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2011/03/18

自由研究〜40日間の無駄づかいと「どん電話」〜



「階段のある道」(2011)




小学生のとき。
夏休みの宿題で「自由研究」があった。

アサガオの種を植えて、
その成長過程を絵と文章で記録する子。

鉄道に乗っていろいろな場所に行き、
乗った列車の写真や時刻表などを記録する子。

たのしかったできごとを、
画用紙に描いてくる子。

宇宙のことを調べて、
絵や写真の切り抜きに説明文を添えて、
B紙いっぱいにおさめてくる子。

お菓子づくりをして、
そのレシピや手順を挿絵入りで書いてくる子。

歴史の年表を、
長い巻物のような紙にずらりと書いてくる子。

フエルトや布を使って、
ちょっとした小物入れのようなものをつくってくる子。


それぞれが、
自分の好きなものを見つけて「研究」してくる。
その「研究成果」の発表が、「自由研究」だ。

図画工作が好きだったぼくは、
自由研究といわれると、
たいてい何かをつくったり描いたりしていた。

お菓子の箱でロボットをつくったり。
材料をプラスチック
(またはポリプロピレン)に限定して、
船や車をつくったり。

恐竜のことを調べたときも、
横に添えた説明文より
絵を描くことがメインだった。


ぼくは、自由研究が好きだった。

好きなことを、好きなようにやれるのだから。

自由研究はいつもたのしかった。



たしか、
4年生のときだったと思う。

夏休み明けの、
自由研究発表の日。

みんなは、
机の上に乗り切らないほど大きな「研究」が多く、
教室の後ろのロッカーの上の、
「展示スペース」のような場所に
自分の「作品」を置いていた。

ぼくも、手脚の関節が曲がって動かせる
石けん箱ロボット」をロッカーの上に置いた。

ふと、となりの席のNくんを見ると、
手にした1冊のファイルを出したりしまったり、
もじもじとみんなのようすを
うかがっているようだった。

気になったぼくは、
Nくんに聞いてみた。


「それなに? 自由研究?」


「ああ、うん。そう・・・」


Nくんは、
ぼそぼそと消え入りそうな声でうなずいた。

事務的な感じの、青い表紙のファイル。

Nくんは、
閉じたままのファイルの表紙に視線を落とし、
どうしようか考えあぐねているようだった。


「何の自由研究やったの?
 ちょっと見せてよ」


そういうぼくに、Nくんは、
はずかしそうにしながらも
少しうれしそうな顔で、
ファイルの青い表紙をはらりとめくった。

クリアポケット式のファイル。

表紙をめくられて現れたその第1ページ目には、
カップラーメンのフタがおさめられていた。

なんだ? と思いつつも。
黙ってページをめくるNくんに従った。

見開きになった2ページ目と3ページ目。

そこには、
またしてもカップ麺のフタが、
1枚ずつおさめられていた。


カップ麺のフタのみが、
各ページに1枚ずつ。


さらにめくられたページにつづいたのも、
カップ麺のフタばかりだった。

各ページに1枚。

どれもカップ麺のフタばかりだったけれど、
1枚として同じフタは入っていなかった。

つまり、ぜんぶ違う種類のフタが、
1枚ずつ「収集」されていたのだ。


『カップヌードル』

『カップヌードルカレー』

『カップヌードルシーフード』

『どん兵衛きつねうどん』

『どん兵衛天ぷらそば』

『焼きそばUFO』

『赤いきつね』と『緑のたぬき』


などなど。

見なれたカップ麺のフタばかりだったけれど。
こうしてファイルされてみるのも新鮮だったし、
理由は分からなくてもなんだかおもしろくて、
ちょっと興奮しながらNくんに聞いた。


「これって、どういうこと?
 ぜんぶ食べたってこと?」


「うん、食べた」

こくり、とうなずいたNくんは、
ようやく顔を上げてこうつづけた。

「夏休みのあいだに、毎日食べたのを集めた」


「すげぇー!」

ぼくは、思ったままを声にした。

「これ、毎日食べたの、カップラーメン?」


「うん、食べた」

Nくんが少し笑ってうなずいた。

Nくんの「研究ファイル」を手に取り、
興味津々、ページをめくっていくと、
見たことのないカップ麺のフタもちらほらあった。

聞くとNくんは、夏休み中毎日、
昼ごはんにカップ麺を食べてすごしたのだという。

夏休みの約40日間、毎日だ。


カップ麺のフタをおさめて
分厚くなったファイルは、
手に取るとずっしり重く感じた。

この重たくなったファイルのなかに、
Nくんの40日間の集積が
きっしりつまっているわけだ。

ぼくは、Nくんのことを「すごい」と思った。

そのときのぼくには、
ほかに当てはまる言葉を
持ち合わせていなかったが。

いま思うに、
それは「尊敬」とか「畏敬」とか、
そんな言葉が近かったのかもしれない。

ぼくには、Nくんの「研究」が、
それくらいまぶしく、
はるか偉大なものに感じた。


「すこいなー。これ、毎日食べたんだよね」


ぼくの賛辞に、てへへ、と笑うNくん。


興奮したぼくの声につられて、

「なになに、どうしたの?」

と、ほかの子たちが続々と集まってきた。


ファイルのページをめくりながら、
Nくんの代わりに、
まるでわがことのように説明する。
本当に、みんなにもこのすごさを伝えたくて、
ぼくは興奮しながら話しつづけた。

Nくんは、少しだけほこらしげな顔で、
ファイルをのぞき込むみんなの顔を
ちらちら見ていた。

みんなも、それぞれの表現で、
Nくんの「研究成果」に興奮し、興味を示した。
なかには、

「けど、カップラーメン毎日食べただけじゃん」

などという子もいたけれど。

「でも、毎日食べたんだよ、毎日」

というと、
その子も「ふうん」と少し
態度をくずしたようすだった。


口で言うのは簡単だけど。
実際やるとなると、
そんなに「簡単」でもない気がする。

Nくんは、誰にいわれることもなく、
それを「やった」。


ぼくは、そんなNくんをすごいと思った。




「何やってるんだ! もうチャイム鳴ったぞ!」


おたのしみを中断する声。

声の主は、先生だ。

(担任の先生は
 「ますらをぶり」な
 言葉づかいの女性でした


いきなりの先生の登場で、
わいわいはしゃいでいたみんなも、
お尻に火がついたかのような勢いで
自分の席に戻った。

ぼくとNくんのほうをちらりと一瞥した先生は、

「日直っ」と、起立の号令をうながした。

「きりーつ(起立)」の声でみなが席を立ち、
「礼、着席」とつづく。

にぎわっていた教室に、
いつもの「授業」の空気が充満した。


さて。



夏休みの「研究発表」の時間がきた。

ぼくは、出席番号が前のほうなので、
発表も早々に終わって、
みんなの発表を聞く側に移った。


植物の観察記録や、
歴史や社会にまつわる「研究」。
そういった「研究」は、やっぱりウケがいい。
もちろん、クラスのみんなのウケではなく、
先生のほうのウケの話だ。

ぼくの「研究」も、
あんまり先生には分かってもらえなかった。
けれど、ぼくは気に入っていたし、
仲のいい友だちにも
「かっこいい」とほめられたので、
ぼくはそれで充分うれしかった。


Nくんの「研究発表」の番がきた。


青い表紙のファイルをたずさえて、
とつとつと教壇に向かうNくん。

あまり表情豊かなほうとはいえないNくんは、
無表情のまま、消え入りそうな声で、
ぽつぽつと発表した。

壇上わきの席で発表を聞く先生の顔は、
あきらかに曇った顔つきだった。

Nくんの、短い説明が終わった。
たしかにその説明では、
せっかくの研究のよさが
伝わらずじまいだった。

まばらな拍手のあとに、
先生の声が、割り込んだ。


「それだけか?
 夏休みの40日を使って、それだけか?」


想像以上にとがった声が、教室に響き渡った。
まさかそこまでとは思ってみなかったほど、
先生の声は「怒声」に近いものだった。

少なくともぼくには、そんなふうに聞こえた。

壇上のNくんは、
もじもじとしたまま、
伏せ目がちに視線を泳がせるばかりで、
何も言わない。
とにかく早く自分の席に帰りたい。
そんなふうに見えた。

次につづいた先生の言葉は、
またしても意外なものだった。


「そんなものは、自由研究ではない」


その言葉に、ぼくは大きな衝撃を受けた。


「研究」の前に、
「自由」という語句がついて、「自由研究」。

自由研究は、自由な研究だと思っていたのに。


「カップラーメンのフタを集めただけで。
 そんなもの、毎日カップラーメンを
 食べただけじゃないか。
 それぞれの違いや説明を調べて
 記録してあるならともかく。
 なんの『研究』もしてないじゃないか」


Nくんに向かって、先生が言う。


「毎日毎日そんなものを食べて。
 そんなもんばかり食べてたら、
 エイヨウカタになるぞ」


栄養過多。

そのときのぼくには、初めて聞く言葉だった。
それでも、あまりよくない意味なんだろうということは、
先生の口調から伝わってきた。


何も言わないNくんに対して、
先生の声はさらに鋭さをましていった。


「だいたい、親は何も言わないのか?
 そんなくだらないことに使うために
 こづかいを渡してるわけじゃないはずだ。
 毎日毎日そんなものを食べて。
 親は何も言わないのか?
 どうなんだ?」


そんなふうなことを、
こわい顔をして先生が言っていた。

けれど、Nくんは何も言わなかった。

答えがあったのかどうか。
答えるつもりがあったのかどうか。
それは、ぼくには分からない。


ぼくは聞いたことがあった。
Nくんの家が共働きで、
お昼には誰も家にいないということを。


Nくんの家に遊びに行ったとき。
夕方になっても、誰も帰ってこなかった。

お兄ちゃんが部活から帰ってくるのも
かなり遅い時間で、
お姉ちゃんがアルバイトから帰ってくるのは
もっと遅い時間だった。

Nくんの近所に住む友人と遊んでいて。
その友人のお母さんから、

「Nくんのお母さんは
 夜のお店で働いてるからね」

と聞いたことがある。

そのとき、「夜のお店」というものが
どんなお店かはあまり分からなかったけれど、
「夜のお店」というのが
あまりいいふうに使われていないということを、
口ぶりや表情などから何となく感じた。


たしかにNくんは、
土曜日になるといつも
カップ麺を食べていたようだ。

遊びに行ったとき、Nくん宅の台所には、
ダンボールのケースで買ったカップ麺が
いくつか積んであって、
そのなかから食べたいものを選んで食べていた。


そのせいか、
カップ麺の景品がたくさんあった。

抽選で当たる景品の、
いちばん「当たり」の景品。


ぱっと見ただけで、
『どん兵衛』の「どん電話」とか
「どんどんパ時計」とか。
そんなものが目についた。

もしかすると「おカメラさま」も
あったかもしれない。

ぼくが覚えているのは、
『どん兵衛』の景品ばかりだけれど。

とにかく、
Nくんはふだんから
カップ麺を食べることが日常だったのだ。


そんなことまでは、
先生には見えていなかったのだろう。

たとえ見えていたとしても、
「家庭の事情」という言葉で
くくってしまうのだろう。


ぼくは、よく先生のいう
「家庭の事情」という言葉が
好きじゃなかった。


「事情」って、何なんだ。


みんな違ってあたりまえなのに。

そうやって、
人と人とを線引きするのは、
よく分からない。


いまにして思えば。

先生のその反応は、
ある意味「正解」だったのかもしれない。
なぜなら「先生」は、「先生」なのだから。


Nくんの「自由研究」を見て。

先生が、先生らしくふるまった「こたえ」が、
それだったのだろう。





発表が終わって、
無表情な頬をやや赤らめて席に戻るNくん。


夏休みの40日間を使った、
Nくんの「自由研究」。

先生が何を言おうと、
ぼくにとってはまぶしい「自由研究」だった。


理由はどうであれ。
ぼくは、Nくんのやった「自由研究」が好きだ。


無駄で、バカバカしくて、
何もまとまっていない「研究」。


休み時間にまた見せてもらった
Nくんの「研究成果」は、
何度見てもおもしろくて、
おしきせの説明が何もないぶんだけ、
見るたびに発見があるような気がした。


見る側にとっても「自由」な「研究」。


解釈も、感じ方も、
好くも嫌うもすべて自由。



ぼくは、自由研究が好きだ。

好きなことを、
好きなようにやれるのだから。


自由研究は、いつでもたのしい。



< 今日の言葉 >

・ラテン系のラストサムライ

・見た目は軽でも4WD

・甘えん坊なチョコミント

・粒ぞろいのマスカット

・サン津軽の妖精

・パンチの効いたダイヤモンド

・冬の星座の泣きボクロ

・やさしさ超特急


(もし自分にキャッチコピーをつけるなら
 上記のキャッチコピーのあとに、

 自分のフルネームを続けてみると、
 しっくりくるものが見つかるはず。
 
 例:
「甘えん坊なチョコミント、家原利明です。
 どうぞよろしくお願いします」

 ・・・といった具合に。

 おともだちのみんなも、
 いろいろためしてみてネ!)