあ〜!!」




と、下2人の甥っ子の襟首をつかんで軽く持ち上げた。


すると2人は、さっきまで言い争っていたはずが、
きゃっきゃと笑いながらぼくに場所をあけ渡した。




いちばんの(しかも、かなりの)年長者のはずなのに。
何だかゆずってもらったみたいな気持ちになったぼくは、
ちょっとだけ「てへっ」と笑った。




「そっちの車がおれのだ」とか、

「ちょっと、部屋の電気消してみよう」とか。




気づけばいちばん「ガキ」なのが、
えらそうに仕切ってる。




大きくなったとき、
甥っ子たちはそんな「叔父さん」のことをどう思うのだろう。




そんなことはよしとして。




電気を消した部屋を走りまわるスロットカーは、
すごくきれいだった。


車のボディを外して、
なかのムギ球(米粒ほどの電球)をむきだしにしてみると、
光の筋がもっときれいに見えた。




光の尾をなびかせ、
1本のオレンジ色の線が闇を走りまわる。



あたりにキラキラ光を反射させながら、
ものすごい速さでびゅんびゅん走るスロットカーは、
いくらでも見ていられそうだった。



















「光を反射するものをコースのわきに並べたら、
 もっときれいだよね」

甥っ子が言った。



甥っ子もぼくも、
もう少しでそれを実行するところだった。


勢いあまって車がコースアウトしたのをきっかけに、
部屋の電気がつけられる。


ちょうどごはんの声がかかって、
ぼくら4人は食卓に着いた。


「ごはんでしょ? 服、汚れるんじゃない?」


甥っ子は、スロットカーで遊んでいるときにも、
ポリシャツとベルボトムをずっと着つづけていた。


ぼくはよくごはんをこぼす。

お気に入りの洋服が汚れると、かなしい。

そう思って甥っ子に言った。


「そうだね」


すっと立ち上がった甥っ子が、もとの普段着に戻ると、
みんなでごはんを食べはじめた。


腹いっぱいに食べて。


少し一服したあと、
甥っ子たちとまた別のことで遊ぶ。

アコーディオンででたらめな曲を弾いて歌ったり、
鳥の「ピーチョ」をカゴから出したり、
甥っ子の学ランを着てサングラスをかけてみたり。


ふと見ると、いつのまにか甥っ子が
ポリシャツ・ベルボトムの上下にまた着替えている。


よっぽどうれしいんだなと。


言葉じゃなく、
すなおに行動で表現する甥っ子を見て、
ぼくは思った。


汚れようが、汚れまいが。

とにかく、ずっと着てたいんだなと。


「いま」よりも、まだ起こりもしない「さきのこと」を考えて、
せっかくの「いま」をつまらなく変えてしまったぼく。

ぼくは、いつのまにか「おとな」になってしまっていたようだ。



夜がふけ、
そろそろ姉の家をあとにする。



お姉家族と玄関先であいさつを交わし、
お別れをする。




「下まで見送るよ」



と、甥っ子と2番目の甥っ子が、
階下に停めてある車のところまでついてきた。


暖気運転が必要なぼくの車。


ふだんならタバコを1本ふかして、
エンジンが暖まるのを待つのだけれど。

今日はにぎやかな「お客」がいる。


「にいちゃん、乗ってもいい?」


薄着で外に出てきた甥っ子2人は、
薄着のせいだけでなく、ぼくの車に乗りたがった。

2人とも、ぼくのオンボロ車が好きなのだ。


白い息を吐きながら、ぼくら3人は、
車のなかでエンジンが暖まるのを待った。


「今日はありがとね、にいちゃん

と、甥っ子。


「こんどは、兄ちゃんとして・・・」


兄ちゃんとして。
次は、2番目の甥っ子が高校に入るとき、
同じふうにしてあげてほしい、と甥っ子に伝えた。

そして、3番目の甥っ子が高校に入るとき、
また同じようにしてやってほしい、と
2番目の甥っ子に伝えた。


兄ちゃんから弟へ。


「うれしいことは、リレーしないとな」


暗い車内で、ぼくは、
くさいことをえらそうに言った。


それから、ぼくらは、
「青春」について、少しだけ話した。


女の子のことが好きになって、
何をしゃべったらいいかとまどったり。

帰り道、その子と手をつなぎたくて、
「3本目の電柱をすぎたら」と心に決めながらも、
何本も電柱の数を数えながら歩きつづけたり。


「そのうち、おれが遊ぼうって誘っても、
 あ、ごめん、彼女が・・・とか言って
 断るときがくるんだって」


「ぼくはないと思うな。
 いつでもにいちゃんと遊びたいから」


まっすぐな感じで、甥っ子が言った。


「いや、いいんだよ。
 むしろおれの誘いを断るくらいが頼もしい」


分かったような、分からないような。
何だか不思議な顔つきの2人が、ぼくを見つめる。


「そろそろいいかな」

暖まったエンジンが、規則的なリズムを刻みはじめる。

「そんじゃあ、行くわ」


「うん。それじゃあ、またね」


この日は、どうかしていたのだろう。
車から降りる2人に、ぼくは、
またしてもくさい言葉を投げかけた。


「これから起こる『初めて』を、だいじにしなよ」


まぶしい顔で笑う2人。


「そんじゃーね」


「バイバイにいちゃん、またね!」


「バイバイ」

手をふる甥っ子に手を上げると、
ギアを入れて、車を走らせた。

ローからセカンドに入れて加速する。


歩道に目を向けると、甥っ子が、
車の横を走ってついてきている。

そのまましばらく、
車といっしょに走りつづける甥っ子。


手をふりながら、全力で。


「にいちゃーん、バイバーイ!」


夜の闇のなか、
街灯に浮かんだ白いポリシャツがゆれている。


「バイバイー!」


全力で走りつづける甥っ子に、
手をふり返す。


どれくらいついてきたのか分からないけれど。

暗い闇のなかを全力で走る甥っ子の白いシャツが、
しばらく目の奥からはなれなかった。



白いポリシャツを着て、
手をふりながら、全力で走る甥っ子の姿に。

ぼくは、ほおがゆるんで、胸の奥がぎゅんと熱くなった。



甥っ子の誕生日。


あげたつもりが、
ぼくのほうがたくさんもらっていた。



お気に入りは、
だいじに飾っておくものじゃなくて、
思いっきり使っていくものだと。


言葉じゃなくて、行動。

いまは、いましかないから。

とっておいても意味がないんだと。



くさくてはずかしい話だけれど。


たまにはそんな思いにひたるのも、
わるくない気がしたのであります。




<今日の言葉>

うまのうま煮










2012/01/30

言葉じゃ言えない




最近思うことがある。


言葉にならない「感覚」。

言葉じゃ説明できない「感じ」。



言葉にならないなら、
それを無理に「言葉」にする必要は
ないんじゃないかと。

そんなふうに思う。




       ♥
  


ぼくは、できごとを
映像で記憶していることが多い。




全部の記憶が映像で、
とういうわけじゃないだろうけれど。


記憶のなかの映像をもとに、
そのときの音や、においや、味覚など、
そのとき感じた感覚を思い出すことがある。




友だちと歩きながらしゃべった街角、
旅先の商店街、寒かった夜の空の色とネオンサイン。


何か、メモした「情報」を思い出すときにも、
その情報を書いたノートの「映像」を思い返して。




「ああ、たしかあれはあのノートの左ページの、
 あそこらへんに書いたっけな」




なんていうふうに点をしぼっていくと、
おぼろげだった記憶(映像)が
しだいに鮮明な像を結びはじめていく。


まったく出そうになかった文字が浮かんでくることもあって。


学生時代、テストの回答が
思い出されたことも、たびたびあった。




たとえば、
自宅から百キロ以上はなれた京都への道順。




ぼくは、映像で覚えるほうが得意なようなので、
自然と「風景」で覚えるくせがついている。




「あのビルとあのビルがあそこにあって、
 この高架をくぐって大通りに出たら右折」




そんな感じに覚えているせいで、
よく、道に迷う。


方向オンチではないけれど、
風景が変わると、道が分からなくなる。




工事や建て替えなどがあると、
記憶のなかの道が、つながらなくなる。




だからこそ、ひたすら景色を見る。


音やにおい、雰囲気なんかを収集する。


こまかい部分や組み合わせを、しっかり焼きつける。




たしかに、記憶すべき「情報の量」は多い。


要所要所とはいえ、
家から京都までの映像が、ずっと連なるのだから。




道を、地図みたいな感じで
覚えられる人には「面倒くさい」方法かもしれないけれど。


ぼくは、風景を覚えていくほうが得意だ。


というか、そっちのほうが「おもしろく」感じるから、
あまり道順を覚える気が起こらないのかもしれない。





映像が映像のまま「記憶」されているので、
ある友人は、


「めちゃめちゃメモリ食うな、それ。
 大変そうだなぁ。ものすごい容量いるんじゃない?」


と、パソコンにたとえつつ、驚いていた。


ぼくにとっては、地図を覚えるほうが大変なので、
まかさ自分が「大変」だとは思っていなかった。


人それぞれ、みんなちがう。





いくつになっても、
まだまだ新しい発見がありますね。






映像は、記憶の手段で。


思い出す「きっかけ」は、
音や音楽、においや光の色だったり。




プラスチック消しゴムのにおいをかぐと、
4歳のころのひなまつりを思い出す。


女の子のお祭り、ひなまつり。


華やかな飾りの並んだひな壇がうらやましくて。
ウルトラマンの怪獣消しゴムをびっしりひな壇に並べて、
姉に「やめてよ、もう」って怒られた。


そのとき、手に持っていたのがピンク色の怪獣消しゴムで、
『ベロクロン』という名前の怪獣だった。
けっこう強くて、形(造形)も好きな怪獣だ。





その『ベロクロン』の消しゴムのにおい。

プラスチック消しゴムの、甘ったるいにおい。

そのにおいを「きっかけ」に、
4歳のひなまつりの映像と記憶がよみがえる。






友人のひとりは「食べたもの」をきっかけにして、
そのとき、その場所の記憶を思い出す、と言っていた。





「ほら、あの鍾乳洞。だいぶ前に行ったよね?」




「・・・ええっ、そうだっけ。そこでなんか食べた?」




「帰り道、あげまんじゅう食べた」




「ああ、あそこね」




おいしいものを食べていると、
その場所のことは絶対に忘れない。


本人がそう言っていたのだから、まちがいない。


おいしかった食べものが呼び覚ます「記憶」。





「ああ、あそこの交差点の角で座って食べたシュークリームね。
 皮が柔らかかったけど、中のクリームがおいしかったね」




その記憶力は、鮮明で、正確だ。


食べたもの、食べた場所、
そのときの季節や風景、
その日に起こったささいな出来事


おいしさの記憶を中心に、どんどん記憶の輪が広がっていく。




ふだん、地名などにはまったく興味を持たないくせに。




「たしかあれ、強羅(ごうら)だったよね。
 おいしかったなぁ、あの店」




「きっかけ」さえつかまえれば、
まるでついさっきのことのようなフレッシュさで、
記憶を思い返していく。


おいしければおいしいほど、
その記憶は深く、強く、
広く、正確に刻まれていく。




やっぱり、おいしいものはつよい。






味覚と映像。


視覚と体感。


感覚は感覚であって、言葉ではない。








       ♥









言葉にならない「感覚」。


言葉じゃ説明できない「感じ」。




「すごい」


「きれい」


「おもしろい」




子どもじみた、つたない言葉。




「すっげー、むちゃくちゃかっこいい!」




あまりにも感動が大きかったり、
衝撃的だったりすると、
思わず単純な言葉が口をついて出てくる。




そんな単純な言葉にこそ、
本当の気持ちが表れていたりする。




そのとき感じたこと。


そのとき見えた世界。


そのとき嗅いだ匂いや聞いた音。




「感覚」を人に伝えようとするとき、
言葉が必要になってくる。






言葉。


たくさんあっても困惑するし、
足りなさすぎても伝わらない。




言葉は、つねに感覚よりも遅く、
あとから遅れてやってくる。






こまかく、正確に「その感じ」を表現しようとして、
自分の持っている語彙(ごい)をかきあつめ、
なんとか「それっぽい感じ」にまとめあげる。


そうやって、ありもしない形に仕立て上げた「言葉」を、
そのとき感じた「感覚」として「分類」してしまうのは、
なんだかちっぽけで、もったいない気がしてしまう。


知識や比喩(ひゆ)で装飾された、
ちっぽけな感覚。


言葉は、言葉であって感覚ではない。


せっかく「感じた」感覚を、
経験ではなく、「情報・知識」として「処理」して、
ひとめで分かる分かりやすいラベルを貼って整理する。


分からないなら、分からないでいいのに。


無理やり言葉で閉じこめた「感覚」は、
「実寸」より小さくまとまってしまうような気がする。




「まるで上質なシルクのような口どけだ」




そのとき、その瞬間に、
言葉で表せるような「感覚」は、
その程度のものでしかないのかもしれない。




ただ、その「感覚」を懸命に伝えようとする熱は、
言葉をこえて「感じる」ことができたりする。




「もう本当に、とにかくすっげー感じで、
 めちゃくちゃぴかぴか光ってて、
 こう、全体的にぐわーって感じで・・・」




つたなく、飾らない言葉がいい、ってことではなくて。






せめて「感じている」その瞬間を、
言葉で「理解」しないよう。


感覚をいつも
まっさらな状態にしておきたいです。




いろいろな場所、いろいろな時間、
いろいろな瞬間をたくさん感じて。




もっともっと「言葉にならない感覚」に出会いたい。




「ちゃんちゃらおかしいぷっぷくぷー」




言葉にならないということは、
それだけ新しくて、未知なる感覚なのだから。




「なんていうか分かんないけど、
 とにかくすごくウキウキする感じ」




そんな感じでいきたいです。




言葉にならない感覚。




それを言葉(文字)つづるという行為にこそ
矛盾があったとしても。




「言葉の意味はよく分からないが、とにかくすごい自信だ」




そういわれるよう、がんばっていきたいです。






< 今日の言葉 >


「カツラって、英語でアデランス?」


(クロスワードパズルをやる母に聞かれた質問。
 おしいけど、ぜんぜんちがう