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2009/08/19

見えたり見えなかったり


「光のトンネル」(2009)




昔読んだ本に、こんなことが書いてあった。

イギリスの航海家、キャプテン・クックが、
島の岸に大きな船を停泊させていた。

山ほどもある大きな帆船。

けれども島の人たちには、
その大きな帆船の姿が見えなかった。

それは、これほどまでに大きなものを
一度も見たことがなかったためだと。

つまり、目には映っていたけれど、
知覚(意識)はされなかった、ということだ。


先日、お坊さんが、こんな話をしてくれた。

「桜、と言われて、
 想像するのはどんな映像ですか。
 おそらくいま頭に浮かんでいるのは、
 花が満開の、春の『桜』ではないでしょうか。

 では、いま現在、桜はどうでしょう。
 桜は、ないのでしょうか。
 
 ・・・そうではないはずです。

 ただ花が咲いていないだけで、桜の木は、
 いまもそこにあるのです」


お坊さんの話は、
そこから西行法師の辞世の句の話に移り、
最終的には「輪廻」の話になったので、

「見えないもの、見えていないもの」

という話がしたかったわけではないのだろうけど。

夏や秋や冬に、桜の木を見つけると、
春の、桜が満開の様子を想像したり
思い浮かべたりすることがある。

春になると、やたらと「ちやほや」される桜の木。
桜の木肌や枝ぶりは、夏でも秋でも冬でも、見応えがある。

見えないだけで、そこにある。

見ようとしていないだけで、そこにはある。

お坊さんの話を聞いて、そんなことを思った。


英才教育、というものがある。

幼いころから美術や音楽、スポーツなどを始め、
早くからそれに慣れ親しむことをいうのだけれど。

始めた年齢が早ければ早いほど、
感覚(色、形、音楽、知覚など)に対する
脳の割当が大きくなるのだという。


『色彩領域がとくに発達した人なら、
 三次元のフォルムが最初に印象に残る。
 輪郭がまず目に入る人もいれば、
 細部から見る人もいる。
 目の前にある原材料は同じなのに、
 意識されるイメージは変わってくる』

 (『脳と心の地形図』リタ・カーター著
   養老孟司監修/原書房)

逆に、生まれて間もない動物に、
視覚の一要素(例えば水平の線など)を
わざと見せないようにすると、
成長してからも
「正しく」見ることができなくなるそうだ。


細胞のなかには、
ある特定の刺激に対して反応を示すものがある。

赤に反応する細胞。

素早く動くものに反応する細胞。

甘い匂いに反応する細胞・・・など。

使わなければ、道具も錆びる。
磨かなければ、道具もなまる。

同じ赤を見ても、その「赤さ」はみんな違う。

同じ映画を観ても、
見えなかったり、見逃したり、見過ごしてしまったり。

ある一定の部分をじっくり見たり、
全体像を大きく捉えたり。

同じ音楽を聴いても、
聞こえたり、聞こえなかったり、
感じたり、感じなかったり。

人によって、
見え方も感じ方も違う。


知覚(感覚)の「密度」。

その密度が細かければ細かいほど、
いろいろな情報や刺激が手もとに飛び込んでくる。

逆にその「密度」が粗ければ、
いろいろな情報や刺激が、
ぽろぽろと手もとをすり抜けていく。

粗すぎてもいけない気がするけれど。
細かければいいってものでもないと思う。


ときどき、世界が
「模様」でできているように見えたりする。

ざらざらした水玉模様や、なみなみの縞模様。

不規則な格子模様や、規則的な四角形の繰り返し。

人工的な無機物でも、自然にできた有機物でも。
世界は、いろいろな「模様」で
できているように見えることがある。

それは「模様」を意識して、
「模様」を中心に
世界を見ているからかもしれない。


意識。


見えるも見えないも、
意識するかしないかが大きく関わってくる。

意識することで見えるものもある。

意識することで初めて見えてくるものもある。


先述の本のなかに、
「共感覚」というものが出てくる。

これは、音が「見えたり」、
景色が「匂ったり」、
味覚が「見えたり」する感覚の持ち主をいう。

先天的(生まれつき)に
そういった感覚を持っていたり、
事故などによる脳への障害で
起こったりする場合があるそうだ。


おそらくカンディンスキーは、
共感覚ではなかったのだろうかと。

うる覚えだけれど、
たしかそんなふうに書かれていたように思う。

彼は、幼いころから音楽を学び、
一時は音楽家を目指した人だ。

彼にはたぶん、音が「見えて」いたに違いない。

音に、色や形があるのを、
彼は「視覚的に」感じていたのだろう。

彼は音を色や形にして、絵を描いていた。


もしかすると、
パウル・クレーにも
音が「見えて」いたのかもしれない。


小さなころは、たしかに
「お化け」や「怪物」が見えていた気がする。

空に浮かぶ怪物や、闇にひそむお化けなど。

想像力の仕業かもしれないけれど、
たしかに「見えないもの」が「見えて」いた。


歳を重ねるごとに、
知識ばかりが増えすぎて、
知覚のほうがずいぶん「ひ弱」になってきた。

そんな気がしないでもない。


見えないものでも、見えなかったものでも。

見ようと思えば見える。

見ようと思えば見えてくる。


銀色に光る宇宙船とか、
毛むくじゃらの怪物だとか。

人の心の中だって、見ようと思えば見えてくる。

空気の色や風の匂いも。

「見よう」と思えば「見えて」くる。


見えないものを追いかけて、
飛んだりはねたりはしゃいだり。

そんなことばかりしていたら、
いつか本当に「おかしなひと」に
思われちゃうのかもしれない。


そうなってしまわないよう、

授業中、先生に当てられたら、
はきはきちゃんと答えようと思います。


< 今日の言葉 >

『それよりも、
 私が気になったのは男たちの「目」。
 私の中の悪ナタリアが・・・』

(『ワールド・ダウンタウン』より)