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2023/10/10

(帰) 家原美術館だより#3







(帰) 家原美術館の会期中、

お話し会(トークショウ)が

予定されていた。


和室2の大座敷で、

マイクを片手に

お客さんの前で

お話しするというものだ。


9月15日、金曜日。

本番当日の、前々日の午後。


進行役であり、

「話し相手」である女性が、

その日、来られなくなったと。


いきなり本人からそう告げられて、

あせるどころか、

妙な「納得感」を覚えた。


なんとなく、

そうなる気がしていた。


そんな予感があったからか、

自分の管理する広報では、

話し相手の存在は

公表していなかった。


いきなりの「欠席」。


それは、

仕方のないことだし、

どうしようもない。


もし自分が、

しっかり打ち合わせをして、

準備万端で

本番に臨(のぞ)むタイプだったら。

おそらくチャオパニックで、

混乱ショップだったに

ちがいないが。


さいわい、

鮮度と純度を重視して、

いわゆる「ぶっつけ」で行なう

方向を選んでいた。


ちょっとした打ち合わせのとき、

不安そうにする女性に、

相づちや返事をするだけでいいし、

いつもの会話みたいに

しゃべってもらえば大丈夫だから、

安心してほしいと伝えていた。


「そうなる」気がしていたから、

「そうなった」のか。


「話し相手」が突然いなくなり、

急きょ「一人で」話すことになった。






午前と午後の2回、

それぞれ45分間のお話し会。


さすがに前々日の夜は、

手ぶらじゃまずいかな、と、

ノートにつらつらと

「草案」を書いてみた。


けれど、

とてもじゃないが、

覚えられそうにもないし、

なんだかそれは

おもしろくなかった。


午前と午後の、各45分。


せめて冒頭(導入)だけでも、と、

思ったりもしたが。


ぱたん、と、ノートを閉じ、

ふふっと、鼻で笑った。


自分自身を、試したい。


自分がどこまでやれるか、

見てみたい。


そう思うと、

不安よりもわくわく感が

湧きあがってきた。



当日の朝。


まったく手ぶらに等しい、

丸腰の状態で、会場に入った。


いつもと変わらない朝。

お客さんの姿もそれほど見えず、

人気のなさに、

がっかりしかけたが。


時間とともに、

どこからともなく

ぱらぱらと人が集まり、

気づくとたくさんの人が

座っていた。


午後にはさらに

多くの人が集まり、

話しはじめたころには、

和室2からはみ出すほどの人で

いっぱいだった。


冒頭の写真が、和室2の、

ぼくが話していた場所からの

「眺(なが)め」なのだが。


午後の回は、

いちばん奥に見える

ガラス戸のところまで、

お客さんがびっちり座っていた。


あまり目が見えず、

誰がいるのか

はっきり判別できなかったけれど。


とにかくたくさんの人が

駆けつけてくれたことに、

やはり、うれしく思って、

かなり、ほっとした思いだった。


今回、お世話になったYさんへ、

何らかの「見える形」で、

恩返しがしたかった。


数でも反響でも何でもいいから、

ずばぬけてわかりやすい、

収穫がほしかった。


急きょ、

「独演会」に変わったお話し会。


結論から言って、

大成功だったと評していい。


最前で話しているときには、

お客さんの顔から

読み解ける「反応」は、

それほどたしかではなく、


「大丈夫なのかな?」

「伝わってるのかな?」


などと思ったりもしていたが。


そんなとき、

小さな笑いなどを差しこみ、

反応をたしかめた。


大丈夫。

言葉は届いている。


話し終えたとき。


45分ものあいだ、

自分が何をしゃべったのか、

まるで覚えてはいなかった。


けれど、会が終わったときの、

お客さんからの感想や言葉、

その表情から、


「すごくよかった」


という反応を

たくさんいただけた。


午後にはそれが

より顕著にあらわれ、

上気したような、興奮気味の表情で、

熱い言葉をいっぱい浴びて、

安堵とよろこびの

渦(うず)に包まれた。


午後は特に、

たくさん並んだお客さんの顔が、

じっと固まっているように見えて、

まじめに聞いているのか、

それとも退屈なのか、

まったくわからなかった。


けれどもその、

固く思えた顔つきと

反比例するかのように、

ふたを開けてみると、

午前よりもさらに深く、

ものすごく伝わっていたことに

驚かされた。



**



午前中の話題は、

『日常の中にある美』と題し、

センスと知識について、

話していった。


こちらは多少、

草案を書いたこともあり、

話したい島々が点在していたので、

45分かけて、

ふらふらと泳ぎ渡った。


自分がいいものを、

いいと言えること。

それが「センス」。


センス=感覚、感性。


もっと言えば、

センスとは「個性」ということ。


「おしゃれ」なのと、

「センス(感覚)がある」のとは

ちがう。


知識や情報と

センス(感覚)は、

まるで対極に位置している。


そんなこんなで。


最後、なんとか、

「日常の中にある美しさ」へと

たどり着いたとき、

残り時間を提示してくれる

Yさんの姿が見えた。


緑色のファイルはあと10分、

赤色のファイルはあと5分と、

事前にYさんと話し合っていた。


赤色のファイルが

揚げられるのを見て、

話をまとめに入る。


なんとか無事に45分、

泳ぎ切れたことに

話しながら内心、

胸をなでおろす。



午後の話題は、

『ものをつくること』。


こちらの話題は、

用意してきたこと、というより、

自分の中にある「思い」を、

ひたすら話した格好になった。


そのせいなのか。

午前よりもまっすぐ伝わったのは。


今日までにいろいろ感じたこと。


くやしかったこと、

かなしかったこと。

うれしかったこと、

たのしかったこと。


ものづくりを知らない人たちが、

時折、ものを軽く、

粗末にあつかうこと。


その、愛のない心が、

世の中をかさかさに

してしまっていること。


そんな思いを、

お説教っぽくならないよう、

自分自身でもたしかめるふうにして、

ゆったりと話していった。


机の上のスケッチブック——

赤い「お名前書いて帳」には、

さわるとやけどしそうな熱い言葉が、

ぎっしりと書き記されていた。



設営の日に紛失して
新たにつくり直した
「お名前書いて帳」その1





設営の日に紛失して
新たにつくり直した
「お名前書いて帳」その2



喩(たと)えではなく、

涙が出たという声も聞いた。


鮮度と純度。


用意をしていない分、

ごまかしも効かない。


自分の中にあるものしか

出てこないのだから。

ない言葉は出てこない。

ない思いは、伝えられない。


そう。


自分が試したくて。

自分のことを、試してみたくて。


何も持たない、

白紙の状態で、挑んでみた。


一人でなら、

こけても大失敗に終わっても、

被害を受けるのは自分だけだ。

ぜんぶ自分の責任だし、

ぜんぶが自分に跳ね返ってくる。


「自分なら、

 かならずやってくれる」


期待を裏切らない自分に

期待してみて、

裏切られるどころか、

期待を大きく上回る結果が

返ってきた。


大げさじゃなくて、

本当に今回、そう思った。



優良バッジと
裏ボタン(仏恥義理)と
学生ボタン



こんなこと

できるんだな、自分って。


言葉以上にたくさん感じた。


今回、

「窮地(きゅうち)」にも

なりかねない状況を、

乗り切ったこと。


何よりそれを、

心から楽しめたこと。


お客さんの反応も含めて、

今回の「独演会」は、

あらためて自分に自信が持てる

すごく大きな局面となった。


今回、

お話会の冒頭で話したこと——。


自分は絵を描くときに、

何を描くか

決めないこともあるし、

何を描くか決めていたとしても、

どう描くかは

まるで決めていないことが多い、と。


だから、わくわくするし、

どきどきする。


失敗とか成功とかより、

その過程を心から楽しむこと。


真剣に、全力で、思いっきり。


自分の心に正直に、

思ったままを、

思ったようにやる。

やり切る。


描きあがった絵には、

自分の「責任」がある。


だから、いい絵を描き切ること。


自分が自信を持って

「いい絵」だと思える1枚を

描き切る。


言いわけなく、

いい絵を描き切ること。


——それはまさに、

今回の「お話し会」で

体現したことだ。


言葉ではなく、

実際の行動で示せたことが、

何より大きな説得力となって、

お客さんの心を

動かしたのかもしれない。


「感覚で描いた絵は、

 感覚に訴えかける」


生の言葉、生の声。


初めての経験。


画業と向き合って14年、

初めての経験を

たくさん積み上げて、

ここまで来た。


仕事を辞めて、早10年。


いつも、

「これが最後かもしれない」

と思って、

ぜんぶ出し切ってきた。


かつての自分を思い出した。

かつての自分を思い出せた。


出し惜しみしない自分。


赤でも黒でも、白でもいい。

宵(よい)越しの金は

持たネーゼ。


何色でもいいから、

自分の色を塗りつぶす。



「すがたやさしく 色うつくしく」



今回、展覧会を始める前に、

Yさんと打ち合わせをしていて、

伝えた言葉。

童謡『春の小川』の一節だ。


ぼくは、

この言葉がすごく好きで、

こうなれたらいいなと

常々思う。


すがたやさしく、色うつくしく。


そんな絵が描けたらいいなと、

心から思う。



***



お話し会の「おみやげ」は、

ほかにもある。


午前の会が終わって、

お客さんでにぎわう会場を見渡すと、

なつかしい姿がそこにあった。


「!!!!」


ミスター橦木館こと、

元副館長の男性。


今回、

ぼくのお話し会に合わせて、

大阪から足を運んでくれたのだ。


10年ぶりの再会だった。


ミスター橦木館の

元副館長と、近況をはじめ、

橦木館の現状を見ての感想なども

話し合った。


「また戻ってきてくださいよ。

 えごま油で、磨きに来てください」


などと無責任なことを

言ってみたりしながら。

なつかしくも変わらぬその顔に、

心がうれしくゆらめいた。



午後の会には、

一人の20代の男の子がいた。


10年前、彼は、

まだ小学生だった。


Yさんの紹介で、

記念すべき第1回目の

家原美術館に来てくれた彼は、

展示を楽しそうに見てくれた。


「どの絵がいちばん好きだった?」


と、尋ねると、

まだ声変わりもしていない声で、

彼が言った。


「オノノイモコ」


それは、和室1の

「付書院(つけしょいん)」の上に

展示された、

陶器の作品だった。




『オノノイモノコ』(2009)




絵ではなく、

しかも『オノノイモノコ』を

「いい」と言ってくれた彼に、

当時のぼくは、

不思議な魅力と可能性を感じた。


作品はあげられないので、

代わりに『オノノイモコ』の

絵を描いて、彼に渡した。



そんな出来事が

きっかけになったのか。

大きくなった彼は、芸大へ進学した。


現在、東京の芸術大学に在籍し、

映像作品をつくっている。


ひょうたんから駒(こま)。

藍より出(い)でて、藍より青し。


大きくなった彼は、立派になり、

その姿を見せに来てくれた。


10年前とおなじ、この場所で。

10年前より、

見ちがえるほど大きくなった彼は、

10年前とまるで変わらぬ笑顔で、

話してくれた。


「オノノイモコの絵の裏に、

 『まってるよ』って、

 書いてあったこと・・・。

 いま見ても、鳥肌が立ちます」

 

自分では少し、

忘れかけていたことだったが。

言われてはっきり、思い出した。


「まってるよ」


10年前の約束を守って、

彼は「ここ」までやってきた。


今回の展覧会の

「制服」である学ラン。


ぼくの学ランが

ぴったりになった彼は、

10年前より頼もしく、

それでいて

10年前と変わらぬ目をして、

「ここ」にいる。


それは、

映画やつくりごとみたいに

うそみたいなことだけれど、

すごくうれしくて、

言葉にならないほどまぶしい

現実の出来事だった。



何年も前から応援してくれている、

地元の郵便局員さんたち。


その姿と会場で出会えたとき、

なんだかぼくは、

「認めてもらえた」ような

気持ちになった。


もちろんただの

タイミングだろうが。


局員さんを「ここ」に

お迎えしてしゃべっている自分には、

そんな感慨深さがあった。



****



今回の展示を見て、

こんなふうに言う人がいた。


「そぎ落としの展示ですね」


そぎ落とされて、

洗練されている、と。


それは、

展示の形態だけにとどまらず、

気持ちの上でも

おなじことが言えた。


そぎ落とし。

自分の気持ちとすなおに向き合い、

正直に、まっすぐうごくこと。


誰かの期待に応えるのではなく、

自分自身の期待に応えていくこと。


今回の (帰) 家原美術館では、

その一歩をしっかりと踏みしめ、

たしかめる会にしたい。

そう思って挑んだ会だった。


自分は自分。


いいものはいい。

まちがいとか正解じゃなくて、

自分の心がいつも正しい。


ここ数年間、失っていた自分。

かつての自分を取り戻す、

原点回帰の場にしたい。


そんなふうに思っていた。



2年前の家原美術館で

お会いしたお客さんに、

今回、言われた。


「なんだか前より、

 丸くなったみたいね」


その、経験ゆたかな

年配女性の言葉に、

ぼくは迷わずこう答えた。


「いろいろ経て、

 等身大の自分に戻りました」


不意に出た言葉。


等身大。


格好つけず、気ばらず、

肩の力をぬいて、

心からすなおに楽しめる心境。


境地、というと大げさだが、

戻ってきたというより、

到達したという感じがあった。


超越。


確実に何かを

「こえた」という実感。


越えたのか、超えたのか。


それがどの機会の、

どんな場面だったのか、

そんなことはわからないが。


2023年、

ここ数カ月のあいだに、

たしかに感じた実感がある。


自分の心のままに従う。


ずっとやってきたはずのことなのに、

ここ数年、

どこかでそれをくもらせた。


大切なものを見失い、

自信を失い、

かさついた心で見た景色は、

どれもどんよりとした

ものばかりだった。



そぎ落とし。


無理せず、すなおに、犬のように。



お客さんという「鏡」。


1年、2年、5年、10年。


定点観測してくれる、

たしかで信頼できる

たくさんの「鏡」は、

ぼくの「今の姿」を教えてくれる。


鏡に映った自分の姿に、

なつかしい気持ちになった。


そう、これ。

こんな気持ち。


明日のこともわからない、

ばかで無敵な小学生の気持ち。


のびのび、という言葉が、

頭に浮かぶ。


橦木館は、何も言わない。


けれども、

たくさんのこと教えてくれる。


もの言わぬ橦木館の、

深く、大きなふところは、

その人自身をいつも試す。


小さいものは、小さく見え、

きれいなものは、きれいに見える。


みんなの笑顔を見ていて、思った。


いまの自分。

まちがいじゃない。

一人よがりでもない。


みんなの「鏡」が教えてくれた。

橦木館という「鏡」が教えてくれた。


まだまだ未熟だけれど、

また「ここ」から始めなさいと。

 

ぼくは、

橦木館という場所に

「標(しるし)」をつける。


2012年に刻んだ標より、

少しだけ高い場所へ、

たしかな標を刻んでおく。


2023年の、この景色。


大きかったものがちょうどよくなり、

高かったものが低く見える。


まだまだはるか

手の届かないものが

たくさんあるけれど。


次の10年で少しは

近づくかもしれない。


「見てろよ、

 絶対負けないからな!」


心の中で、大きく叫んだ。

よくわからない誰かに向かって。


次の10年、

もっと楽しい10年を描いてやろう。


そんなことを思いつつ、

目の前のことだけに全力でいたい。


『モモ』に出てくる、

ベッポじいさんのように。



「すがたやさしく 色うつくしく」


優等生でも偉人でもなく、

ぼくはぼくのまま、

ぼくの色を塗っていこうと思う。











*****



今回の (帰) 家原美術館。


自分のために、

自分をたしかめるための、

自分の展覧会に

なったやもしれませんが。


たくさんのお客さんに

お越しいただき、

楽しんでいただけたこと、

心より感謝いたします。


初めましてのお客さんと、

いろいろ話せる機会もあり、

本当に貴重で楽しい時間を

すごさせてもらいました。


人ちがいや勘ちがいも

あったりしながら。


たくさんのお客さんと

お話しすることができたことは、

これまで同様、

ぼくの大切な宝物です。



会期中、

母が来てくれたこと。


『レモンスカッシュ』みたいな

水玉のワンピースを着た母は、

10年前より小さく見えて、

それでもいつもの笑顔だった。


おなじ日に、

入れちがいではあったが、

たまたま甥っ子が来た。


わざわざ有給休暇を取ってまで、

見に来てくれた甥っ子は、

友人宅で作ったという、

いかしたおみやげを持ってきてくれた。











レーザー彫刻機で焼かれた

「仏恥義理」の文字は、

自分で描いておきながらも

「かっこいい」と思えて仕方なかった。


平日の、

よゆうのある時間帯に

来てくれた甥っ子と、

館内にあるカフェに入った。


カフェの人には、

会期中のみならず、

準備中の段階から

大変お世話になった。


汗だくで搬入する姿を見るに見かねて、

氷の入った冷た〜いお水を、

1杯くれた。


ぼくはその、

1杯の冷たいお水の味が

忘れられない。


9月とは思えない暑さがつづく中、

カフェの人は、

ときどきぼくを気づかってくれて、

冷たいお茶やお水を運んでくれた。


この、

ほんの「些細な」気づかいが、

どれだけ救いになり、

どれほどまでに癒されたか。


一度も休憩できなかった設営の日、

冷たいお茶と小さなチョコレートに、

元気と勇気をもらった。


Yさんのいない橦木館は、

はじめのうち、

すごくアウェイな雰囲気だった。


けれど、

カフェの人と打ちとけて、

橦木館がまた「わが家」のように

感じられた。


だから、

カフェの人に紹介したかった。


母のことを紹介したその日に、

甥っ子のことも紹介できた。


男二人、窓辺で

ミントチョコソーダを飲みながら、

カフェの人を交えて談笑した。


10年前、

高校生だった甥っ子も、

今では立派な成人だ。


いくつになっても変わらぬ

少年の目をした彼は、

少年の心を持ったまま、

すくすくと育った。


姿形は変わっても、

10年経っても変わらぬものが、

そこにあった。



******



9月24日、日曜日。

最終日。


先述したとおり、

ぼくは、Yさんに恩返しがしたかった。


自分は数字に興味がないのだけれど、

世間では、数字や実績が

ものを言うときがままある。


Yさんのために、

ひそかに目指していた記録。


入場者数の記録更新。


最終日の今日。

記録の更新には、

100名以上の入場者数が必要だった。


思いのほかゆっくりな

お客さんの入りに、

目標というより、それは、

願いに近いものへと変わった。


数を数えていないぼくには、

正確な状況がわからない。


いま現在、

館内にどれだけお客さんが

いるかも把握できない。


ただ、視界の中で、

たくさんのお客さんが

入れ替わり立ち替り、

ゆっくりと動いている。


昼さがり、

甥っ子同様、予告もなく、

姉と三番目の甥っ子が来た。

昼の、やや客足がにぶくなる時間帯に、

ふらりとやって来てくれた。


その日はYさんもいて、

姉を紹介することができた。


自慢の姉を

ほめちぎってもらって、

ぼくは鼻が高かった。



いつまでも子どもあつかいの、

いちばん下の甥っ子を

「子どもあつかい」して遊んだり、

会場内を見て回ったり。


これまでの展覧会の中でも、

いちばんゆっくり、

姉と話せた時間だった、



その日は午後から客足が伸び、

気づくと100名以上の

入場者があった。


午後4時ごろだったか。

お客さんが一瞬、切れたあいだに、

受付に座るYさんに尋ねた。


「どうですか?」


主語はいらないかった。


「・・・あと、5人くらい。

 こうなったら犬でも猫でも、

 数に入れたいくらい」


そんなことを話すうちに、

またぽつぽつと、

お客さんが集まり始めた。


急にまた、

お客さんの姿が目に入り始めて、

気づくと外は

うす暗くなりつつあった。



午後5時。

閉館時間が来た。


橦木館の閉館時間でもあり、

長きにわたって開催した

(帰) 家原美術館の、

閉館のときでもある。


「どうでしたか?」


館内の扉を

閉めに回ってきた

Yさんに聞いた。


「最後にだだっと来られて。

 おめでとうございます、

 更新しましたよ」


Yさんの顔がほころんだ。


「やりましたね!」


うれしかった。

いろいろあったからこそ、

本当にうれしかった。


達成できたことで、

何かのせいにしたり、

言いわけをしたりせずにすんだ。


ぼく自身、

本当に大成功の会だっただけに、

どうしても残したかった。

形ある成果、結果、記録を、

実績として残していきたかった。


ほかの誰のためでもなく、

お世話になった、Yさんのために。

しっかりと形で残したかった。


それができたことは、

本当にうれしいことだった。


お客さんの一人一人、

誰かが欠けてもこの達成は

なしえなかった。


毎日、

会場づくりを手伝ってくれた、

職員のみなさん、

カフェのみなさん、

そして、

会場をにぎわせてくださった

たくさんのお客さん。


本当にありがとうございました。




最終日の夜、

家に帰ってメールを見ると、

Yさんからの手紙があった。


『帰ってきた家原美術館、

 特別な家原美術館。

 最終日にふさわしい

 115名。

 (中略)

 素敵なお姉さまにもお会いできて

 感無量です。


 今日は私の誕生日でした。

 1番の贈り物を

 ありがとうございました』



なんともドラマチックな結末に、

目頭がじわっと熱くなり、

パソコン画面の文字がにじんだ。




頑張った人は、

最後に、いいものがもらえる。


たとえいろいろあっても、

最後に見える景色は、

本当にすばらしいものが待っている。


頑張った人にしかわからない、

頑張った人だけに見える景色。


汗も涙も、

流した本人にしかわからない、

冷たさ、熱さ、ぬくもりがある。


口で言うのは簡単だ。


1や2のものを

3にすることはできても、

0からつくりだすことは

簡単ではない。


下手でも不細工でも不格好でも、

やった人は、

やらない人よりもうつくしい。


他人のふんどしで取る相撲は、

勝っても負けても、

得るものは少なく、

失うものもまた少ない。


それでも、

何か得たような、

何かを失ったみたいな、

当事者みたいな

気持ちになれる。


自分のふんどしを持たない人に、

頑張った人の汗や涙を、

踏みにじってほしくない。



ものをつくるということは、

本当に地味で、めんどうで、

しんどいことの積み重ねを

くり返すばかりだ。


会社にいたとき、

ぼくにはそれがわからなかった。


社会に出てみて初めてわかった。


自分の足で、世界に出てみて、

ようやくそれを実感した。


頑張ったことのある人は、

頑張る人のことを

わるくは言わない。


批判ばかりする人は、

現役からはなれた傍観者で、

旅への切符を失っている。



みんな、誰もがわるい人ではない。


何かに目を奪われて、

大切なものを

見失ってしまうだけだ。


悪意も悪気もなく、

ただ知らない、

気づかないということの「罪」。


誰も言わなければ、

知らないまま、

気づかないままで終わってしまう。



今回、一生懸命、

不器用に頑張っていながら、

人知れず涙を流す

「頑張り屋さん」の多さに、

気づかされた。


そんな人に言いたい。


本物の輝きは、けっしてにごらない。


いつまでたっても錆(さ)びないし、

朽ちることも枯れはてることもない。


自分を信じて、つづけること。


おなじばかなら、踊らなきゃ損だ。




最後に、

会場でも何度か口にした、

ラ・ロシュフコーの金言をひとつ。


『人は、しあわせになることより、

 しあわせに見えるようにすることに

 労力を費やす』



はりぼての心は、

空疎(くうそ)で軽く、

ひどくもろい。


はだかの心になれたなら、

もっとすごく楽しいのにね。





(帰) 家原美術館。


ご来館いただき、

ありがとうございました。



次回からの

『(帰) 家原美術館だより』は、

会場のようすを、

写真でふり返ってみようと

思います。


それでは次回、

#4でお会いしましょう。



会場のかくしQRコード画像・その2
(2016年)




#2  ・  #4→




< 今日の言葉 >


「あなたは報酬を受け取る

 権利があります。

 落とし主が現れた場合、

 あなたはその権利を

 主張しますか?」


(地下鉄の階段で拾った落し物を駅員室に届けたときに言われた言葉)