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2010/06/16

甘くて苦いお話









これは、ある男の話だ。

社会を「なめた」ある男の、
苦いお話だ。




学校を卒業して、
晴れて「社会人」になった1年目の話。
彼が、いわゆる「社会人1年生」のころのことだ。


12月。

入社1年も経たないうちに、
仕事が嫌になってしまった。


直属の上司に相談した。

上司は、彼の10こ上で、
お兄さんのような、
先輩のような人だった。

その上司は、仕事がひまなときなどに、
ドイツ語の教科書を開いて勉強をしていた。


「スープのこと、ドイツ語だと
  “ズッペ” っていうらしい。
 だから俺、これからスープのこと
 ズッペって言うわ。

 ・・・うわっ、ズッペこぼした」


などといいながら、
口元に運んだコーヒーカップを
傾けたりしていた。


仕事を辞めようと思った理由。

それは、いろいろある。

しいていえば、


「思っていた内容と違っていた」


からだ。


その旨を、
上司である先輩に相談した結果。

彼は、仕事(会社)を辞めることにした。



すぐにでもその意志を、
会社側に伝えたかったのだけれど。

会社の先輩でもある
ある人が、こんなことを言った。


「もうすぐボーナスだから。
 ボーナスをもらってから辞めたほうがいい」


彼は、正直ボーナスなどどうでもよかった。

けれど。


「絶対もらっとくべきだって。
 言ってからだと、ボーナスが少なくなるか、
 下手するとボーナス自体もらえないかも」


そんなふうに強く後押しされて。

無知で未熟な彼は、
何も考えず、
その意見を鵜呑みにした。


ボーナス支給日。


「ごくろうさん」


取締役から、
ボーナスの入った封筒を手渡された。

まだ新人である彼は、
ボーナス(賞与)ではなく、
「寸志」ではあったが。

それでも、ボーナスには変わりがない。


初めてのボーナス。

うれしかった。


自分の席に着いて間もなく。

ボーナスの封筒をしまったそのすぐあと。

彼は、朝刊に目を通す取締役の目前に向かった。


ここでいう取締役は、「代表」ではなく、
彼の所属する課の「長」である。


おもむろに立つ彼の姿に。
取締役は、朝刊を手にしたまま、
少し唖然(あぜん)とした顔で彼を見上げた。


「どうした?」


彼は、用意していた封筒を
懐(ふところ)から差し出した。


『辞職願』


昨晩、書いたばかりのものだった。

取締役の視線が、
2、3度、封筒の文字と彼の顔とを往復した。


「どういうことかね?」


無表情に訊ねるその声は、
冷ややかで、金属的な声だった。

少なくとも、彼の耳にはそう聞こえた。


「仕事を、辞めさせていただきたいと思います」


しばしの沈黙。


沈黙のあとに続いた言葉は、
冷ややかではあっても、
あきらかに感情のこもったものだった。


「▲▲(彼の名字)くん・・・。
 ボーナスをもらったその日に、
 しかももらった直後に、どういうつもりかね」


紳士的で、感情をあらわにしない取締役の顔が、
みるみる紅潮していくのが分かった。

室内のみんなの視線が、
音もなく集まる。

何も言わずにいる彼に、
取締役は、震える声で言葉を継いだ。


「ボーナスっていうのは、
 いままでの『ねぎらい』が半分、
 あとの半分は、
 これからへの『期待』分なんだよ」


彼は、何も言えずに
取締役のメガネをじっと見ていた。


「・・・いちおう、きみの意志は受け取るが。
 社会をなめるのも、いいかげんにしろよ」


最後、ぼそりとつぶやくように、
それでいて突き刺すような鋭い口調で
しめくくった取締役は、
『辞職願』を引出しにしまった。


彼が席に戻ってほどなくすると、
取締役は、役員のいる隣室に向かった。


重たい沈黙が、
室内に漂う。


「バカか、おまえ。
 ボーナスもらってからって言ったけど。
 まさかもらった直後に言うなんて・・・」


彼に助言してくれた先輩が、
小さな声でぼそりとこぼした。

驚き半分、あきれ半分といった顔で、
先輩が苦々しく口元をゆるめた。



夕方ごろ。


取締役が、硬い表情で彼に言った。


「いったんきみの意志を聞いた以上、
 こちらとしても、これ以上
 いてもらうわけにはいかない」


いったん言葉を切った取締役は、
冷ややかに表情をゆるめて、
こう続けた。


「本当なら今日にでも
 辞めてもらいたいんだけどな。
 まぁ、そういうわけにもいかんので、
 とりあえず締め日の、20日までは、
 いてもらってもかまわん。
 こちらからお願いするわけではなく。
 こちらからすれば、あくまで、
 いてもらってもかまわん、ということだが」



翌日、出勤すると。

誰も話しかけてこなかった。



みんな、あいさつをしてもよそよそしくて、
話しかけてくることもなければ、
何かを頼むようなこともなかった。


「▲▲くん」


取締役が、
彼に声をかけてきた。


「きみはもう、ここの人間じゃないから。
 電話は取らなくていい。
 いなくなる人間が出ても、
 先方が困るだけだからなぁ」


席に座ったまま。

彼は何もすることがなく、
鳴り続ける電話をじっと見つめていた。


ほかにやることもなく、
スケッチブックに絵を描いていると、
役員のひとりがやってきた。


「いいよなぁ、ボーナスだけもらって
 辞めるんだもんなぁ。
 みんなはクソ忙しく仕事してるってのによぉ。
 いいなぁ、たのしそうだなぁ」


役員の彼は、ポケットに手を突っ込んで、
絵を描く彼をのぞき込んだ。

目が合うと、役員の彼はやさしく笑った。

いままで見たこともないような、
やさしい、笑顔だった。



昼休み。

ひとりで昼食を取るつもりだったのだけれど。

事務の人が、彼を誘ってくれた。

1つ下の、同期入社の彼もいた。


昼食時、
カップラーメンをすする会議室で。

いままでと同じく、
話しかけてくれる人もいたけれど。
なんだか気まずくて、
重たい空気が流れていた。



午後になり。

直属の上司である先輩は、
以前と何ら変わらず彼に話しかけ、
仕事をあれこれ与えてくれた。


おかげで長い1日が、
少しだけ早く進んでくれた。



翌日も、また翌日も。


彼は、そこにいるのに
いないような感じだった。


まるで路傍(ろぼう)の
石ころのような気分だった。


が、それも彼が招いたことだ。


「社会をなめ切っていた」彼が悪い。



そんなふうにして10日ほどが過ぎ、
最後の日を迎えた。



朝、家を出るとき。

玄関先で、

「よし」

と小さく声に出して言った。


最後はきちんとあいさつしよう。

彼は、そう決めていた。



最後の1日が過ぎて、
まもなく「定時」を迎えるころ。
会社の人たち、ひとりひとりを回って
あいさつをした。


「お世話になりました。
 どうもありがとうございました」


頭を下げる彼に対して、
ほとんどの人は、視線を合わせることなく、
そっけない返事をするだけだった。


自分のまいた種ではあったけれど。

彼は、ひどくみじめな気持ちだった。


そんななか。


階下にいる職人のなかで、
最年長のおじさんが、
彼をまっすぐ見すえて、こう言った。


「仕事辞めて、これからどうする?」


「まだ決めてないです」


おじさんの目には、
薄らと涙がたまっていた。


「いいか、坊主。メシ食うのに困ったら、
 いつでもおれんとここいよ。
 いいか、忘れんなよ。絶対だぞ」


最年長のおじさんは、
彼の手を力強く握った。

分厚くて、あったかい、手のひらだった。


「はい。どうも、ありがとうございました」


彼は、ひまさえあれば階下に降りて、
職人さんの仕事を眺めたり、
手伝ったりしていた。


「いつでも遊びにこいよ」


力のこもったおじさんの声に。
こみ上げるものを噛みしめながら、
彼は作業場をあとにした。


自分の席に戻って。

直属の上司の視線を横目に感じながら、
机の整頓をしていると、
おもむろに1冊の本を差し出された。


「これ」


それは、彼が好きな作家の本だった。
ずいぶん前に話したことを、
上司は覚えていたのだ。

驚き、戸惑う彼に、
上司が言った。


「もう、読み終わったから。やるよ」


「どうも、ありがとうございました」


あいさつをする彼に、
上司は手を上げるだけで、
視線を合わせようとはしなかったが。

タバコをくわえた上司の
寂しそうなその横顔は、
言葉よりも正直だった。


自分の課の取締役。

いちばん最後に、
長である取締役へあいさつをした。


「短いあいだでしたが、お世話になりました。
 どうも、ありがとうございました」


「おつかれさん」


取締役は、夕刊に目を向けたまま、
いつものような平坦さで、あいさつを返した。


荷物を手に、
8カ月間すごした部屋をあとにする。


「お先に失礼します。
 どうも、ありがとうございました」


声もなく、
いくつもの視線だけが、
彼に注がれた。


どれも、何か言いたげだった。

言いたくても言えない。

そんな感じでもあった。


と、階段を駆け上がる足音が聞こえた。


現れたのは、
元陸上自衛官の彼だった。

予定を示すホワイト・ボードには、
市外の地名が書かれていたが。
どうやら彼は、予定時より早く現場から戻ってきたらしい。


元自衛官の彼。

リーゼントのようなチリチリパーマをあてて、
口ひげをはやした彼と初対面したとき。
まるで『ころがし涼太』のようだと、
まっさきに思った。

一見すると、ものすごくいかつい。

けれど、笑うとすごくやさしい顔になる。


「自分、今日で辞めるんだってな?」


「あ、はい、お世話になりました」


「なあ、自分」


頭を下げる彼を呼び止めるようにして、
元自衛官の彼が声をかける。


「自分、酒飲むか?」


「あ・・・はい。多少なら」


「ほら、これやるわ」


ホテルのミニ・バーにあるような、
ウイスキー入りの小さなボトル。

『山崎』だった。


「ありがとうございます」


元自衛官の彼は、
あわただしく引出しをかき回しながら、
立ち去りそうになる彼をまた呼び止めた。


「自分、これやるわ」


渡されたものは、
ワイヤー式ノコギリだった。


ワイヤー・ソー。


まだ未開封の、そのノコギリは、
キャンプやサバイバルなどに使うものらしく、
携帯に便利な仕様になっている。


「あ、ありがとうございます」


「自分、これもやるわ」


お礼を言い終わる間もなく、
また別のものが差し出された。

何かのノベルティの、ペーパーナイフ。
そして、ペン立て。


「自分、これもやるわ」


引出しの奥から取り出した
フリスビーを差し出すと、
元自衛官の彼は、


「がんばれよ」


そう言って、
分厚い手のひらで彼の肩を力強く叩いた。

そして「じゃあな」と手を上げて、
元自衛官の彼は、
風のようにその場を去っていった。


受付の前で、
足早に出て行く元自衛官の彼に、
課長が声をかけた。


「あれ、現場はどうした。もう終わったのか?」


「いや、ちょっと忘れもの」


そう答えた元自衛官の彼だったが。


その手には「忘れもの」など、
何ひとつ持っていなかった。




アパートの、自室の玄関。


玄関先で、彼は泣いた。

靴も脱がず、その場で泣き崩れた。



くやしかった。


何がくやしいのかも分からないけれど、
彼はくやしさに泣き崩れた。


そして、
みんなのやさしさがうれしくて、
その分だけよけいに悲しかった。


誰もいない、アパートの玄関先。


彼は、くやしくて、
悲しくて、さみしくて、
声をあげて泣きじゃくった。


20歳を越えて泣いたのは、
これが初めてだった。





あのとき苦く感じたのは、
そのときの自分が甘すぎたせいだと。

いまなら彼も、
きっとそう思うはずだろう。



苦く感じるのは、
自分が甘いせいだ。


自分が甘いから、
まわりが苦く感じるのだ。



甘くて苦い話。


「甘くて苦いのは、
 ビターチョコだけで充分」


そんなふうに言った人が、
いるとか、いないとか。


いつまで経っても大人になれない彼は、
また今日もどこかで、
苦い目に遭っているかもしれない。



   よいこのみんなは、
  しゃかいをなめないよう、
 くれぐれもちゅういしてネ!



< 今日の言葉 >

「ソースにたとえると、
 きみはタルタルソースだな」

(『それって、ほめ言葉?』
 /イエハラ・ノーツより)