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2012/01/30

言葉じゃ言えない




「無題:2012-June-06」(2012)




最近思うことがある。


言葉にならない「感覚」。

言葉じゃ説明できない「感じ」。



言葉にならないなら、
それを無理に「言葉」にする必要は
ないんじゃないかと。

そんなふうに思う。




       ♥

  



ぼくは、できごとを
映像で記憶していることが多い。


全部の記憶が映像で、
とういうわけじゃないだろうけれど。

記憶のなかの映像をもとに、
そのときの音や、においや、味覚など、
そのとき感じた感覚を思い出すことがある。


友だちと歩きながらしゃべった街角、
旅先の商店街、寒かった夜の空の色とネオンサイン。

何か、メモした「情報」を思い出すときにも、
その情報を書いたノートの「映像」を思い返して。


「ああ、たしかあれはあのノートの左ページの、
 あそこらへんに書いたっけな」


なんていうふうに点をしぼっていくと、
おぼろげだった記憶(映像)が
しだいに鮮明な像を結びはじめていく。

まったく出そうになかった文字が
浮かんでくることもあって。

学生時代、テストの回答が
思い出されたことも、たびたびあった。


たとえば、
自宅から百キロ以上はなれた京都への道順。


ぼくは、映像で覚えるほうが得意なようなので、
自然と「風景」で覚えるくせがついている。


「あのビルとあのビルがあそこにあって、
 この高架をくぐって大通りに出たら右折」


そんな感じに覚えているせいで、
よく、道に迷う。

方向オンチではないけれど、
風景が変わると、道が分からなくなる。


工事や建て替えなどがあると、
記憶のなかの道が、つながらなくなる。


だからこそ、ひたすら景色を見る。

音やにおい、雰囲気なんかを収集する。

こまかい部分や組み合わせを、
しっかり焼きつける。


たしかに、記憶すべき「情報の量」は多い。

要所要所とはいえ、
家から京都までの映像が、ずっと連なるのだから。


道を、地図みたいな感じで覚えられる人には
「面倒くさい」方法かもしれないけれど。

ぼくは、風景を覚えていくほうが得意だ。

というか、
そっちのほうが「おもしろく」感じるから、
あまり道順を覚える気が
起こらないのかもしれない。



映像が映像のまま「記憶」されているので、
ある友人は、


「めちゃめちゃメモリ食うな、それ。
 大変そうだなぁ。
 ものすごい容量いるんじゃない?」


と、パソコンにたとえつつ、驚いていた。

ぼくにとっては、
地図を覚えるほうが大変なので、
まさか自分が「大変」だとは思っていなかった。


人それぞれ、みんなちがう。



いくつになっても、
まだまだ新しい発見がありますね。



映像は、記憶の手段で。

思い出す「きっかけ」は、
音や音楽、においや光の色だったり。


プラスチック消しゴムのにおいをかぐと、
4歳のころのひなまつりを思い出す。

女の子のお祭り、ひなまつり。

華やかな飾りの並んだ
ひな壇がうらやましくて。
ウルトラマンの怪獣消しゴムを
びっしりひな壇に並べて、
姉に「やめてよ、もう」って怒られた。

そのとき、手に持っていたのが
ピンク色の怪獣消しゴムで、
『ベロクロン』という名前の怪獣だった。
けっこう強くて、形(造形)も好きな怪獣だ。


その『ベロクロン』の消しゴムのにおい。

プラスチック消しゴムの、甘ったるいにおい。

そのにおいを「きっかけ」に、
4歳のひなまつりの映像と記憶がよみがえる。



友人のひとりは
「食べたもの」をきっかけにして、
そのとき、その場所の記憶を思い出す、
と言っていた。


「ほら、あの鍾乳洞。
 だいぶ前に行ったよね?」


「・・・ええっ、そうだっけ。
 そこでなんか食べた?」


「帰り道、あげまんじゅう食べた」


「ああ、あそこね」


おいしいものを食べていると、
その場所のことは絶対に忘れない。

本人がそう言っていたのだから、
まちがいない。

おいしかった食べものが呼び覚ます「記憶」。



「ああ、あそこの交差点の角で
 座って食べたシュークリームね。
 皮が柔らかかったけど、
 中のクリームがおいしかったね」


その記憶力は、鮮明で、正確だ。


食べたもの、食べた場所、
そのときの季節や風景、
その日に起こったささいな出来事


おいしさの記憶を中心に、
どんどん記憶の輪が広がっていく。


ふだん、地名などには
まったく興味を持たないくせに。


「たしかあれ、強羅(ごうら)だったよね。
 おいしかったなぁ、あの店」


「きっかけ」さえつかまえれば、
まるでついさっきのことのようなフレッシュさで、
記憶を思い返していく。

おいしければおいしいほど、
その記憶は深く、強く、
広く、正確に刻まれていく。


やっぱり、おいしいものはつよい。



味覚と映像。

視覚と体感。

感覚は感覚であって、言葉ではない。



       ♥




言葉にならない「感覚」。

言葉じゃ説明できない「感じ」。


「すごい」

「きれい」

「おもしろい」


子どもじみた、つたない言葉。


「すっげー、むちゃくちゃかっこいい!」


あまりにも感動が大きかったり、
衝撃的だったりすると、
思わず単純な言葉が口をついて出てくる。


そんな単純な言葉にこそ、
本当の気持ちが表れていたりする。


そのとき感じたこと。

そのとき見えた世界。

そのとき嗅いだ匂いや聞いた音。


「感覚」を人に伝えようとするとき、
言葉が必要になってくる。



言葉。

たくさんあっても困惑するし、
足りなさすぎても伝わらない。


言葉は、つねに感覚よりも遅く、
あとから遅れてやってくる。



こまかく、正確に
「その感じ」を表現しようとして、
自分の持っている語彙(ごい)をかきあつめ、
なんとか「それっぽい感じ」にまとめあげる。

そうやって、
ありもしない形に仕立て上げた「言葉」を、
そのとき感じた「感覚」として
「分類」してしまうのは、
なんだかちっぽけで、
もったいない気がしてしまう。

知識や比喩(ひゆ)で装飾された、
ちっぽけな感覚。

言葉は、言葉であって感覚ではない。

せっかく「感じた」感覚を、
経験ではなく、
「情報・知識」として「処理」して、
ひとめで分かる
分かりやすいラベルを貼って整理する。

分からないなら、分からないでいいのに。

無理やり言葉で閉じこめた「感覚」は、
「実寸」より小さく
まとまってしまうような気がする。


「まるで上質なシルクのような口どけだ」


そのとき、その瞬間に、
言葉で表せるような「感覚」は、
その程度のものでしかないのかもしれない。


ただ、その「感覚」を
懸命に伝えようとする熱は、
言葉をこえて「感じる」ことができたりする。


「もう本当に、とにかくすっげー感じで、
 めちゃくちゃぴかぴか光ってて、
 こう、全体的にぐわーって感じで・・・」


つたなく、飾らない言葉がいい、ってことではなくて。


せめて「感じている」その瞬間を、
言葉で「理解」しないよう。

感覚をいつも
まっさらな状態にしておきたいです。


いろいろな場所、いろいろな時間、
いろいろな瞬間をたくさん感じて。


もっともっと
「言葉にならない感覚」に出会いたい。


「ちゃんちゃらおかしいぷっぷくぷー」


言葉にならないということは、
それだけ新しくて、未知なる感覚なのだから。


「なんていうか分かんないけど、
 とにかくすごくウキウキする感じ」


そんな感じでいきたいです。



言葉にならない感覚。


それを言葉(文字)でつづるという行為にこそ
矛盾があったとしても。


「言葉の意味はよく分からないが、
 とにかくすごい自信だ」


そういわれるよう、がんばっていきたいです。



< 今日の言葉 >


「カツラって、英語でアデランス?」


(クロスワードパズルに挑む母に
 聞かれた質問。
 おしいけど、ぜんぜんちがう