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2023/05/25

Hi, Punk. 第2日目: 眠れない夜

 





〽︎ ハァ〜、

  テレビ観ねェ ラジオもねェ

  Wi-Fiあるけどスマホもねェ。

  一人部屋 誰もいねェ

  面会謝絶で誰もこねェ。


(昭和のヒット曲シリーズ〜『おら東京さ行くだ』の替え歌)




ずいぶんむかしに、

お見舞いに行ったときに見た

病室のテレビは、

分厚い「ブラウン管」のテレビだった。


テレビカードやイヤホンで、

観るテレビ。

テレビの形態は変わったが、

いまでもそれはおなじようだ。


大部屋とちがい、

個室のテレビは「無料」で見放題だ。


けれども自分は、

テレビを観ることがない。


せっかく「見放題」なのだから、

スイッチは入れなくても、

じっくり「見る」ことにした。


病室の薄型のテレビは、

棚に固定されていて、

引っぱると、

ちょっとだけ「腕」が伸びて、

ちょっとだけベッドに近くなる。


リモコンは、

棚の引き出しの中にあった。



退屈な入院生活。


もし、パソコンか

スマートフォンがあったら、

アマゾンとかで

いろいろ注文しちゃいそうだ。


目の前に、

こんなに大きな白い壁があるのだから。

プロジェクタを注文して、

ベッドにいたまま、

思いっきり映画や音楽を鑑賞できる。


「ここにプロジェクタを設置して、

 スピーカーやウーファーがだめなら、

 DENONとかSENNHEISERの

 ヘッドフォンで・・・」


と、そんな妄想で、

いくばくかの時間を灰にして。



咳をしてもひとり。


チューブにつながった器械のタンクが、

ぽこぽこっと泡を鳴らすだけ。



5月10日、水曜日。

入院生活2日目がはじまった。



* *



初日の夜は、眠れなかった。


いろいろなことが、

一気にたくさんありすぎて。

興奮状態から覚めやらず、

気持ちが高ぶったまま、

なかなか寝つけなかった。



ティントン、ティントン、

ティントン・・・。

トゥルルル、トゥルルル、

トゥルルル・・・。


あちこちから聞こえる、呼出音。

鳴り続ける「ナースコール」の音は、

昔のゲームセンターにいるみたいな

感じだった。


ベッドの上で、うとうとしていて、

自分がどこにいるのか、

一瞬、わからなくなった。


寝る体勢は、

あお向けの、平らに寝る格好では

寝られなかった。


上体を寝かせると、

このまま息が止まるんじゃないかと

思うほど胸が苦しくなり、

あわてて起きあがった。


起きあがるにも、

胸が苦しく、痛むので、

ベッドの脇の手すりをつかんで、

力づくで起きあがらなければ

いけなかった。


本当に、

どうしたらいいのか

わからなかった。


その感じは、溺れるような、

胸と心臓を握りしめられているような、

すごく苦しい感覚だった。


やばい、死ぬ!

と、思ってしまうほど、

切羽詰まったその感覚に、

思わず飛び起きてしまうのだ。


ベッドをリクライニングさせて、

角度をいろいろ探ってみたり。

枕を2つ重ねたりして、いろいろ試す。


上体を起こした

「座位」の格好では苦しくない。

角度にして、

45〜50度ほど起こした状態。

それ以上たおすと、

息が、胸が、苦しかった。


結局、その「座ったまま」の格好で、

布団をかぶり、じっと目を閉じていた。



何時かはわからないが。

少しまどろみ、

意識がふうっと遠のいた。


と、そのまま、

意識がなくなりそうな感じがした。


20代のころ、

脱水症状になったことがある。

そのとき、ちょっとだけ

意識を失いかけた。


あのときの感覚。


血の気が引いて、体が、意識が、

すうっと消えていくような感覚。


寒くて、冷たくて、

目の前に、緞帳(どんちょう)のような

暗い幕がゆっくりおりてくる。


ああ、このまま死ぬんだな・・・。


そんな感覚。


やばい、と思った。


あのときの感じと、よく似た感覚。


消える!


朦朧(もうろう)とした意識の中、

左手を伸ばしてナースコールを押した。




ほどなくして、

看護師さんがやってきた。

かっぷくのいい、男性だった。


「どうしましたか」


真っ白い懐中電灯の光の輪に、

看護師さんの、やわらかな声がつづく。


事情を説明する。

呼んだ瞬間よりは、

いくらか生きた心地がしていた。


すぐに血圧、脈拍などを測定して、

特に問題はないことを確認する。


原因はよくわからない。

けれど、あぶない、と思ったのは

本当だった。


「夜になって、

 急に気温が下がってきたので、

 それで血圧が下がったのかも

 しれませんね」


ベッドの横、カーテンの裾からは、

窓からの夜の冷気がもれている、と。


「お部屋の温度、上げておきますね」


昼間、ちょっと暑く感じて、

空調の設定温度を25度にした。

そんなことも忘れて、

そのまま布団に入ってしまった。


温度を上げてもらった

おかげもあってか、

そのあとは、息もしやすく、

胸が苦しくなることもなかった。


これが、人生初めての、

ナースコールだった。



そんなこんなで、

ほとんど眠れなかったけれど。


朝方、短かい眠りに落ちた。



朝、空調の温度設定を見てみると、

28度になっていた。


それ以降、温度設定は変えなかった。


旅先でも、

初めての場所(宿)では、

空調温度の適温がわからない。

ましてや「健康体」ではない状態では、

さらにわかりにくい。



意識が消えそうな、あの感じ。

何だったのかはわからないけど、

何もなく終わった。


ここは病院だから、

大丈夫だとは思いつつも。

やっぱりちょっと、怖かった。


そして思った。


いくらつよがっていても、

やっぱり怖いんだなと。


生きたい。


ナースコールを押した、あのとき。

自分の体が、心が、そう叫ぶのを、

たしかに感じた瞬間でもあった。



体につけている心電装置も、

あくまで「もしものため」の

装置であって、

これをつけていれば「安全」と

いうわけではない。


最悪の事態の一歩手前で、

その合図を知らせてくれる。

そういう器械だ。


看護師さんが言っていた。


「何かあったら、

 すぐにナースコールを

 押してください。

 遠慮とかせずに、

 すぐ呼んでくださいね」



意識がたしかな「患者」なのだから。

自分でそれを、伝えるしかない。


もちろん、巡回や検温など、

注意を払って

見守ってくれているけれど。


患者さんは、ぼくだけではない。

ぼくだけに

かかりっきりなわけでもない。


最後は自分。


何となくそれが、わかった気がした。



<心電送信機の図>




* * *



「気胸」になるのは、

背が高くてやせ型の若者に多いという。

喫煙者で、65歳以上の高齢者にも多い。


咳やくしゃみをしたわけでもなく、

特に力んだわけでもなく、

自転車に乗っていて、

いきなりなった人もいるらしい。


煙草は6年前にやめた。

まだ10本以上残った煙草

『ハイライト』を

コンビニのゴミ箱に捨てて、

やめようと思ったその瞬間から

今日まで1本も吸っていない。


身長177センチ、体重69キログラム。

太ってはいないが、やせてもいない。

若くもないし、高齢でもない。


そんな中途半端なぼくだが。

こうして気胸で入院している。



朝、ほとんど眠ることなく

目が覚めてしまった。


せっかく「早起き」したのだから、

朝日がのぼるのを見てやろう。


朝方はまだ、ひんやりとして寒い。

カーテンを開けて、またベッドに戻る。

『フランスベッド』の

リクライニングベッドは、

リクライニングだけでなく、

アップ・ダウン、

上下に高さも変わるようだ。


「これはすごいザマス!」


おフランス帰りのミーもびっくり仰天。

ベッドを上昇させると、

窓の外の景色が低くなり、

はるか遠くまで見渡せるようになる。


本当に、

ほんの少しだけのことかもしれないが。


ベッドに背をあずけたままの

ぼくにとっては、

その「たった少し」

「ほんのちょっと」の変化だけでも、

景色がずいぶんひらけて見えた。


「このままモンマルトルや、

 凱旋門まで見えそうザマスね」


そんなことを思いながら、

布団をかぶり、首だけ窓の外に向けて、

じっと太陽がのぼってくるのを待った。


外の世界を焦(こ)がれる、

カゴの中の鳥のように。


色のない世界に、色が灯りはじめる。

のっぺりと一色に見えた景色に

色がさし、影が伸び、

立体的に起きあがる。

人工的な明かりが消え、

止まっていた景色が、動き出す。


景色がぱあっと、

あたたかな色に染まる。


窓からは太陽の姿が見られなかったが。

新しい1日が、始まろうとしている。


雲のない、広々とした空。

今日もいい天気になりそうだ。




看護師さんに聞いたところ、

朝は、寝坊してもよいとのこと。

ここ、個室では、

就寝時間も起床時間も、

ある意味「自由」でかまわないそうだ。


「入院のしおり」みたいな冊子の中に、

『入院中の過ごし方』とあった。

そこには「6:30起床」

「21:30消灯」と記されている。


てっきり、そうなのだと思っていたが、

個室のぼくは、

またしても「例外」だった。


ちなみに。

1日(平日)の流れは、

「7:30朝食」「12:00昼食」

「17:30〜夕食」、

「8:30〜17:00診療時間」、

とぃう感じだ。



5月10日 朝



朝食。


看護師さんに、事情を話し、

おはしを持っていないことを伝えると、


「一膳だけ、お出しします。

 あとはコンビニとかで

 買ってきてくださいね」


と、一膳の「わりばし」を

手渡してくれた。



カリフラワーサラダには、

「ツナ」が入っていた。

ツナは苦手だが、

「お薬」だと思って残さず食べた。


煮物はおいしくて、揚げのふわふわと、

大根のしゃきっと感がたのしい。


みそ汁は、

ほんのり梅肉のような風味がした。


「ふりかけ」なんて、

何年、いや、何十年ぶりか。

遠足とか修学旅行みたいな気分になる。


『名古屋牛乳』もなつかしい。

そう、この味。給食を思い出した。

紙パック入りは初めて飲んだ。


しめて、523キロカロリー。


たっぷりのご飯も残さずに。

体のために、しっかり食べた。


おはしがあって、よかった。


左手には心電装置のコードがある。

右手でおはしを使うのは、

久しぶりだった。

両利きって、こういうときに便利です。




朝食後、

ちょっとかがんだはずみで、

「げっぷ」が出た。


すると、タンク内の「お水」が、

ぶくぶくっといった。

(右側の、透明なほうの「お水」)


朝、トイレで力んだら、

赤っぽい「水」がどぼどぼと

チューブを走った。


何なんだ、これは。


この、左側にたまった「排液」は、

ブラッドオレンジジュースみたいな、

深い赤色をしている。


昨日見たときは「20」くらいだったが。

今朝見ると「50」くらいに増えている。


これがなんなのか。

このタンクの仕組み、役割、

そして、ぶくぶくとこぼれる

泡の正体は、何なのか。

まったくわからない。


何もかもが、わからない。


お医者さんや、

看護師さんに聞いてみよう。



<タンクの観察記録>



<タンク構造簡略図>


<ノートのメモ>


(何がしたいか)

・自転車に乗りたい。

・チョコレートが食べたい。

・海が見たい。

・おいしいパンとブリーが食べたい。



・布団は表が青系で、裏が赤系。

 どちらもおなじ、花(バラ)柄。


・消毒のにおいに、

『家原美術館2019』を思い出す。


・まだ7時だって!

 今日はぐっすり眠れそう。




* * * *




部屋にいると、

理学療法士さんらしき人に、

「リハブ(リハビリテーション)」の

勧誘を受けた。


安静にしているよう

言われているのだが。

そのへんはどうなのかと尋ねると、


「もし、ここで受ける約束をしても、

 またあとで断ることもできますから。

 担当の先生と相談の上、

 もしむずかしいようであれば、

 そのときはまたちがう形を考えます」


と、言った。


そのままの流れで、

握力の計測を求められ、

つい、全力で思いっきり

握ってしまったが。

ちょっと胸が、痛かった。


左手には、

心電装置のコードがつながっており、

ほとんどまともに握れなかった。


つづいて、

両足先を一直線にならべた形で

直立するものや、

片足立ちを左右、交互に行なった。


心の中では、


「昨日手術で入院したばかりなのに。

 まだ、リハブとかいう段階じゃ

 ない気がするんだけどな」


なんて、思ったりした。


のちに思った。

ここは内科病棟。

まさか外科手術を終えた患者がいるとは

思ってもいないのかもしれない。

リハブ勧誘の男性が、

何となく状況を把握していない感じも、

それでうなずける。


本当に。

わからないことばかりで、

それがつらい。

何をどうしたらいいのか、

それがわからない。


先生が来たら、いろいろ聞こう。

そう思った。



入れ替わるようにして、

今度は清掃の人がやってきた。


「ごくろうさまです」


清掃の人は、そう言われているのか、

こちらに顔を向けることもなく、

返事をすることもなく、

黙々と清掃を進めていく。


なるほど。


そして検温、血圧などの測定。

食後、薬をきちんと

飲んだかどうかの確認。

毎食後に飲む薬は、

飲んだ後、空の容器を

「箱」に入れておくことになっている。


また別の看護師さんが、

食事の器を下げにくる。


いろいろな人が、

代わる代わるやってくる。


病室は、個室であっても、

「プライバシー」など存在しない。


そう、ここは病院。

ホテルでもないし、家でもない。


イタリア、ミラノのホテルで、

ノックもなく入ってきた

清掃員のおばさん。

別のとき、外出から戻っると、

そのおばさんが、

ぼくの部屋でテレビを観ていたこと。

出先から戻ると、

買っておいたポテトチップスが

きれいに食べられていたこと。

そのとき「チップ」を

置き忘れてしまっていたから、

代わりに「チップス」を

食べられたのか・・・と。

そんなふうに思った記憶。


まるで関係のない記憶だが、

なぜか急に、そんなことを思い出した。



<枕元にある給気弁>



そんなこんなで、

気づけば「お昼」になったようだ。


時計がないので、食事の配膳が、

ざっくりとした時間の目安になる。



5月10日 昼


上手に薄味で調理するなあ、と感心。

酢の物のしゃきしゃき感は、

スナック菓子のようなサウンドで

心地よい。

わかめの茎(くき)も、

こりこりしていて食感がたのしい。


煮物は、

白みその甘みがさといもを包み、

やや歯ごたえのある、

硬めのにんじんが、またいい。

豚肉も、みそとよく合う。


やきそばは、いい感じのソース味。

キャベツ、にんじん、豚肉、たまねぎ、

具もすごくおいしかった。


何といっても、ココアムース。

これはもう、ドルチェだ。

日本ベスト株式会社。

チョコが食べたかったので、

すごくベストにおいしく味わった。


これは、もはや給食だ。



飛行機の機内食のような勢いで、

次々とやってくるお食事。


私たち患者の胃袋を、

これでもか、これでもかと

言わんばかりに

満足させてくれる病院食。


管(チューブ)をつけて

じっとしている自分は、

健康になるどころか、

丸々と太ってしまいそうだ。


やきそばは大好きだけど、

麺はほとんど残して、

具だけをきれいに食べつくした。

(のこしてごめんなさい)


算数が苦手で、

カロリー計算はわからないが、

毎回完食したら、

大変なことになりそうだ。




『いただいた「わりばし」を、

 黒檀(こくたん)のような

「つや」になるまで、

 使いこんでやるぞ』宣言。


使い終わったわりばしを洗って、

ティッシュで拭いて、乾かす。


まだ、コンビニには行けない。

先生のお許しが出ていない。


おはしも、歯ブラシも、

しばらくはこのまま、

おつきあいいただこう。


パンツも、ひとまず、

寝ているあいだに洗って乾かす作戦で。

寝るときノー・パンツなのは、

いたしかたない。

ただ、干す場所

(ハンガーをかける場所)が、

部屋に見あたらない。

仕方なく、体につながる吸引マシン、

『MS-008』のポールに

干すことにした。


毎晩、巡視・点検に来る

看護師さんからすると、

そこがけっこう目につく場所だと、

あとあと気づく。


お見苦しいものをお見せして、

大変申し訳ありませんでした。





『MS-008』の「引っかけ部分」 → 物干し


布面積がせまく、乾きやすいおパンツ





昨日、ほとんど眠れなかったので、

食後にまんまと眠くなった。


うとうとするひまもなく、

「コードブルー」のアナウンスに

目が覚める。


ベッドを倒して、

「まちがいナースコール」を

押してしまう。

(倒したベッドにはさまって、

 マットレスがボタンを

 押しちゃったってわけ)


そんなわけで、

昼寝をすることもままならない。


それはいいことだ。



〽︎ 昼寝を すれば夜中に 

  眠れないのはどういうわけだ

(『東へ西へ』井上陽水氏)



昼寝をしなければ、

夜、しっかり眠れるのだから。



清拭【せいしき】(名):

体を拭いてもらう時間。


ありがたい。

お風呂もシャワーも入れないので、

非常に助かる。


看護師さんが、

おしぼりで背中を拭いてくれる。

あとは自分できれいに拭く。


この「清拭」が、

2日に1回だということも、

もっとあとになって知った。


もし拭いてほしければ、

看護師さんにお願いすればいいのだと。


汗をかくようなことは

あまりしていないが、

寝返りもうてず、

じっと天井を見たまま

寝転んでいるせいで、

背中には汗をかいているように感じた。



現時点では、チューブよりも、

左手の心電装置のほうが

「やっかい」だった。


寝るとき変に気をつかい、

左手を動かさなかったせいで、

左の肩と腕が、

がちがちに固まってしまった。


左胸のポケットに入れた心電装置は、

重さか約200グラム。

あお向けに寝転ぶと、

その重みで胸が(息が)苦しかった。

稼働中は熱を持つため、胸が熱く、

そこだけじっとり汗ばんだ。


片手しか使えない不便さは、

行動を消極的にさせる。


チューブを気づかい、左手を気にして、

気づくといろいろ「省略」したくなる。


こうやって人は、

不精(ぶしょう)という衣を

まとうわけだ。



* * * * *



ちょっと退屈になったので、

気晴らしに10階ラウンジへ行く。


自動販売機や、

電子レンジなどがあるその場所を、

ここでは「ラウンジ」と呼ぶ。


壁一面がガラス張りの、

見晴らしのいい空間だ。


男性が2名、座っていた。

間隔をあけて、ぽつんぽつんと

座っている。


きっと大部屋にいるより、

居心地がいいのだろう。


窓に向かってイスを置き、

外の景色を見ているような、

見ていないような感じで、

何をするでもなく、

ぼんやりと遠くに目を向けている。


紙パックの、

100%オレンジジュースを買う。


きんきんによく冷えた

オレンジジュースは、

内臓の形を透かすような感じで流れこみ

ぼんやりとした体をゆり起こした。


そのままほとんど一気に飲み干すと、

なんだか元気になったような気がした。



ゆったりと、散歩をするように、

10階病棟内の廊下を歩く。


自室前の廊下の窓から、

西の空をながめていると、

少しはなれた場所から

名前を呼ぶ声がした。


知り合い?


と、思ったが。

なわけがなく、声の主は、

執刀医の女医さんだった。


「どうですか?」


「痛みもないですし、

 胸の苦しさも、術前より

 楽になった気がします」


女医の先生に現状を伝えると、

ほっとしたようすで、

心から喜んでくれた。


ただ、まだまだ、

肺にたまった空気の抜けが

不十分なようで、

レントゲンの結果では、

肺がまだ、

半分にも満たないふくらみだという。


体調面での安定感に加え、

いま自分のいる「現在地」が

わかったことは、

気持ちの上ですごく「たすかった」。


どうなっているのか。

どうしたらいいのか。


わからないというのは、

痛み、苦しみとならんで、

つらいことだった。


「あとでまた、お部屋に行きますね」


そう言って先生は、

別の患者さんの部屋へと消えた。






女医の先生は、

また別の男性の先生を連れて、

やってきた。


いろいろな問診、やり取りのあと。


ついに『MS-008』号、

目覚めのときが来た。


スイッチを入れて、パネルを操作する。

圧力を調整しながら、

「15(㎝ HO)」に設定。


「ちょっとこれで

 様子を見てみましょう」


うれしいことに、

左手の心電装置を外してもらった。


これで両手が自由に使える。

顔も洗えるし、

おはしと鉛筆が同時に使える。


この「解放感」は、すごく大きい。


うれしさのあまり、

自由になった左手を

ぐるぐるとふり回したほどだ。



人間、すぐに忘れて「贅沢」になる。

それはどうすることもできない。

忘れてはいけない「場面」。

「立ち返り」。



明日、またレントゲンで、

肺の広がり具合をみるとのこと。


明日のことは、

明日にならなければ、わからない。


明日が今日になるまで。

今日は、今日の日をすごそう。




* * * * * *




5月10日 夕




気づくと夕ごはんの時間。


思わず笑っちゃうくらいに

おいしかった。

一人、声に出して、


「うっまぁ〜っ!」


と言ってしまうほどだった。


どれが、というより、

全部がおいしかった。


白和えは、

なめらかでクリーミーで、

大豆の味がものすごくした。

盛りつけも高盛りで、うつくしかった。


切干大根の煮物は、

切干大根のほかに、あげ、しいたけ、

いんげん豆が入っていた。

これまでの煮物にも言えることだが、

しっかり食感を残す「かたゆで」感が、

すごくおいしい。

いんげんは「コリッ」と

音がしそうなほどで、

それでいて、噛むといさぎよく割れる。


そして、鶏の葛(くず)粉焼き。

添えられたさつまいもは

皮つきで香ばしく、

金時の焼きいものような甘さだった。


鶏は、おそらく蒸し焼きだと思うが、

皮つきの鶏もも肉のうまみを、

葛粉がしっかり閉じこめている。

ぷるぷる、ぷりぷりの食感と、

鶏のうまみは、

思い出しただけで

垂涎(すいぜん)もの。

自分がこんなにも

食いしん坊」だったのかと

思わずにはいられない。


本日の夕食。

この味、このうまさで、

塩分量は、食塩(相当)3.1グラム。

ぜひともレシピを知りたいと思った。


今日もごちそうさまでした。





夜。

いま何時なのかはわからない。



廊下に鳴り響くナースコール。



「△△さぁーん、どこ行くの?」


看護師さんの声に、

おじいさんの声が返る。


「あそこに、何か、おる」


「どこ? そんな所、

 何にもないでしょう」


「なんにもないところに、

 何か、おる」

(Where there is nothing, 

 there is something.)


何だか名言のようなその言葉に、

思わずふふっと頬(ほお)をゆるめる。


きっと彼は「預言者」だ。






昨日、眠れなかったので、

今日は早めに布団に入った。


電気を消して、目を閉じる。


昼間、看護師さんと話していて、


「睡眠導入剤、出しましょうか」


と聞かれた。


けれどもそれは断った。

できるだけ自力で寝たかった。

ここに「慣れる」とまでは

いかないにしろ、

なるべく自力で寝たかった。


そんなわけで、

あまり気は進まなかったが。

今日は「耳せん」をすることにした。


ティッシュで作る、簡易的な耳せんだ。

これがばかにできないもので、

なかなかの遮音力なのだ。




<ティッシュ耳せんの作り方>




夜中、異変に気づいて目を覚ました。


自分が眠っていたのも、

目を覚ましたことで気がついた。


真っ白な光の輪。


逆光で、その姿はよく見えなかったが。


「すみません、起こしてしまって!

 夜担当の◇◇です」


どうやら看護師さんらしい。


記憶が途切れたみたいに、

いきなりぐっすり眠っていたせいで、

ここがどこなのか、どんな状況なのか、

それすらあやふやだった。

夢か現実かもわからない状態だ。


「器械の警告音が鳴っていたので。

 すみません、びっくりさせて、

 起こしてしまって」


びっくりしたのは、

おたがいさまのようだった。


寝不足での深い睡眠に加え、

「耳せん」をしていたおかげで、

警告音など、

まるで聞こえていなかった。


そこで急に、何かの気配を感じて、

びっくりして目を覚ましたぼくに、

さらに看護師さんがびっくりした。

そんな図式だった。


そういえば、

今日から電源を入れたんだった。

コンセントを入れてください、

とは言われていなかったので、

特に気にもしていなかったが。


そうか、たしかにそれはそうだよな。


数時間は、

内臓のバッテリーで稼働するらしいが。

電源が落ちたら、

大変なことになるところだった。

また肺が、

ぺしゃんこになってしまったかも

しれない。


あやうく命拾い。


もし、気づいてもらうのが遅かったら。

もし、いろいろなタイミングがずれて、

器械が止まってしまっていたら・・・。


そんなことは、ないだろうが。


いろいろ考えると、危ない局面だった。



警告音に気づいて、

コンセントを入れてくれてありがとう。


あわてて飛んできてくれた看護師さんに

心から感謝した。


・・・もっとも、そう思い至ったのは、

翌朝、ごはんを食べているときの

ことだった。


目が覚めたときは、

寝起きドッキリのような気持ちで、

説明を聞いても、

何が何だか状況がわからなかった。


ぼう然としたまま、

言葉も返せなかった。


そんなこんなで、

深い深い眠りから

覚めてしまったわけだが。


目を閉じて横になっていると、

知らないうちに眠っていた。


途中、何度か夢を見ながら、

浅い眠りから覚めたりもしたが。

深い眠りに包まれて、

泥のようにぐっすり眠った感じもある。




こうして、

入院2日目の夜がふけ、

3日目が、始まろうとしていた。





入院2日目、

5月10日水曜日。


いかがでしたでしょうか。


次回、

入院第3日目、

5月11日木曜日。


はたして家原に、

朝は来るのでしょうか。


乞うご期待です。




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< 今日の言葉 >


食べることと、生きることは、ちがう。


(5月10日の入院ノートより)