2024/03/11

子どものこたえ




 



上の写真は、

何に見えますか?


心理テストでも

美意識の検定でもなく。


あなたにはこれが

何に見えますか?


正解は「キツネ」。


もっと言うと、これは、

ギンギツネの「途中経過」です。



展覧会にご来場いただいた

「お客さま」からお声かけいただき、

児童館で何かをやってほしいと

いうことで。


「実物大の動物を作ろう」


という企画を開催した。


主役は「子ども」。


だからぼくは、

基本的には手も出さないし、

口もはさまない。


参加した子どもたちがやりたいように、

好きなようにやってもらう。


ぼくの仕事は、

その「舞台」を用意すること。


子どもたちが作りたいものを

実現させるためのお膳立てと、

現場を見ながら

そっと導いていくことだ。



* *



今回お世話になった児童館の方たちは、

とてもやわらかな人たちばかりで、

児童館の存在を「屋根のある公園」と

形容しておられた。


学校でも家でもなく、公園。

屋根があって、人の目も届く「公園」。


何をしてもいい。

勉強をしてもいいし、

遊んでもいいし、

本を読んでもお弁当を食べても、

運動をしてもいい。


今回お声かけいただいた児童館には、

場所と人がそろっていた。


子ども目線の、理解ある環境。


そんな場所だからできること。


たのしいことが

できそうな場所だったから、

とにかく何かやりたいと思った。


職員の方とのやり取りで、

いくつかの提案の中から、

「実物大の動物づくり」にしようと

いうことになった。




第1日目。

何が作りたいか、

子どもたちに意見を聞いた。


竜(ドラゴン)、

ティラノサウルス、

ゾウ、ペガサス、

キリン、麒麟(きりん)、

ゴリラ、ライオンなど。


いろいろな意見の中から、

みんなで決めた。


ウマと、ギンギツネ。


2組に分かれることは

想定外だったが、

それもまたおもしろい。


ということで、

ウマチームと

ギンギツネチームに分かれて、

作りはじめることにした。


まずは「絵」を描いてみた。


図鑑で調べて、

実際の大きさを測って、

大きな紙に形を描いていく。


ぼくは主に、

ギンギツネチームを見守る

格好になった。


ウマチームは、

児童館の職員の方が担当してくれた。


今回、ぼくが思っていたのは、

大きすぎるとか、

むずかしいから、という理由で、

やりたいことを小規模化して、

思いをこぢんまりさせたくはない、

ということ。


とはいえ、

あまりに「無謀」なことは、

避けたくもある。


年齢層は、

小学3年生から6年生。


全員そろう日もないし、

数人しか来ない日もある、と。


子どもたちの性格や気質、

図工が好きなのかどうかも

わかっていなかったので、

難易度というのか規模というのか、

そこらへんの

コンダクト(指揮)が

悩みどころだった。


簡単すぎてもつまらないし、

絵に描いた餅で終わっても悲しい。


毎週土曜日の1時間。

初回の話し合いを含めて、

合計6回。


決められた期間はあっても、

それまでに必ず完成させるという

考え方ではなく、

失敗してもいいし、

できあがらなくても構わない

という指針でいきたい。


とにかく全力。


思いっきり、

やりたいように、

全力でやる。


どうなるかわからないことを、

わくわくと楽しむことこそが

いちばんだと。


そう考えていたので、

最初の準備——

軌道に乗るまでの導入が大切だと

思っていた。


以前にも書いたが。


『馬に水を与えるのではなく、

 水を飲みたくなるよう

 仕向けることが、

 よき指導者である』


この金言を胸に、

あくまで主役は「子どもたち」だと

いうことを忘れず、

ただただ見守るようにした。


これは、ぼくの中で、

ずっと変わらない

礎(いしずえ)である。


生意気だった家原少年は、

子どものころ、

先生に口や手を出されて、

おもしろくなくなることが

少なくなかった。


そんな思いが鮮烈だったので、

自分は同じことをしたくない。


主観や好み、通例ではなく、

子どもたちが

やろうとしていることに

合っているのか、沿っているのか、

それを「ものさし」として

導いていく。


初めての環境、

初めての場所で。

まだ見ぬ新しいものが、

芽吹く環境をつくる。


その「空気づくり」には、

いつもいちばん気骨を折る。


そんなふうにして始まった

動物づくり。


やってみて初めて感じること、

見えてくること、

なるほど、と学習できること。

やってみてわかることばかりだ。


動物づくりに向き合う

子どもたちに勝るとも劣らず、

毎回、学びと発見が多かった。


ぼくは先生でも指導者でもない。

だから、わからないことだらけで、

わからないからおもしろい。


言うなれば、

ぼくがいちばん「生徒」なのだ。



* * *


















2日目を終えて気づいたのは、

子どもたちの集中が続く時間が、

1時間弱だということ。


事前に、

「好きなだけやっていい」

ということを、

児童館の職員の方から

伝えてもらっていたのだが。


たいてい50分弱くらい。

そこでみんな、ぽろぽろと、

集中力の糸が切れる。


50分弱。

それはだいたい、

学校のチャイムが刻む

45分に近い時間だった。


どちらかというと

集中力の高い自分は、

少なくとも3〜5時間くらい

没頭する。


かつてはもっと長くて、

8時間とか10時間とか、

平気で絵を描き続けたりした。


さすがにこれではまずいと思い、

休憩ということを覚えた。


子どものころはどうだったのか。


時間の記憶はないが、

時間ごとに区切られる

鐘(チャイム)がうとましく、

放課後に一人残って

黙々と作業する時間が

好きだった記憶がある。


家では、

お絵描きや工作に夢中になって、

「ごはんだよー」

という声にはっとすることが

多かった気がする。


以前、県下の高校生が

ぎっしり集まった講堂で、

高校生から質問を受けた。


「どうしたら集中力が

 続くようになりますか?」


何でもいいから、

楽しいことに夢中になって、

いわゆる「時間を忘れる」ことを

くり返す。


実践と反復しかないと、

ぼくは答えた。


学生のころ、ぼくは、

家具をつくる学科にいた。

家具学科の先生は、

ほかの先生とは違って、

チャイムで授業を切ることを

しなかった。


「自分が好きなときに休んで、

 好きなだけ作業しろ」


かくいう先生自身も、

チャイムでは動かず、

職員室にも帰らず、

仕事の「切り」を見て

コーヒーを飲んだり、

煙草を吸ったりしていた。


週4、5日、

そんな1日の流れで、

1年間過ごした。



ぼくら家具学科は、

ほかの学科の生徒や先生や、

近隣の会社員で混みあった時間ではなく、

人もまばらな時間に昼休みをとった。


おかげでお店もすいており、

人気のお弁当屋さんでも

長い行列に並ぶのではなく、

注文してできたてを待って、

おいしいお弁当を

ゆっくり食べることができた。


そういう経験、実体験、

見てきた風景の集大成なのか。


自分で決めることの効能を、

身をもって体感してきた。


教育や啓蒙ではなく。

ましてや押しつけでもなく、

そういう「におい」を感じてくれたら。


ものづくりという間口を通して、

何か感じてくれたら。


これまで自分が、

先生や先輩から学んだことを、

伝えられたら。


そんなことを思い描きつつも。


なかなか自由に

のびのびと羽根を伸ばせない現実に、

静かに一人、

うなずくことの連続でもある。


家でも、学校でも、

だめ、いけない、

しなくちゃ、やらなきゃ。


禁止や義務ばかりでは、

つかれてしまう。


そしていつしか、

子どもが子どもでなくなっていく。


成長するのではなく、

ただただ「おとな」になっていく。


時代や世代は関係ない。

みんな「おとな」の都合だ。


そんなのつまらない。


だからぼくは、

口を出さない。


せめて「ここ」だけは、

好きにしてほしい。


遊びたければ遊べばいいし、

帰りたければ帰ればいい。


時間はかかっても、

正しいものは、必ず伝わるし、

普遍なものは、必ず残る。


炭酸飲料みたいな刺激もなくて、

地味で退屈で、

ときに特異で冷淡で、

時代遅れで突飛なことに

聞こえるかもしれないけれど。


本質とは、

ゆるぎない「こたえ」で、

単純だからこそ、むずかしい。


ややこしくしたがる「おとな」には、

よけいにむずかしいことに聞こえる。


ややこしくすることで、

むずかしくてやれないように

してしまう。


やるか、やらないか。


自分で決める。


ただそれだけ。


「こたえ」はいつも単純だ。



* * * *




2日目は、

構造的な部分での「助言」はしつつも。

あとは自由にやってもらえたらと、

静観していた。


2日目を終えて、思ったこと。


1時間に満たない時間で

終了する作業。


舞台の空気は整っているのか。


遅々として進まない

「ギンギツネ」の姿に、

もやもや、やきもきする自分。


そんな自分に未熟さを感じた。


理想と現実。理念と実践。

いくら頭で思っていても、

実際の行動がともなうとは限らない。


現場を無視して、

図面どおりに家を建てても、

家はまっすぐ建たないのだ。


大切なことは何か、もう一度、

咀嚼(そしゃく)しながら考えた。



子どもと大人のちがい。


先が見えないことは、

不安や心配ではなく、

わくわくなのだ。


昨日も明日も関係ない。

今、目の前のことがいちばん。


失敗させたくない、

最後まで完成させたい、

というのは、大人のエゴだ。


結果よりも、

その道のりを楽しむこと。


その余裕、ゆとりこそが、

ゆたかな時間。


「遊び」に

結果も成果もない。

成功も失敗もない。


「たのしかった」


そのひとことがあればいい。


何だかよくわからないけど、

なんかたのしかった。


目的も達成目標もない。


そんな「贅沢」な時間を

燃やしていけたら。


それこそがゆたかな時間。

黄金の時間だ。


一人、すっきりした自分は、

うんうんと、大きくうなずき、

次回の訪問を、

わくわくとたのしみに待った。



* * * * *



言葉ではなく、肌で感じる空気。


微弱な電気が空気をふるわせ、

情報を伝達するかのように。


自分がわくわくしていると、

周囲の景色も

わくわくした色に染まる。


目の前にいる子どもたちも、

それに共鳴するのか、

それとも子どもたちに共鳴しているのか、

わくわく感は累乗していく。


目には見えないはずなのに、

たしかに「見える」。


3日目、4日目。

空気がすごくいい色をしていた。



子どもたちが、

キツネのお腹の下に回って、

黒い布をぺたぺたと貼る。


「はい、

 じどうしゃしゅうりのおしごと、

 おねがいします」


仰向けに寝転んだ女の子に、

ボンドを塗った布を手渡す。


その横では、別の子が、

黒い布にせっせと刷毛で

ボンドを塗る。


さらにその横で、また別の子が、

布切りばさみで布を切っていく。


「ボンドおかわり!」


「はい、ボンド1丁!」


自然とできた分業制。


ボンドおかわり係のほかに、

ぼくもちょっと手伝うことにした。


布のはじに切れ目を入れて、

引っぱると「つぅっ」っと

いい音で布が裂けて切れる。


その音に、

子どもたちが

目を輝かせて顔を向ける。


なにそれ!と言わんばかりに

集まる子どもたち。


いくつもの小さな手が、

大きな黒い布をつかむ。


その音、感触、手ごたえ。


大人でも気持ちいいのだから、

子どもがやって

楽しくないわけがない。


すぐに「ミニつなひき大会」が

開催されて、

黒い布がどんどん割かれていく。


いくら引っぱっても裂けない布に、

つるつると足を滑らせる子どもたち。


「横方向には切れるけど、

 縦方向には切れないんだよ」


その不思議さに目を丸くして、

再び挑戦する子どもたち。


なんか、すごくいい。


初めての瞬間って、いつでも尊い。


そしてまた、分業制が再開。


「じどうしゃしゅうり」で

もぐりこんでいた子が、


「かおにボンドがついた」


と、起きあがった。


まるでパイを

投げつけられたみたいに。

顔半分が真っ白になるほど、

えらく派手にボンドをつけた子が、

悲しげな顔をこちらに向けている。


思わず笑うぼくに、

その子の顔も、笑顔になった。


「ちょっとこっち来て」


ウエットティッシュで拭いていくと、

半分真っ白だった顔が、

きれいな顔に戻った。


「どうしてそんなことになったの?」


と聞くと、


「ボンドがついたぬのが

 かおにおちてきた」


のだと。


なるほど。

それはそうなるよな。


その子だけでなく、みんな、

手はもちろんのこと、

服や髪の毛、靴下や足の裏など、

ボンドだらけだった。


固まった髪の毛が、

漫画のキャラクターみたいに

不自然な形で宙に止まる。


そんなどうでもいいことが

とても楽しい。


完成だけを求めて見失うのは、

こういう景色だ。


遊んでばかりで

先に進まないのとも違う、

手を動かす中で「遊ぶ」時間。


これを言葉で説明して、

浸透させるのもまた違う。


「こたえ」は、感じるもの。


この空気感。


この領域が、

いちばん「たのしい」瞬間なのだ。


ようやくできたこの空気。

伝えたかったこの景色。


すべてはそこにいる

子どもたちのおかげだ。


勘のいい子どもたちが集まって、

それぞれが伝播してくれたおかげで、

うれしい景色が編み上がる。


この空気を、

一度でも味わうことができたら、

どんなことでも「たのしめる」。


この空気さえ忘れなければ、きっと。


物を作ることだけが

「クリエイティブ」ではない。


何もないのにたのしめる心。

この感覚こそが、

「クリエイティブ」の源泉だ。


遊び(play)には

それが詰まっている。


仕事でも勉強でも、

遊べなくなったら、

わくわくしなくなったら、

おもしろくない。


子どもたちの姿に

再確認させられた。


遊べなくなったら、おしまいだと。


刷毛でボンドを塗りながら、

女の子が言った。


「ああ、すごくたのしいなぁ」


まっすぐな声に、うそはない。


「この会にさんかしてて、

 ほんとうによかった。

 すっごくたのしい」


うそみたいな言葉を聞けたこの瞬間。

ぼくは、もう満足だった。


まだ完成もしていないし、

終わってもいないのだけれど。


たった一人でもいいから、

このひと言さえ聞ければ、と。

そう思っていた言葉が、

まるで天からの贈り物のように、

ぼくの耳にふわりと

転がり落ちてきた。


涙こそ出なかったが。


泣いちゃうくらいに嬉しくて、

舞いあがるほど心が軽やかに踊った。


「ありがとう。

 そう言ってもらえると、

 すごくうれしいよ」


ぼくはその子にお礼を言った。


たとえその子が忘れても、

ぼくはずっと忘れない。


この瞬間の喜びを、

まぶしいくらいの笑顔と、

きらきらした瞬間を。


ぼくのほうこそ思った。


「やってよかったぁ」


大人にすら伝わらないことが、

子どもに伝わることがある。


言葉を超えて、感覚として、

実を結ぶ瞬間がある。



















作りかけの

「ギンギツネ」の姿を見た

大人が言う。



「これは、

 キツネっていうより、

 イヌか、クマですね」


子どもたちは、

これをキツネだと思って作っている。


「ギンギツネなのに、

 どうして黒なんでしょうね」


子どもたちが、

数ある布の中から

黒い布を選んで、貼りはじめた。


「キツネだったら、

 もっと顔もとがってて、

 耳も大きいんじゃないかな」


これは、

子どもたちの作ったもので、

ぼくの作品ではない。


だからこそ、

不格好でも愛らしい。


この先どうなるのかわからない。

このまま終わるかもしれない。


それでも、これはギンギツネ。


子どもたちが出した

ひとつの「こたえ」。

これはまぎれもなく

「ギンギツネ」なのだ。


0からつくる、

「こたえ」のない世界だからこそ、

子どもたちの選んだ「こたえ」を

尊重したい。














* * * * * *












6回目、最終日。


なんとか形になってきた、

ウマとギンギツネ。


最終日にふさわしく、

ギンギツネは「目入れ」という

場面を迎えた。


ビー玉かスーパーボールかで

迷っていたみんなも、

スーパーボールで作ることに決めた。


今度は色で悩んで、

やりながら決めることにした。


青や緑のスーパーボールを、

半分に割っていく。


6年生の女の子が、

持参のカッターナイフで

切ってくれた。


床に置いて、

ぐるぐると回しながら切るさまは、

小さなスイカを切っているみたいで、

おもしろかった。


何個か割って、

キツネの顔にあててみて、

最終的には黄色いスーパーボールを

貼りつけた。






鼻も目も、ボンドが固まるまで、

テープで仮止めをした。


「なんか、ミッフィーみたいだね」


などと言いながら、

麻縄でひげをつけて、ひとまず完成。














ウマのほうは、というと、

最終日のメインイベントとして、

「馬上げ式」を迎えることとなった。


足と胴と首、

ばらばらに作っていたウマの姿が、

ようやく全身像を見せるのだ。


大人4人と、たくさんの子ども、

みんなの手でウマを組み上げた。


見た目よりも軽く、

そしてしっかりとした安定感で、

ウマの姿が組みあがった。


その壮大さといったら。


もしかすると、子どもよりも、

大人たちのほうが

感激していたかもしれない。


ついに立ち上がったウマの姿は、

想像よりもはるかに大きく、

凛として、圧巻の姿だった。



























まるで現代っ子のように、

すらりとした

スタイルのいいウマだった。


みんなは鳥居のように、

ぐるぐるとくぐり抜けたりしていた。


ウマとギンギツネ。

並べた2匹といっしょに、

みんなで記念撮影をした。


ギンギツネは、

そのつもりはなかったが、

子どもだったら

乗れる強度に仕上がった。


構造部分を作っているとき、

ちょっと口出ししすぎたかな、

と反省もしたが。

しっかり目に作っておいて、

よかったと思った。


何より印象的だったのが、

「ギンギツネがいい」と

意見を出した子が、

完成したギンギツネをかわいがり、

まるでいたわるようにして、

最後までそばから

離れなかったことだ。


子どもは正直だ。


言葉より何より、

その姿が雄弁な「こたえ」だった。


またひとつ、

うれしい「感想」を聞けたようで、

安堵とともに、ありがたく思った。


ああ、やってよかったな、と。


みんなの笑顔に、

ほっとほおをゆるませた。


子どもだけでなく、

大人のみなさんも笑っている。


「最初はできるかどうか

 心配でしたけど、

 やればできるものですね」


そう言って笑う職員の方の顔は、

まるで子どものような笑顔だった。



























* * * * * * *




それぞれの「こたえ」。


ウマとギンギツネ。


それぞれの役目、役割。



「たのしい」に

決まった「こたえ」はない。

それぞれの形の「たのしい」があって、

それがそれぞれの「こたえ」になる。


今回、

たくさんお手伝いしていただき、

いろいろ学ばせていただいた

児童館のみなさんには、

すごく感謝しています。


「たのしい」の形。

「たのしめる」場所。

いろいろあるから、ちょうどいい。


マイノリティ、

などという言葉より前に、

パーソナリティがあるはず。


こたえを選べない環境では、

居場所だって見つけられない。


ぼくらの時代には、

それがなかった。


そんな言葉は、聞きたくない。




最後に、

ブルース・リー氏の言葉を引用して

終わりとさせていただきます。



" It is not how much you have learned

 but how much you have absorbed

 in what you have learned."


(どれだけ学んだかではなく、

 学んだことを

 どれだけ吸収したかが重要である)



"A few simple techniques well presented

 an aim clearly seen, are better than a

 tangled maze of data whirling

 in disorganized educational chaos."


(目的が明確に示された単純な技術は、

 混乱した教育の場で渦巻く

 もつれた情報の迷路より優れている)



" Walk on. "


(歩み続けろ)











< 今日の言葉 >


「自分は

 間とリズムを大事にしてるよ」


「へえ・・・。

 ていうか、マトリズムって、何?」



2024/03/01

ならんだ二人





* 



最後の手紙——。

もうこれが、最後かもしれない。


そう思って書いた手紙は、

無事、父の元に届けられた。



父の住所は知らなかった。

姉を頼って聞いてみると、

以前、お菓子を送ってもらった箱が

手元に残っており、

そこに住所が書いてあった!と

教えてくれた。


便箋5枚に書き綴った手紙。


動かない体で母を思い、

お金を届けてくれたことへの

お礼を書いた手紙だ。


余命2カ月。


父がその宣告を受けてから、

4カ月ほどの月日が過ぎた。


肺がんに罹った父は、

闘病生活を送っている。


いっとき、

自力で歩くことも

ままならない状態にまで

なっていたのだが。

なんとか杖1本で

歩くことができるまでに回復し、

動けるようになるとすぐ、

母のもとに顔を見せたのだった。


そのとき、心配した父は、

生活費の足しにと

母へお金を渡したのだと。

母の口から聞かされた。


手紙は、そのお礼だった。

おそらく、

いつもと変わらぬ感じの

「ありがとう」

で済ませたであろう母に代わって、

感謝の気持ちを文面で伝えた。


今しかないと思った。


もちろん、

そんなことはないのだが。

今書かなければ、

伝えられないことがあると思った。


だからどうしても、

手紙を出したかった。

メールでも電話でもなく、

手紙で気持ちを伝えたかった。


手紙には、

母のことへのお礼だけでなく、

これまで育ててもらったことへの

感謝も書いた。


闘病生活を送る父への

励ましの言葉も書き連ねた。



* *



父と母。


別に仲が悪いわけではない。


別々に過ごす生活が長くなり、

おたがい、離れているほうが

快適になってしまった。

ただ「それだけ」のことだ。


その「それだけ」の距離。

たった「それだけ」のことが、

二人にゆっくり隔たりをつくった。


離婚はしていない。

夫婦だから、いろいろある。

いろいろなことが、

たくさんあったことと思う。


息子のぼくからすれば、

父と母は

夫婦でも他人でもなく、

家族であり親である。


もろもろの事情はさておいて、

両親が仲よくしている姿は、

この上なく嬉しいことだ。



2018年、

父が脳卒中で倒れたとき。


いろいろ思った。


残された時間は、

過ぎ去った時間よりも

はるかに少ない。


その残り少ない時間のうちに、

どうにか二人が

笑顔で仲よくならんでくれたら。


一緒に暮らすとか、ゆるすとか、

そういう複雑なことではなくて。


ただ単純に、

心から笑ってほしかった。


二人ならんで、

心からの笑顔で笑ってほしかった。


何かの儀式や行事でもなく、

生活の一場面の中で、

二人がならぶ姿が見たい。

二人ならんで、

ふわっと心をゆるめてほしかった。

心と一緒に、

二人の顔もやさしくゆるんだ、

そんな姿を見てみたい。


それが、ぼくの夢であり、

目標のようなものになった。



* * *



母には再三言ってきた。

父への感謝を忘れず、

会ったときには、

きちんと言葉や態度で、

感謝の気持ちを伝えてほしいと。


父にもときどき伝えていた。

あんまり母さんを怒らないでと。


母は「どんくさい」ところがあるので、

いらちな父は

ちょくちょくおかんむりになる。


ぼくは、人が怒る姿が苦手だ。

家の中での怒声は、特に嫌だ。

たとえそれが「けんか」であっても、

怒鳴る必要は、ないように思う。


怒りは怒りをまねくし、

暴力は何も生まず、こわすばかりだ。


父は、暴力をふるったり、

暴言を吐くわけではないが。

押し黙る母に向かって

声を荒げる姿は、

幼心には「暴力」に等しく映った。


そんな父の勢いも、

病気や入退院をくり返すうちに、

少しばかりは丸みを帯びた。


対する母は、というと。

相も変わらずマイペースで、

人の話を聞こうとしない。



親とはいえど、

二人のことは、

ぼく自身のことではないので、

理想こそ思い描きつつも、

過度な期待はせず、

「こうなったうれしいなぁ」

といった程度に見守りつづけた。


会うたび一言二言、

あいさつのように、


「あんまり強く

 言わないであげてね」


「ちゃんと感謝を伝えてね」


と、しつこくもさりげなく、

二人にそれぞれ言いつづけていた。


しんでしまったら、

もう遅いから。


そうなっらもう手遅れで、

「そのまま」終わってしまうから。


そのまま残されたそれは、

もう二度と変わることなく、

ぼくの中で永遠に生きつづけてしまう。


そんなのは嫌だ。


もしも「子ども」を思うのなら、

何も残してくれなくていいから、

二人ならんだ笑顔の姿を残してほしい。


残された時間を使って、

二人に「宿題」を片づけてもらいたい。


ぼくは、ぼくのエゴで、

二人の笑顔を見たいと思った。



* * * *



思い立ったときから

5年ほど経った。


二人への「宿題」は、

いつしかぼくの「宿題」となり、

叶えておきたい「命題」となった。


2023年、秋。

父が余命2カ月と宣告されて。


そんな「宿題」のことなど、

頭から消え去っていた。


ただ、

少しでもいいから

父に伝えたかった。


今日まで育ててくれたことへの

感謝の気持ち。

これまで何の不自由もなく、

しあわせに暮らせたこと。

たくさん遊んでくれて嬉しかったこと。

いろいろ教えてくれて頼もしかったこと。

いろんな所へ連れて行ってくれて

楽しかったこと。

いろいろあっても、

父さんのことが好きだということ。


現実では、

なかなか面と向かって

言えなかったり、

うまく事が運ばなかったりするけれど。

ありがとうの気持ちだけは、

伝えておきたい。


もう、時間がない。


そう思って、

入院する父に手紙を届けた。


病棟の看護婦さんに渡して、

頭をさげる。


病院ではいろいろと

ご迷惑をおかけしてばかりの父で、

本当に面倒で厄介な

患者でしかないのだけれど。


それでも、父は父。


ぼくにとっては、ほかならぬ、

たった一人の父である。


かつてなら、

体裁や見栄ばかりが先立って、

本当の気持ちとちがった行動に

出てしまっていたはずだ。


2023年の秋。


できないことはできないけれど、

できることはしておきたい。


父を治すことも、引き取ることも、

何もできないから、

思いを書いた手紙を届けた。


大人になって初めて書いた、

父への手紙。


思ったことを、

思った通りにやってよかった。


最高の自己満足かもしれない。


けれども、

ちまたでよく言うあれで、

やらないで後悔するより、

やって後悔したほうがまし、

という選択。


初めての手紙は、

思った以上に、

父の心へ届いた様子だった。



* * * * *



そしてこの「2通目」の手紙。



これから家を出るぼくの耳に、

聞きなれた声が聞こえた。


父の声だった。


姉からの伝言もあり、

母にいろいろ

話すことがあっての翌日。


たまたま父が家に来た。


お膳立てのそろった

この「流れ」も、

なんとなくドラマめいていて、

家族劇場的な筋書きを感じた。


「ありがとう、嬉しい手紙。

 携帯、調子悪ぅてあかんから。

 手紙にしてくれてよかったわ」


手紙を読んでくれた父は、

となりに座る母の肩を抱いた。


「ほれ、見てみ。

 心配せんでも、仲よしやで」


照れくさいのか、

父は、背中向きのままで言った。


「ありがとう。

 手紙、嬉しかったで。

 お返事、書いてきたんやけど・・・

 あれ、どこいってもうたかなぁ」


ごそごそと、

財布の中を調べる父。


その背中は、

自分が見知った父の姿より、

ずいぶん白っぽい感じがした。


かつての父は、

4Bの鉛筆で描きなぐったような、

荒々しく、黒々と濃くて

太い線の持ち主だった。


目の前に座る父の背中は、

蛍光灯の白い光のせいもあってか、

2Hの鉛筆1本で描いたような、

薄く、白々として、

か細い線に見える。


すぐ横にならんで座る母も、

折れそうなほど先の尖った鉛筆で

さらさらと描いたように、

頼りない姿だった。


こんなに色がなく、

モノクロームになった

両親の後ろ姿。


骨ばって丸い背中は、

ぼくの知る二人の背中とは

ひどくかけ離れたものだった。


「あったあった。

 はい、お返事」


父が笑顔で手紙を差し出した。

封筒もなく、

四つ折りされた手紙には、

毛筆で書かれた文字が

おどっている。


「ありがとう。

 あとでじっくり読むね」


そこから少し、

がんばりや、とか、健康第一や、

病気になったらつまらんからな、とか、

そういう話になって。


歩けなかったときはしんどかったと。

ゆっくり父が語り始めて、

黙ってぼくは聞いていた。


余命2カ月と言われて、

2カ月間を過ごし、

そこからさらに2カ月経って。

父は、どんな心境なのか。


気になったというわけでもないが、

父の口が、自然と話した。


「怖いとかそういうのんはない。

 やり残したことも、ないしな。

 やりたいこともやったし、

 もう十分や。

 治るっちゅうわけでもあらへんし。

 ただ、がんと付き合ってく。

 それだけや」


肚(はら)はすわっている。


言葉だけでなく、

そんな決意のようなものが

感じられた。


もちろんそれは、

父の父らしいふるまいで、

言いながら自分に

言い聞かせているのかもしれない。


たとえそうだとしても。

以前には感じられなかった

「おだやかさ」のようなものが、

父を包んでいるのはたしかだった。


当たりの強い、いらちな父が、

ここへきてようやく

丸くやわらかになって、

いわゆる「常人」ほどの当たりに

なってきたのかもしれない。


ほんの少しではあるけれど、

まるで祖父のような

やさしい雰囲気がふわりとにおった。


「母さんのこと、よろしく頼むで」


父はそう言ってまた、

母の肩を力強く包んだ。


見た感じでは、

母はまだ変わっていない。


肩に乗せられた手に、母は、

戸惑い、少し迷惑そうな、

それでいて本気で

嫌がっているふうでもない、

子どもじみた「はにかみ」を

浮かべている。


そろそろ出かける時間だ。

部屋の隅からふり返ると、

父の笑顔があった。


「あやちゃんもとしくんも、宝物や。

 父さんたちの、宝物や」


「あやちゃん」とは姉のことで、

「としくん」というのは、

ぼくのことである。


宝物。


何もできない、

不甲斐ない自分だけれど。


宝物なら、

じっと黙っていても光を放つ。

ただそこに在るだけで、

まぶしい光を静かに放つ。


「気いつけて行きぃや」


「うん。父さんもね」


ふり向くとそこに、

二人の笑顔があった。


たとえそれが「うそ」であっても。


父と母の、

ならんだ二つの笑顔は、

ぼくにとって「宝物」だった。


去年、入院中のぼくを

見舞いに来てくれたときの、

二人の姿。


そのときに比べて、

華々しさも彩りも何もない、

ふだん使いの笑顔だけれど。

だからこそ尊い風景だった。


「子は鎹(かすがい)」


などとは言うけれど。


そんな強固なものには

なれずじまいだった。

細い糸くらいには、

なれただろうか。


父と母との過去をたぐる、細い糸。

なつかしい、あたたかな気持ちを

たぐりよせる、そんな糸には、

なれただろうか。


家族の糸は、切っても切れない。


いくつになっても、親は親。

いくつになっても、子どもは子ども。


父と母。


平凡じゃなかったからこそ、

見える風景がある。


ぼくは、父と母の、

二人ならんだ笑顔を忘れない。


何の効能もない、

つまらない日常の

一場面かもしれないけれど。

ぼくにとっては大きく、

心から嬉しい、宝物の風景だ。



墨(すみ)で書かれた父の手紙。

父からの手紙の結びには、

こう書かれていた。


『母さんを見守ってやってください。

 がんと共に生きる。

 もう寿命やと思っています』


悲しみではない何かに、

ぼくは、少し目を潤ませながら、

ハンドルを握っていた。


父からの贈り物。


お金よりもおもちゃよりも

嬉しい宝物。


子どものころに、

失くしてしまった宝物。


ずっとほしかった宝物を、

ぼくはもらった。


目の前になくても、

けっして消えない宝物。


ずっと心の中にあった、

塊のようなものが、

すうっと溶けてなくなったような、

軽やかで深遠な解放感。


ありがとう、父さん。


この宝物は、

誰にも奪えない。



うそみたいな世界だからこそ、

ぼくは、絵に描いたような

ドラマを信じる。


2024年2月28日(晴れ)


忘れないうちに、

忘れちゃいけない家族の劇を

ここに記します。



< 今日の言葉 >


「接続の『を』で『たてを』です」


父:建雄(たてを)の名前の説明



2024/02/18

うつくしいものの価値



 


こんなことを書くと、

愚痴とか批判めいて、

じめじめとしみったれた感じがして。


書いてはみたものの、

公開せずに放置していた。


けれども、

知人友人などの話を聞くうち、

これは、自分だけの、

個人的な出来事でも

ないように思えた。


主語や名詞を変えれば、

どこにでもあるような。


そんな「お話」のように

思えはじめた。



数年前、

ギャラリーの人から

声をかけていただき、

展覧会(個展)を

開催することになった。


場所は

ギャラリー空間ではなく、

店舗内を会場とした展覧会だった。


ふだん、自分で主催して、

一人で運営することが多いのだが。

ときどきこうした会に

お誘いをいただき、

展示させてもらう機会がある。


それはとてもありがたいことなので、

できることなら

なるべく受けさせてもらう、

といった姿勢であった。


その会も、

主催者である

ギャラリーの方からのお誘いに、

まよわず「ぜひ!」と

お答えした。


2カ月ほど「待機」の状態がつづき。

はて、どうなったのか、

明日連絡がなければ

もうやめにしようかと思案していると、

まるで思いが伝わったかのようにして、

主催者から連絡があった。


会場となる店舗の都合で、

返事が遅れたとのこと。


中止を考えたぎりぎりのところで、

お声がかかり、

打ち合わせの日程が決まった。


会場の下見を兼ねた

簡単な打ち合わせのあと、

正式な回答で開催を決める。


会場のようすを見回しながら、

どういう展示にしようかという

期待感とともに、

声をかけてもらえたことへの

感謝とよろこびがいっぱいで、

わくわく胸をはずませていた。


日程は決まっているので、

あとはひたすら

作品を準備するだけだ。


「できるだけたくさん、

 1枚でも多く描いてね」


主催者の方から、

期待の声がかかる。


会期まで2カ月弱。

小さい絵なら、

1日1枚描くこともできる。


もちろん描きはじめるまでには、

絵を描くためのパネルを準備したり、

習作を描いたり、

色鉛筆を買いに行ったりなど、

いろいろな下準備が必要になる。










絵を描くためのパネルというのも、

市販されているわけではなく、

シナベニヤをカットして、

ヒノキ材の角棒を桟(さん)にして

任意の大きさのパネルを

自作するわけだが。


かつてはクランプで固定して、

一昼夜寝かせてから

カンナで削って、

ヤスリをかけて仕上げていたパネルも、

時とともに、

使用する部材や仕様の変化で、

クランプを使う必要がなくなった。






接着剤で固定したあと、

カンナをかけ、ヤスリで削る。


パネルの側面・背面は、

額装してしまえば

見えない部分であるが、

面取りをしないと、

手を切ったり、角が割れたりする。


この作業を、

これまで何十、何百と

くり返してきた。


ちなみに、

完成した絵を入れる「箱」も、

自分で作っている。

ぴったりの箱がないので、

自分で作るほかないのだ。


箱に使うのは、おもに、

紙おむつのダンボール。

硬さや厚さなどが好ましく、

清潔なので、

紙おむつのダンボールが

とても具合がいいのである。


箱を作って十数年。

絵はちっとも上手くならないが、

箱作りに関しては

かなり腕が上がったように思う。



2012年




2023年



ちなみに最近、

肌で感じたことがある。


少子高齢家の波。


紙おむつのダンボールを

もらいに行くと、

赤ちゃん用より、

成人用のものが格段に増えた。


なんとも言い難い

切実な現実を、

箱作りの側面から感じようとは。

まるで思いもよらない現象だった。


・・・話は戻って。


展覧会を開催するにあたって、

絵を描く(作品を用意する)だけで

いい場合と、

こまごまとした準備が

必要な場合とがある。


展覧会には、

告知のための

案内状(DM)が必要になる。


SNSでの発信や、

各メディアでの広報も必要だ。











造作物もあれこれある。


ポスターや会場案内図をはじめ、

キャプション——

作品の題名・説明や

価格などを書いた札(ふだ)も

作品の数だけ必要になる。






会場の設営、展示計画。

搬入から撤去まで、

たいては自分でやることが多い。


ときには、

梱包した作品を送って、

設営から運営までを

お任せすることもあるが。


ほとんどの場合、

すべて自分(自力)で

行なっている。


大変なようでありながら、

それがたのしみの部分だったりする。


だからこそ、

全部を自分で動かす形の会を

たくさん開催してきたのだろう。


会場の掃除から、

お客さんの対応まで。

すべて一人でやってきた会のほうが

多いように思う。


やりたいこと、

やりたい形を具現化するために、

場所や条件を探すうち、

結局自分主体でやる形に落ち着く。


それが、

一人で開催してきた、

1番の理由だった。


とにかく。


一見にぎやかで

派手なように見える展覧会も、

地味で地道なものが、

こつこつと

織り重なったものだということは、

たしかな事実だ。































経験者、または、

関係者の方であれば

おそらく、

周知のことと思う。


展覧会におよばず、

何かをつくりあげると

いうことの裏側には、

地味で、地道な作業の連続が

積み上げられているものなのです。














* *



主催者が自分ではない展覧会には、

必ずロイヤリティ(手数料)が

発生する。


お金のことは、

聞きづらいからといって

後回しにしていると、

いいことがない。


ずいぶん前の話。


注文をいただいた絵を

すっかり描き終え、

お客さんのもとに届けた時点で

初めてお金の話になり、

そこでようやく「価格」を

伝える格好になった。


値段を伝えると、

思ったより高かったのか、

お客さんが少し、

びっくりした表情を浮かべた。


ほんの一瞬だけれど、

たしかに驚きの色が見えた。


お金の話は、とてもしづらい。


絵を描きはじめて間もないころには、

本当につよく、そう思っていた。


けれど、

驚くお客さんの顔を見て、思った。


聞かれなかったから、

では、すまされない。


切り出ししづらいのは、

お客さんも同じかもしれない。

だったら自分のほうから、

先に言おう。


やましいことなど何もないし、

これが自分の仕事なのだから。

胸を張って堂々と

お金の話をするべきだと、

そのときから考えを改めた。


グループ展などで、

ときどき言われる。


「チラシのデザイン

 お願いできるかな?」


もちろんできる。


会社勤めを辞めたあと、

いっときではあっても、

デザインの仕事をしていた経験もある。


広告代理店時代の知人から、

デザインやイラスト、

文章などの仕事を

投げかけてもらったおかげで、

「無職透明」な生活を

なんとか乗り越えられた・・・

そんなお茶目な時期がある。


趣味やサービスではなく、

お金をもらってやる仕事。


それは、

技術や納期や

約束はもちろんのこと、

責任感や自覚が育てられた、

とても意義ある期間だった。


だから思った。


「ただではやらない」


もし、

ただだからお願いするのであれば、

自分以外の誰かを当たってほしいと。


一人で店をかまえた

美容師の知人が言っていた。


「前髪、ちょっと切ってほしい」


そう言われたときに、

たとえそれが友人であっても、

お金はもらうべきだと。


美容師になるため、

自分はこれまでに

たくさんの時間とお金を

使ってきたのだから。


お金をもらっているお客さんが

たくさんいるのだから。


だから、

ただではハサミを使わないと。


その言葉に、

強いプロ意識と決意を感じた。


「ただではやらない」


その言葉の裏には、

美容師の知人の言葉や、

これまでの自分の経験などが

宿っている。


グループ展で、

チラシのデザインを頼まれたとき。


「ただではやりません」


というぼくに対して

返されたのは、

グループ内の別の人に頼む、

という「答え」だった。


誰よりも年長者で

権威あるグループ展の主催者は、

ぼくのような生意気な者ではなく、

従順で、生真面目な、

ほかの仲間にデザインを委ねた。


仲間うちで動かす会だから、

ということで、

報酬や謝礼は支払われない。


時代のせいにするつもりはないが。

昔気質の、古い習わしが生む、

悪しき習慣だと、自分は思う。


本当にやりたければ、

ただだろうが大変な作業だろうが、

自ら手を上げて志願する。


たくさんの会を重ねて。


自分には、

そういう「内輪」の気質が

なじめないと感じた。


時間と労力はもちろんのこと、

その人が持つ技術や技量を

使うものであれば、

どんな仕事でも、

敬意と対価を払うべきであると。


お金のために動くわけではない。


けれども、

技術のある相手に

それを求めるのであれば、

年齢の上下は関係なく、

お金を支払うのは当然のことだ。


誰かから固定給を

もらっている分には

わからない感覚かもしれないが。


相手が従業者でないのであれば、

お願いした仕事に対して、

対価を支払う。


そんな当たり前のことが

大前提として、

当たり前に広かったら、

もっともっと

いいものが生まれるように思う。


だから、ぼくは言う。


「ただではやりません」


と。


そして煙たがられる。


あいつは金に

うるさいやつだと。


そんなふうに

言われたことはない(と思う)が、

言っていかなければ、

そのまま「それ」が

まかり通っていく。



* * *



今回話題にしている会を、

記述上では

「展覧会」とさせてもらう。


「展覧会」の下見の帰り道、

主催者の方に聞いてみた。


「今回の展覧会、

 手数料って何%なんですか?」


聞かなければ、

このまま過ぎて

しまいそうだったので、

自分からそれを切り出した。


前置きのような説明が

たくさんあったが。

ようするに手数料は

「50%」ということだった。


50%。


1万円のものを売ると、

5000円差し引かれて、

自分には5000円が支払われる。


10万円の

売上げがあったとすると、

5万円差し引かれて、

自分には5万円が支払われる。


50%。

言うまでもなく「半分」だ。


みなさんも、

給料が半分になることを

想像していただきたい。


「ご、50パーセントって」


思わずぼくは、

失笑してしまった。


ふだん一人で運営しているので、

手数料というものと

縁遠い展示ばかりだったせいもある。


ギャラリーではなく、

店舗が会場で、

主催者は会場にいない。


案内状(DM)のデザイン・制作から、

印刷の手配までを自分が担当する。


キャプション作りも、

設営も、

諸々の準備はすべて自分。


ギャラリーの人は、

この会の主催者として、

場所を提供して

顔合わせの会を取り持ってくれた。


会期中の運営は、

お店の人と、ぼくでやる。


これまで、

ギャラリーでの展示をしてきて、

手数料は20〜30%で、

一番多くても40%だった。


40%のときは、

会場へ作品を送って、

設営から運営、撤去まで、

すべてをお任せしての会だった。


50%。


丸任せでもなく、

ほとんど自分で動いて50%。


世間知らずで

経験不足の自分には、

百貨店と同等のその手数料に、

まこと失礼ながら、

思わず失笑してしまっていた。


ちなみに最近、

「手数料50%」という会があった。


委託(売れた作品の

分だけの支払い)の場合では40%。

作品をすべて

買い上げてもらう場合では50%。

どちらかを選択できた。


主催者からの説明を聞いて、

40%や50%という数字を、

多いともおかしいとも

まるで思わなかった。


その会は、

主催者に作品を送って、

すべての運営をお願いする形の

展覧会だった。


作品の輸送を

「片道」にしたかったので、

「50%で買取」でお願いした。


主催者は、

これから描きあがる作品を信頼して、

ぼくの希望を承諾してくれた。


ぼくのほうも、

主催者の方への信頼があったので、

期待に応えられるよう、

1枚でも多くの絵が

売れることを願った。


その結果。


主催者の方は、

愛情と責任を持って、

全体数の5分の4の作品を

販売してくださった。


自信はあったが。

期待に応えられて、

安堵とともに、嬉しく思った。


50%という「価値」。


百貨店ほどの集客や

新しいお客さんとの出会いが

見込めるのであればまだしも。


その「展覧会」の主催者は、

これまで見てきた感じでは、

それほど大きな磁力は

ないように思えた。


「50%って。

 それじゃあ、

 生活できないですよ」


冗談っぽく言ったつもりなのだが。

冗談にしては面白くないし、

ちっとも笑えなかった。


主催者は言った。


自分の一存では決められない、

お店の人と相談する必要がある、と。


どんな条件ならいいのかと

聞かれたので、

思いっきりの希望は20%、

もし難しいのであれば

なるべく30%に近い形で

お願いしたいと答えた。


「わかりました」


主催者の方が、

真摯にうなずいた。



家に帰って、メールを見ると、

主催者からの着信があった。


『今日、△△くんの展示最終日でした。

 △△くんは、学校の先生の仕事と

 作家活動を両立させていて、

 とても偉いと思います』


いったい何が言いたいのか。


ぼく宛に送られたはずのメールだが。

ぼくに必要な「お報らせ」は

まるでないような文面に見えた。


メールの内容は、

それ以上、何も記されていない。


そのメッセージを

何度も読み返して、

はたと思った。


主催者の人は、

怒っているのかもしれない。

少なくとも、

気分を害したに違いない。


というのも。


ぼくは絵の仕事以外、

ほかに仕事をしていない。


アルバイトも副業もなく、

これが「本業」だ。


いきなり引き合いに出された

「△△くん」の話。


主催者の人は、

あてこすりのような感じで

不可解にも思えるメールを

よこしたのかもしれないと。

そのときのぼくは、

そう感じた。


返す言葉も見当たらず、

これから始まる展覧会について、

どうぞよろしくお願いします、

というメールを送ると、

それには特に返信もなかった。



* * * *



手数料が、

何%になるかはわからないけれど。

お店や主催者にしっかり還元したい。

そのためには、

いい絵をたくさん描かなければ、と。


ひとまず

「周辺のこと」は置いといて、

絵を描くことに専念した。


朝起きてから暗くなるまで。

暗くなってからも、

やることはたくさんある。


明るいうちは絵を描いて、

暗くなったら、

キャプション作りや

案内状(DM)の制作など、

そのほかの作業に時間を充てた。


2カ月なんて、あっという間だ。


準備期間が限られているので、

休みなく、毎日絵を描いて、

なんとか21枚の新作を描きあげた。


そこからすぐに、

箱作りやこまごました準備に

取りかかった。


案内状のデザイン・制作、

版下(印刷するための元)づくりに、

思いのほか時間がかかった。


紙面に入れたい写真や文面で

いろいろと注文があり、

店舗の責任者から何度か

「やり直し」が告げられた。


なつかしい、この感じ。

デザインで「だめ出し」をもらう、

あの感じ。


ああ、

うつくしかったデザインが

どんどん崩れていく・・・。

そんな憂いと、

それでもなんとか

きれいに整えるぞ、という、

闘志が燃え上がる。


今回もまた、

広告制作料はもらえない。


「きみの個展だから

 仕方ないでしょ」


そう言われたら、

ぐうの音も出ないが。

半分はお店の宣伝でもある。


ということで、

400枚ほどの案内状の切手代を

負担していただけないかという旨を、

切り出し、交渉してみた。


窓口となってくれた店舗の方は、


「いいですよ、まとめて出すんで」


と、快く承諾してくれた。


本当に、

そうでもなければ・・・と思うほど、

がっつり「仕事感」のある、

なかなか難儀な案内状づくりだった。


刷り上がった案内状をもらう。

自分用には500枚もらって、

うち100枚は手配りと、

知り合いのお店や

画材屋さんなどを回って、

少量ずつ置いてもらった。


残りの400枚は、

例のごとく、

手書きで宛名を書いた。


1日80枚くらい書いて、

5日間で書き終えた。


書き終えた案内状を

お店に渡しに行く。


と、そこでなんとなく、

話の流れで、

お店の人が送ったり

配ったりするために受け取った

案内状の枚数を耳にした。


ん? 待てよ。


印刷の準備を

したのは自分なので、

今回の案内状の総数は、

まちがいなくわかっている。


ということは・・。


主催者である

ギャラリー側が手にした

案内状の枚数が、

おのずとはじき出されてしまった。


約30枚。


ちょっとあせった。


けれどもきっと、

自分じゃ届かないような、

美術関係の施設や関係者など、

太いつながりのある宛先に

送ってもらえているのだろう。


少数精鋭的な感じで。

いや・・・。


それにしても、

少なすぎないかい?


30枚なら、

ギャラリーに置く分で

終わってしまいそうだ。


おかしいな。

案内状の枚数の話をしていたのは、

顔合わせのときのはず——。


それはまだ

「50%騒動」よりも前の話だ。


考えたところで答えも出ない。


残された時間で、

準備を整えなければ。


1日、また1日と過ぎ、

会期が迫っていく中で、

主催者からの連絡は

まるでなかった。


手数料の返答がないまま、

何%か定まらないまま、

すっかり準備が整いつつあった。


あと何日を残してのことかは

記憶にないが。


こちらから

「どうなりましたか?」

と問いかけのメールを送って、

主催者からの返事があった。


「20%でいいです」

という内容が書かれた、

短かいメール。


うれしいはずが、

なんだかひどくさみしい感じがする

そのメールに、

わくわくの気持ちが

しゅるしゅるとしぼんだ。


「もう、やめようかな」


弱音の虫がころころと鳴く。


が、思うだけで、

やめることはない。

待ってくれている人がいる以上、

やめるわけにはいかないのだ。


その日は

何も考えたくなくなり、

頭を使わない作業に没頭した。


翌日はぼんやりと

何も手につかず、

どうやって過ごしたのかも

覚えていない。




* * * * *



そんなふうにして迎えた

展覧会前日。

搬入・設営の日である。


そのときまでにはしっかり、

しぼんだ気持ちも

切り替えていた。


せっかくお客さんが

観にきてくれるのだから。

全力でびしっと展示をしたい。


お店の人とあいさつを交わし、

さっそく、搬入・設営に取りかかる。


お店は定休日で、お客さんはいない。

真っ暗になるまでには

終わらせたいので、

一人、てきぱきと動いて、

展示の設営を進めていった。


前の人が残した

釘(くぎ)を抜きながら、

お店の人に確認する。


「釘って打って大丈夫なんですか?」


「前に打ってあるんだから、

 大丈夫なはずですよ」


聞くところによると、

主催者とお店の責任者の方とは、

古くからの付き合いのようで、

そこらへんのことは

確認し合っているはずだ。


現にこうして釘が

打ってあるのだから。


この店での展示も、

かれこれもう数年目、

何度目かの展覧会という話だ。


硬い壁を相手に、

釘を打ち直していると、

お店の人が奥に消えた。


ほどなくして、

お店の人の消沈した顔が

ぼくを見た。


「釘はやめてくれって」


言葉とおなじく、

手で「バツ」をつくりながら、

苦々しい表情で言った。


「え、前にも打ってたんですよね?」


そう問いかけるぼくに、

お店の人は、

苦い顔のまま小さく答えた。


「そういうこと言うと、

 またややこしくなっちゃうんで。

 社長は、そういうの嫌うから。

 今回はすみません、

 っていうふうに言っておきました」


ぼくは、心の中で、


(ええっ、なんかやだな。

 ぼくが勝手にやったみたいで)


と思ったが。

もちろん、口には出さなかった。

顔には少し、出ていたかもしれない。



設営もほぼ終わり、

あとはキャプションなどを貼れば終了、

といったくらいの頃合いに。


「おつかれさーん。

 どう、問題なくいけそう?」


主催者の声がした。


「今さっきまで、

 ◇◇ちゃんの展示の立会いで。

 あっちはちょっと大変そうだから」


主催者が、早口につづける。


「家原くんは大丈夫だよね?

 現場も慣れてるし。

 これまでずっと

 一人でやってきてるもんね。

 どう? もう終わりそう?」


一応、報告までにと思い、

昼間の釘の件を主催者に伝えた。


「何かしら波風が立つね、家原くん」


主催者の口からこぼれた

そのひと言に。


ぼくは、

二度見ならぬ、

三度見の勢いでふり返った。


(ええっ?! ぼくぅ??)


援護が来るものと思いきや、

まさかの狙撃に、

背中から撃ち抜かれた。


(主催者って一体・・・)


心の中で、ぼくが言う。


もしぼくが「主催者」なら、

迷える子どもたちを

つよく、やさしく守ってあげたい。


ここまでくると、

怒りも悲しみもなく、

自然と頬をやわらかくゆるめ、

菩薩のような柔和な笑みが

静かに浮かんでいた。


かつての自分なら、

ここで何か、言っていたであろう。

自分を正当化する何かを、

自分の正しさを主張する何かを、

冷静な熱をもってして、

饒舌にまくし立てていたに違いない。


「今回、新作は何枚描けたの?」


つづく主催者の声に、

顔を向ける。


「小さいパネルで20枚と、

 大きい絵を1枚で、21枚描きました」


「会期中にも、

 もっともっと

 描いてくれていいから。

 どんどん展示してもらって

 大丈夫だから」


言い終えた主催者は、

道具箱やら脚立でにぎわう

会場の風景を写真に収めると、


「それじゃあ、

 ◇◇ちゃんたちの様子を

 見に行かなくちゃいけないから、

 あとはよろしくね」


と、足早に去っていった。


外は、真っ暗だった。


箱や道具類を片づけて、

やり残しはないかを確認する。


大丈夫そうだ。


最後、お店の人に

お願い事項や注意点などを伝えて、

会場をあとにする。


「明日から、よろしくお願いします」


頭を下げて、お店を出ると、

疲れがどっと押し寄せた。


展示はいつも、

設営し終えるまで、

完全に「見える」わけではない。


たいてい「思い描いた」とおりに

いくことが多いが、

それでも、設営し終えるまでは、

気が抜けない。


だからこそ、

無事に終わってほっとする。


完成が終わりではなく、

終わりからが「始まり」だ。


こうして始まった「展覧会」。


会期中、

主催者と顔を会わすこともなく、

会場へ来たという話も聞かぬまま、

あっという間に

最終日を迎えることとなった。



* * * * * *



ありがたいことに、

何枚かの絵が売れていった。


ふだんの会に比べて

数はふるわなかったものの、

顔見知りだけでなく、

新規のお客さんにも買ってもらえた。


さらにうれしかったのが、

みな「絵を買うのが初めて」という

お客さんばかりだった。


初めて買う絵が自分の絵だなんて。

これほどありがたく、

光栄なことはない。


最終日。


お客さんが去った会場で、

お店の人と話しながら、

搬出作業に取りかかる。


自分のお客さんが、

お店の商品を買ってくれたり。

お店の常連さんが、

自分の絵を買ってくれたり。


21枚のうち8枚と、

数こそ少なかったかもしれないが、

グッズなども売れて、

少しは売上に貢献できた。

この展覧会を通して、

お店の存在も知ってもらえた。


自分が会場にいなかったとき、

どんな感じだったのかなど、

お店の人に聞いてみた。


「家原さんのお客さんは、

 みんないい人ですね。

 なんていうのか、

 うまく言えないんですけど、

 これまでのお客さんと

 ちょっと違って、

 話しやすいっていうか、

 いろいろ興味を持ってくださる

 お客さんが多かったです」


その言葉は、

自分のことをほめてもらえるより、

何十倍もうれしく感じた。


自分もそう思う。


お客さんは、

いい人たちばかりで、

遠くまで足を運んでくれたり、

みんなを誘ってきくてくれたり、

本当に恵まれていると思う。


いい意味で、

芸術とかアートとか、

そういうくくりで

観にくる人が少ない。


いろいろなことに興味を持ち、

開けているのは、

そのせいもあるだろう。


老若男女、千差万別。

みんな違って、みんなおもしろい。


そしてみんな、

違うのに「おなじ」だ。


みんな子どもみたいに

きらきらしていて、

いつも展示を楽しんでくれる。


あれこれ評論したり、

むずかしいことを言ったり、

理屈っぽい話をする人は少ない。


ただただみんな、

楽しんでくれる。


だからぼくは、

いつももらってばかりだ。

いいものを、うれしいものを、

たくさんもらってばかりいる。


会場の片づけを進める中で、

数客数や、客層の話の流れで、

ふと気になって聞いてみた。


「ギャラリーとかの

 関係者の人とかは、

 どれくらいきましたか?」


「うーん・・・特に来てないですね。

 (主催者)さんのお知り合いは、

 2組で、3名こられました」


お店のお客さんは「2桁」で、

自分のお客さんは「3桁」だ。


2組で3名。


これは一体・・・。


「おつかれさま〜」


声の主は、主催者だった。


「何枚売れたぁ?」


開口一番、

主催者の第一声に。


いろんな過去の断片が、

一気につながった。


某市で開催した展覧会。


「20枚も売れてるね。

 家原くん、売れっ子だね」


また別の展覧会では。


「すごい売れてるね。

 ほぼ完売の勢いじゃない?」


さらにまた別の展覧会では。


「初日でこんなに売約済だらけで。

 最終日までには

 全部売れちゃうんじゃないの?」


ばらばらだったときには

気づかなかったが。

ならべてみたら、つながった。


主催者の人は、

ずっと「売れてる」ことしか

話していない。


これまで、

展示の内容や感想を聞いたことは、

何度かあるかもしれないが。

絵の感想などは、

ほとんど聞いたことが

ないことに気がついた。


今回の「展覧会」の、

搬入・設営のときにも、

「どんな絵が描けた?」

ではなく、

「何枚描けた?」

ということだけ聞かれた。


初見であるはずのあの日。

あっという間に

現場を去っていった主催者が、

壁に飾られた作品を見た気配は

まったくなかった。


グループ展以外で、

直接関わることは

あまりなかったけれど。

節目節目でお世話になってきた。


そんな恩義もあって、

信頼してきた。


ほぼほぼ片づけも終わった頃合いに、

ふっと現れた主催者。

その口からこぼれた第一声に、

ぼくは、また別の風景を

思い返していた。


それは、

自分が広告代理店で

働いていたころの話だ。



* * * * * * *



生意気でわがままな

20代のぼくは、

いつでも自分の考えが正しいと

思いこんでいた。


あるとき、

いくつか年上の、

上司である営業男性に

思いっきり怒鳴られた。


「お前らは、俺たち営業が

 食わしてやってんだぞ!」


怒声とともに飛んできたのは、

週刊少年ジャンプだった。


風を切り、

ばさばさと音を立てて飛んだ

少年ジャンプは、

ぼくの頬をかすめて

床に落ちた。


紙の翼を折り曲げて横たわる姿は、

墜落した鳥のように見えた。


ぼんやりと視線をあずけていると、

営業男性の声が耳に響いた。


「お前らは俺たちの言うとおり、

 黙って作ってりゃいいんだよ!」


おそらく営業男性は、

きっかけを探していた。


いつか言ってやろうという思いが、

積もりに積もっての少年ジャンプ。


事の発端は、

「今日」だけのことではない。

これまでの日々の打ち合わせの中、

度重なる「いさかい」の

集積だった。


営業男性はいつも、

「お客さん重視」の企画を立てる。


お金を出してくれるスポンサーが絶対で、

その要望も、またしかり。


『21世紀に羽ばたく

 グローバル企業』


というキャッチコピーをでかでかと配し、

立派な社屋の外観写真をでーんと載せる。


『業界トップクラスの最大手』


なとという殺し文句も

忘れずに添えて。


「あとはメリラレでいいから」


「メリラレ」というのは、

メリット(長所)を

羅列(られつ)した

広告のことを言う。


幕の内弁当のような、

大盛りハンバーグカレーのような。

そういう「わかりやすい」広告は、

反応の数こそよくても、

その質が低下する場合がある。


特に企業の人材を集める広告では、

数も必要だが、質も重要だ。


「数が集まれば、その分選べる。

 数がなきゃ、選ぶにも選べないだろ」


とは、言うけれど。


メリットばかりを追って

集まった人材は、

定着率が低かったりするので、

また何度も広告を

打ち出さなくてはいけなくなる。


それは、営業側にとって

好都合かもしれない。


けれども、読者からすると、

人生の時間を無駄にしてしまったり、

何度も広告を打ち出している企業を、

必ずしもいいふうには

とらえなくなったりして、

長い目で見ると、

かえって悪い循環を招く。


最終的には読者もはなれ、

媒体自体の信用度も低下する、と。


20代のぼくは、生意気にも、

そんな主張でぶつかった。


「お客さんじゃなくて、

 読者を第一に見る必要がある。

 それが結局、

 お客さんのためにもなるし、

 みんなが喜ぶ結果につながる」


こんなにうまく

語れていたかどうかは不明だが。

このことでいつも、

営業の男性と衝突をくり返していた。


営業(売り手)と

制作(作り手)は、

数字と質との象徴だった。


両者がうまくバランスを取り合って、

「いいもの」を作る。


いいものを作って信頼を得て、

また仕事を与えてもらう。


生意気なぼくの態度に

業を煮やした営業男性は、

ついに爆発したのだった。


「いい加減しろよ!

 勘ちがいするな、

 お前の作品でも

 何でもないんだからな。

 全部やり直しだ。

 すぐに打ち合わせするぞ」


少年ジャンプを手にしたぼくは、

静かに営業男性の机に向かった。


少年ジャンプをそっと置き、

営業男性の目を見て、

まっすぐ言った。


「急ぎの仕事があるんで、

 5時まで待ってもらって

 いいですか」


すぐ、打ち合わせを

できなくもなかったが。

ちょっと「冷ます」時間がほしかった。


営業男性は、ふん、と鼻を鳴らして、

ぼくの上司にあたる主任に向かって

声をあげた。


「おい、ちゃんと言っとけよ。

 なぁ? わかったか」


「はい、わかりました。

 僕も言おうと思ってたんです。

 こいつには僕も、

 いい加減、困ってるんで」


いつも「仲よく」して

くれていた主任だったが。

社会性も社交性もあり、

順当に出世するタイプの彼は、

味方にはなってくれず、

冷たい視線をぼくに投げかけた。


「5時に打ち合わせだからな」


営業男性はそう言い残して、

どこかに出かけた。


扉が閉まると、

角ばった空気が少しやわらいで、

ほっとする吐息が

方々から漏れ聞こえるようだった。


「絶対、殴り合いになると思った」


制作アシスタントの女の子が

ぼそりと言った。


Macの前に座ったぼくは、

やりかけの仕事の続きに戻った。

自然と横並びになった主任が、

苦々しく顔をゆがめてみせた。


「あんなやつ、

 勝手に言わせとけば

 いいからさ」


まさしく八方美人の七色主任。


主任のことは好きだったし、

営業男性のことも、

ときどき嫌だなと思っても、

憎んだりしたことはない。


ただなんとなく、

誰も信用できないような心地がした。


初めての感覚。


この、

少年ジャンプよりも漫画めいた、

うそみたいな風景に。


戸惑い、

そして、くやしく思った。


くやしさを糧に、

クリエイティブ部門で賞を取った。


受賞して風向きはかなり変わった。


お客さんから喜びの声や、

感謝の手紙を

もらうこともできた。


自分の主張が

間違いじゃなかったと確認できたとき。


その瞬間が

いつだったのかはわからないが。


「いい広告を

 作ってくれたおかげです」


そんな声を聞くと、

毎日の仕事が報われたような、

やわらかであたたかな気持ちに包まれた。


数字は数字でしかない。


それでも数字は、

無視も軽視もできない。


数字だからこそ、

割り切れないことも出てくる。


量も、質も、

どちらか一方が

正しいというわけではない。


それは、自転車の前輪と

後輪のようなものだ。


両方がうまく回って初めて、

前に進む。


そう。


どちらも大切で、

とちらかが悪とか善とか、

そういうものではない。


そして思う。


いくら主張が正しくても、

言いかたを間違えると、

それはただの「わがまま」になる。


わがままという誤解。


生意気なわがままと化した主張は、

対峙する人の気持ちを、

ぎりぎりと逆なでしてしまうのだと。



* * * * * * * *



うつくしいものを扱う人が、

うつくしいものを

求めているとも限らない。


うつくしいものが

数字で表されると、

うつくしくなくなるわけでもない。


50%。


もし、

50%で開催したら、

違ったのだろうか。


30%の違いが、

あの結果だったのだろうか。


50%で開催した「展覧会」。


もしできるなら、見てみたい。


50%で開催した、

100%の主催者の姿を。



うしくしさとは、何なのか。



もう、

絵を描くのをやめようかなと。

ちょっと真剣に考えたりした。


それが原因というわけでは

なかったが。

きっかけのひとつになったことは、

たしかなことだ。


のぼっている気がしていたのに、

ちっとも景色が変わらない。


その、

あまりにも低い景色の連続に、

なんだかばかばかしくなって、

もう疲れたな、

もういいかな、

と思ったりした。


絵を描くことは好きだから、

ひっそり描きつづけていけばいい。

別に発表なんてしなくていい。

こんなにいろいろ思うなら、

数字の世界と関わらなければいい。


そんなふうにも思った。



けれども・・・・。




初めて感じた大きな戸惑い。



初めて。はじめ。

初心。初期衝動。


そんなことを思い出すために、

一度全部、やめてみた。



「クルクルバビンチョパペッピポ。

 ヒヤヒヤドキッチョの、

 モ〜グ、タン!」


(『まんがはじめて物語』より)



漫画みたいな世の中を、

ばか真面目に考えても仕方がない。


世界は一つであっても、

どんな扉を開けて、

どこへ向かうかは自由に選べる。


すべては自分次第。


自分は、楽しいのが好きだ。

わくわくして、うれしくて、

夢みたいな世界を追いつづけたい。


名前を

「家原利メルヘン明」に

改名したいほどに。


だから、

やめる必要はないのだと、

思うままにやればいいのだと、

次第にそう思えるようになった。


心のままに、また、

歩いてみようと思った。



何年前かの出来事の

回想録。


何が何だかわからないから。

わからないなりに、

見たまま聞いたまま感じたままを、

そのまま書いてみた。


うつくしいものの価値とは、何か。


こんなことを言っているようでは、

うつくしさのかけらにもまだまだ

手が届かなのかもしれない。


それでも。


ぼくらがものをつくるときには、

たとえ30%でも50%でも、

必ず100%で完成させる。


いつでも100%全力で。


何%とか何円とか言う前に、

どうかそのことだけは、

わかっておいてください。




本当はもっと

おもしろおかしく

書きたかったのだけれど。


筆下手なぼくが書くと、

ふざけてるみたいで

あまりよろしくないので、

こんな感じになりました。


だから最後くらいは、

おかしな話で締めたいと思います。



『Hot Chanachur』
(ホット・チャナチュール)




バングラデシュのスナックです。




中身はこんな感じ




豆系、コーン系、ライス系、
麺系など、全10種類




スパイシーですごくおいしいです。
So yummy, Taste good. I love it!



あ・・・。

おかしな話じゃなくて、

おかしの話でした。


ちなみに

チャナチュール(Chanachur)は、

南アジアあたりでは

ポピュラーなスナックだそうです。



おかしは人を笑顔にする。


漫画みたいで

おかしな世の中でも、

おかしだけはうそをつかない。


みんなを笑顔にするおかし。


そんなおかしに、

ぼくはなりたい。



< 今日の言葉 >


インフルエンザー