あまり好きではない。
食べられないわけではないし、
コーンが嫌いなわけでもない。
むしろコーン(トウモロコシ)は
好きなほうだ。
朝食もトーストやサンドイッチ、
パンケーキなど、
毎朝バリバリのパン党なのだけれど。
トウモロコシとパン。
ひとつひとつは
すばらしい存在なのに。
このふたつが、がっちり手を結ぶと、
どうも苦手なものになってしまう。
嫌いというほどではないが、
あえて食べたいとは思わない。
なぜそうなったのか。
自分なりに思うところがある。
祖父がまだ
生きていたころの話なので、
たぶん5歳か6歳のころだと思う。
8月のお盆休み。
大阪・心斎橋の大丸に、
祖父と父と僕との3人で
「戦争展」を見に行った。
終戦記念日を前に、
戦争の悲惨さや愚かさを
見直そうという催しで、
ぼろぼろに焼けた服や、
弾丸が貫通したヘルメットなどの
展示品の他に、
戦時中の暮らしを再現した
「セット」もあった。
割れて飛び散らないように、
テープが貼られたガラス窓。
黒い幕布がかけられた部屋の電灯。
どっしりと大きい、
木製の真空管ラジオ。
初めのうちは目新しさと
「セット=ドリフ」という
安易な興奮とで、
畳敷きのせまい“室内”を
落ち着きなく歩き回った。
祖父はその「縁側」に座って、
じっと押し黙っていた。
ふと、祖父の視線の先を追うと、
当時の様子を伝える写真パネルがあった。
白黒の、粒子の粗い写真。
そのなかで僕の目に留まったのは、
人物のいない、一枚の写真だった。
玄関らしき扉の前に、
鉄製の手すりのついた
3段ほどの短い階段がある。
景色しか写されていないのだけれども、
ただの「風景写真」ではない。
記念写真のような構図で
撮られたその写真には、
いるべきはずの人物が写っていない。
人物の姿だけが
こつ然と消えてしまっているのだ。
それなのに。
階段に座った人物の影だけが
くっきりと写っている。
僕の視線に気づいた父は、
押し黙った祖父の横から顔をのぞかせた。
「あれはな。原爆のせいで、
影だけが地面に焼きついたんや」
原子力爆弾の、あまりに強烈な光で、
座っていた人の影だけが
コンクリートに残されたのだという。
僕は驚きのあまり、
その写真から目が離せなくなった。
そのあと、
香ばしい匂いに誘われるようにして
先へ進むと、屋台のような店があり、
『トウモロコシパン 当時の味を再現』
というような説明が貼られていた。
「なんや、食いたいんか?」
ふり向く僕に、
父はポケットからお札を出し、
トウモロコシパンを3つ買った。
すぐそばに置かれた長椅子に座り、
なぜか僕は、
祖父と父がトウモロコシパンを
頬ばるのをじっと見ていた。
すると、
終始口の重かった祖父が、
誰に言うでもなく、
ぽつりとつぶやいた。
「なつかしいな」
その顔は、
微笑んでいるのに悲しそうだった。
僕もあとを追うようにして、
トウモロコシパンにかぶりつく。
香ばしい、
焼きたてのホットケーキみたいな
いい匂いがしていたのに。
かじってみると、
何の味もしないように思えた。
塩っぽくもなく、砂糖っぽくもなく。
僕の食べているパンだけ
味つけするのを忘れたのかと思って、
きょろきょろと
ふたりのパンを見くらべた。
しばらく噛んでいくうちに、
遠くのほうでかすかに甘さを感じた。
トウモロコシの甘さだった。
戦時中、物資の少ない中で作られた、
代用品のような「トウモロコシパン」。
クマの形のグミや
甘いチョコレートが大好きだった僕には、
トウモロコシパンは甘くもなく、
けっしておいしいものではなかった。
シベリア抑留経験のある祖父は、
ただただ黙って、
トウモロコシパンを残さず食べた。
食べきれなかった僕は、
食べ残しをこっそり
ポケットの中に詰め込んで、
夜、風呂に入るときまで
パンことはすっかり忘れていた。
一緒に風呂に入った祖父はたぶん、
ポケットの中身に気づいていたと思う。
けれど祖父は何も言わなかった。
いつもと同じ、
のんびりした調子で、
面白い話を聞かせてくれた。
トウモロコシの入ったパンの匂いをかぐと、
ときどき、戦争展と祖父の姿を思い出す。
トウモロコシのパンが苦手なのは、
そのせいなのかどうかは分からないが。
とにかく、
大好きだったやさしい祖父の、
悲しげな目を思い出す。
ノーモア、WAR。
ノーモア、トウモロコシパン。
甘いものが消える世の中なんて、
考えたくない。
甘いものがなくなると、
人はたぶん、やさしくなくなる。
代用品の甘さでは、
やさしさもきっと、本物じゃなくなる。