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2018/05/29

ヒカリクジラの骨のゆくえ








これを読んでいる

うら若き少年少女諸君は

ご存じないかも知れないが。


われらが幼少期には、

日曜日の夜、7時30分から

『世界名作劇場』というテレビアニメが放映されていた。



『ハウス食品世界名作劇場』の前身であり、

『カルピスこども劇場』の後継。


「フランダースの犬」や「あらいぐまラスカル」をはじめ、

「赤毛のアン」「小公女セーラ」などの名作を世に送り出した、

歴史の長い番組だ。



実際、第1作目の「フランダースの犬」(1975年)からはじまり、

1997年に一時中断するまでの23年間で23作品、

つまり、1年に1作品のシリーズアニメを放映していた。


1月にはじまり、12月に終わる。


毎週日曜日、1年間、

その作品の、その仲間たちといっしょにすごすのだ。




新しいシリーズ(物語)のはじまりは、

最終話が近づいたころ、

新たにはじまるアニメの主人公らによって「告知」される。



いままで慣れ親しんできた作品とはちがった主人公、

ちがった絵、ちがった声。

ずっとともにすごしてきた「仲間たち」にひきかえ、

どこかよそよそしく、見なれず、聞きなれぬ、新しい顔。


「もっとトムとかといっしょにいたいのに」


そんなことを思いながらも、

新しいシリーズがはじまって、毎週いっしょにすごすうちに、

やがてその距離がちぢまり、

最後には前作と同じように、

お別れしたくなくなっているのであった。




再放送で見た作品も多くあるが。

自分がリアルタイムで見た初めてのシリーズは、

「トム・ソーヤーの冒険」。

しっかり覚えているのは、

その次の「ふしぎな島のフローネ」だ。










1983年。

できて間もない東京ディズニーランドへ、

母と姉と東京のおばさんとで遊びに行った。


小学3年生。

トム・ソーヤー好きなぼくは、

同伴者の3人の女性たちの手を取り、

海賊や帆船、

「ミシシッピー川」や

トム・ソーヤーのいかだがある

アドベンチャーランド内を、

ぐるぐる引っぱり回した記憶がある。


マークトウェイン号やいかだに乗って見た

「インディアン」とかサボテンとか河畔とか。

自分がもう、本当にトム・ソーヤーになった気分で、

いつまでもそこにいたくて帰りたくなかった。


そのわくわく感は、

苔むした、深緑色の川の水のにおいといっしょに、

ずっと忘れず記憶している。





「ふしぎな島のフローネ」の思い出。

時系列は前後するが、

先の話の1年前、

小学2年生のころの話だ。



開始当初は、やはり、

「トム・ソーヤーの冒険」が名残惜しくて、

なかなか物語に入れずにいた。


さらには、女の子が主人公の物語なので、

「おねえちゃんむけ(自分の姉向け)」のアニメだと

斜(しゃ)に構えていたのだが。

2話目か3話目くらいには、

もうどっぷりはまりこんでいたように思う。


まったく、単純なこどもですね。



覚えているのは、

姉の歳が主人公のフローネの歳と近かったせいで、

弟のジャックが「ぼく」ということになり、

テレビのなかで泣いているジャックの姿を見た父に、


「誰かさんとよう似て、泣き虫やな」


と、からかわれたこと。


それが無性にくやしくて、


「そんなことないもん」


と、むきになる、幼少のぼく。



いまにして思えば、

ちょっとからかわれたくらいで

きになるのだから、

えらく器の小さい男であった。



そうは思いつつも、

劇中で「メルクル」をかわいがるジャックの姿に、

飼い犬「レオ」をかわいがる自分を重ねて見たりしていた。


だからこそ、

そんな「泣き虫ジャック」が成長する姿がうれしくもあり、

自分の歩みを照らす一条の光のように

たのもしく希望に満ちて感じるのでありました。




そんな「ふしぎな島のフローネ」。

たしか、次回の予告では、

島に嵐がくる、とか、そんな回だったと思うが。


ある日、父がぼくを野球観戦に誘った。


ナイターでの、野球観戦


「ナイター」の意味もわからず、

7歳のぼくは承知した。



日曜日。


まだ外も明るい夕刻前、

父がぼくに「行くで」と言った。


なんとなく嫌な予感がしてきたので、


「フローネまでにはかえれる?」


と何度も父に尋ねた。


「わかったて言うとるやろ」


だんだん面倒くさくなった父は、

そんな曖昧な返事しかくれなくなった。


そもそも野球が好きでもないぼくは、

野球の試合よりも「フローネ」が見たかった。



家を出る間際、姉に、


「あとでぜんぶはなしてね、ぜったいだよ、ね?」


と、本気で懇願し、

それこそ遠い南の島に向かって

出航する船のような気持ちで、

玄関先をあとにした。


そのとき見た石垣とか

曲がり角とか砂利とかの景色は、

まるで無人島へとつながる道のようで、

すごく不安で心細かった。



そして。



結局「フローネ」は、

帰ったころにはちょうど終わっていて、

間もなく「全員集合」がはじまろうとしていた。


泣き虫ジャックあつかいのぼくは、

泣きこそしなかったが、

父のことを「うそつき」と言ってなじり、

しばらく口を利かずにむくれていた。


見るに見かねたやさしい姉が、

約束どおり、

フローネのお話を

懇切丁寧に語り聞かせてくれたおかげもあって。


劇中のロビンソン一家を襲った嵐とおなじように、

ぼくの心の暗雲もしだいにやわらぎ、

やがてはすこやかに晴れていった・・・という、

そんなお話であります。





★ ★





時は流れ。


まわりの友人たちは、

すっかり「おとな」になって、

もう『世界名作劇場』は見なくなっていた。



中学生になって、

すっかり背伸びして『MEN'S MONNO』などを購読し、

坊主頭に、無駄ともいえるムースやジェルをつけて、

501のジーンズに裸足でスゥエードのモカシンを履いて、

えらく格好をつけたり、

流行を追い回したりしていたが。


高校生になっても、

ぼくは、変わらず『劇場』を見ていた。



部活ばかりでテレビから離れた時期もあったが。

録画という文化に出会ったぼくは、

外に出かけるときには『劇場』を「予約」していった。





1994年。

ティーンエイジ最後の歳の、19歳。


『世界名作劇場』が

『ハウス食品世界名作劇場』となって

もう何年も経ったころ。


「全員集合」に変わって、

「ごっつええ感じ」を見るようになっていた。



『劇場』では、

「ティコの七つの海」がはじまった。



注釈)

記憶をたよりに書いているので、

以下、もしまちがっていてもご愛嬌。

どうぞご勘弁願います。




「七つの海のティコ」は、

主人公である少女、ナナミが、

海洋学者の父と、その友人といっしょに、

ペペロンチーノ号という名の船に乗って、

「ヒカリクジラの骨」を探し求める物語で、

ティコというのは、

ナナミと心を通わせるシャチの名前。


ナナミは、

まるで海女やフリーダイバーのような肺活量を持っていて、

酸素ボンベなしで海中を泳ぎ回ることができる。

だから魚たちも

ナナミを「友だち」と思って、近よってくる。


ナナミを乗せたペペロンチーノ号が、

ヒカリクジラの骨を探し求めて、

七つの海を冒険する。

そんな、物語だ。



1月にはじまり、2、3、4・・・。

つらいときもあった。

遭難しかけたこともあった。

あぶないところを、

ティコが助けてくれたことも、何度かあった。


夏が終わり、

9、10、11月。


長い長い旅だった。


ナナミを乗せたペペロンチーノ号とともに、

ぼくらはヒカリクジラの骨を追い求めて、

広大な海を冒険してきた。


見つけたか、と思ったこともあった。

落ち込んだり、笑ったり。


そのころにはもう、

自分はペペロンチーノ号の立派な乗組員(クルー)だった。




そして12月


ついに次回が最終回。




最終回の日曜日。


遊びに出かける約束ができた。




『劇場』のために約束断る、

とまではいかず、

その場は「予約録画の術」に頼ることにした。




日曜日の夜。

たのしいひとときを存分にすごし、帰宅。


帰宅後、

矢も楯もたまらずに、

テレビの電源を入れ、

録画した「ティコの七つの海」(最終回)を再生した。



物語はクライマックスに近づき、

音楽も、盛り上がりをみせる。



いよいよ発見か、と思われた、そのとき。



画面がザーッと砂嵐になった。




・・・平成生まれのみなさまには

理解しがたい状況かもしれませんが。


当時、録画する媒体(ばいたい)には、

「ビデオテープ」というものを使用しておりました。


録画ができていない、生のままの状態では、

ザーッという砂嵐(ノイズ画面)のあと、

しばらくして自動停止するのであります・・・。




砂嵐の正体、というか原因。




ナイターの延長。




そう。

またしても「ナイター」である。



10余年の歳月を経て、

またしても、である。



正直、録画した「ティコ」を見ているさなか、

視界のすみに、いやなものを発見していた。



『ナイター延長のため10分繰り下げてお送りします』



目ではしっかり確認したものの。

いや、そんなはずはないと、心が打ち消していた。



これまでいっしょに、

長い旅をともにしてきたのだから。

そんなばかな話はない、と。


ナナミや、ティコや、

われらがペペロンチーノ号が、

そんな、そんな、はずがない、と。



たのむ、見つかってくれ。

どうか、間に合ってくれ・・・と。




現実は、

時化(しけ)の嵐ではなく「砂嵐」。


しばらくしておとずれた凪(なぎ)は、

無機質で冷たい、ブルーバックの海だった。



「・・・うそだ、そんな」


力なく、ぽつりつぶやいたぼくは、

両の目に真っ青な画面を映し込みながら、

ぼう然とその場に固まっていた。



しばらくのあと、

無表情のままリモコンを手に取り、

巻き戻し、再生ボタンを押す。



ナナミやお父さんたちは、

先と寸分狂わぬ姿で、

同じことを、同じようにくり返した。



そして。


ザーッ。




もう一度、再生。


ザーッ。





ヒカリクジラの骨は、

見つからなかった。



ぼくの「七つの海のティコ」は、

ヒカリクジラの骨が見つからないまま、

そのまま終わった。




あれから20年ほどたち、

いろいろ便利な世の中になったが。


ヒカリクジラの骨のありかは、

いまだ「見ていない」。



「七つの海のティコ」の最終回は、

10分足らずの、未完のまま、

そのままの状態で完結している。


ヒカリクジラの骨を探す旅は、

見つからないまま終わって、

見つからないまま、

ずっと探しつづけた状態のままだ。



そう。


ぼくはまだ、

ペペロンチーノ号に乗ったまま、

ヒカリクジラの骨を探しつづけているのだ。


ナナミとティコと、お父さんたちとともに。



いろいろ便利の世の中になっても、

冒険に、不測の事態はつきものなのだ。





★ ★ ★





リアルタイムで最後に見た『劇場』は、

「ロミオの青い空」だ。



以前、お伝えしたように(2015/11/18号<77日目>より)。


「はたち」と書いて、20歳。


友人たちみなが

『アサヤン』なる番組を見ているさなか、

ひとり「ロミオの青い空」を見ながら、


「なんだ、アサヤンとうものは、

 朝の番組ではないのだな」


と、目を白黒させていた。



「ロミオ」を見終わった直後、イタリアへ行って、

ドゥオーモの教会の尖塔や、

ミラノの広場を見ていたく感動した。


「ロミオ」で覚えた唯一のイタリア語、

「スパッツァカミーノ」(煙突そうじはいかがですか)。


それを大きな声で叫んで、

イタリアの人に苦笑い、または微笑みを返されても。


ヒカリクジラの骨は、

いまだ見つからないままであります。




貝がらおしあて聞いてみる

さみしいとき聞いてみるんだけど、

私だって泣こうと思ったら

声をあげていつでも泣けるけどね、

そうさ男の子は

まわり道しても夢の海へ着けばいい、

シロツメクサの花が咲いたら

さあ行こう、

心のBlue sky 翼で 自由に飛びたいから、

パトラッシュ、行くよ!




みなさんは、ヒカリクジラの骨、

もう見つけましたか?






< 今日の書 >


幼稚園のときに書いた書道。


「たこ」かと思ってよく見てみると、

「だこ」になっていた。