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2018/01/18

写真の中の家族










☆ ☆ ☆ ☆ ★





母の誕生日。


約束の18時、

母を迎えに、家へ向かう。


母の好きな鰻(うなぎ)を食べに、

近所の鰻屋さんへ出かけた。


炭火焼の鰻屋さん。

このお店に母と行くのは、これで2度目だ。



鞄やストール、セーターなど。

これまで誕生日に贈ったものは、


「使うのがもったいない」


などと言いいながら、あまり使わない。


だったら食事とかのほうがいいかな、と。

先回、この鰻屋さんへ行ったのは、

母の日のことだった。



もう、何年前のことだったか、

それは忘れたが。


たしか、母とふたりで、

初めて食事に行ったのが、

この鰻屋さんだった。




食事の前に、

誕生日祝いの花束を渡した。



花屋さんで花を選んで、

つくってもらった花束。

リボンや包装する紙も選んだ。


午前の日ざしが注ぐ中、

赤や黄色、オレンジや紫、白や緑や淡いピンク、

色あざやかな花々が並ぶ

花屋さんですごした時間もたのしいものだった。











花束を受け取った母は、


「あら、まぁー。ありがとうございます」


と、なぜか敬語でよろこんでいた。




鰻屋さんでの、小さな団欒。


すごく平凡で、平和な時間だった。



おいしい鰻と、たのしいおしゃべり。


豆好きの母が、

毎年つくる、おせちの黒豆の話や、

おいしい豆を買うならあそこがいい、

などの「豆話」を得意げに話す。


母がこんな顔で話す姿を見るのは

初めてかもしれないな。


そんなことを思いながら、

箸を進める。



熱々の鰻丼と肝吸い。


鰻はもちろんのこと、

付け合わせの奈良漬けもおいしかった。



そして、

その日の午後のことを話す。


父との面会の話。



母にとって特別な日は、

ぼくにとっても特別な日となった。



初めてづくしのこの日の出来事。



ぼくは、この日のことを、

ずっと忘れないだろう。






☆ ☆ ☆ ★ ★





年末。

クリスマスの翌日だった。


父が入院した、と母から聞かされた。


脳卒中。



それを聞いた刹那(せつな)、

考えるでもなく頭に浮かんだのは、

喪服を着た自分が、

喪主として祭壇の前に立ち、

何かしゃべっている姿だった。


想像のなかで、

ぼくは、後悔しているようすだった。


実際、悔いは残っていた。



父とは、もう何年も口を利いていなかった。

話しかけても、口を利いてもらえなくなっていた。


何年前のことかは忘れたが。


帰宅したとき、

たまたま父が来ていて、

母と口論していた。

それを仲裁したとき、

おそらく「生意気な」ことを言った、

そのときから父は口を利いてくれなくなった。


もともと顔を会わせることは

ほとんどなかった父だが。


その「仲裁事件」の後、数回、

ちらと顔を会わせる機会があったとき、

挨拶するぼくに顔を向けることもなく、

そこにいないかのような態度でぼくを無視した。


頑固で意地っ張りの父のことだから、

別に気には留めていなかった。


ぼくは、挨拶だけをくり返した。

父はそれを無視しつづけていた。


後悔したのはその件ではなく、

今日までの、これまでの、

父との関係を思ってのことだった。





以前、父のことは書いたことがあるが。

(2009年12月記述:『おとんがきた』


父は、ずいぶん前から家を出て、

母とは別の女性といっしょに暮らしている。


愛人、と呼ぶのが適っているのかどうか、

もはやそれも分からないが。

とにかく、母ではない別の女性と生活している。



ぼくが中学、高校生くらいのころから

あまり見かけなくなり、

ついにはすっかりいなくなった。


母いわく、

父が家を出て行ったのは、


「ダイアナ妃が事故で亡くなった次の日」


とのことだ。



1997年8月31日、の翌日。


その日から、母は「ひとり暮らし」になった。


ちょうどその頃、

姉は結婚し、新居に移っていた。


自分は家を出ており、

実家にはほとんど帰らなかった。


自分のことで精一杯だったぼくは、

身近で起こっているはずの「変化」に興味がなかった。

まるで気づいていなかった。


その頃、実家に帰って、

久しぶりに見た母の姿は、

ちいさく、老いて、

覇気のない感じだったことを覚えている。


もともと、母は何も言わない人だ。

明るく、のんきで、ときどき心配性。

容姿は多少変わっても、ふだんと何も変わらない。


歳月。


弱々しく見えたのも、

久しぶりに会ったせいだろう、と。

そのときは思った。



たはむれに 母を背負いて そのあまり

 軽ろきに泣きて 三歩あゆまず



母の姿に、

石川啄木氏の詩歌が浮かんで消えた。



「それじゃあ、行くね」


母を背にして、玄関先で靴を履く。

やせ細ったぼくの姿を見て、

心配した母が大福餅を持ってきた。


玄関先で渡された大福餅。


駅のベンチでそれを食べたとき、

なぜだか涙がこぼれてきた。


そう。


自分のことばかりで、

何も気づかなかったあのころ。


身近な場所で、

いろいろなことが起こっていた。






☆ ☆ ★ ★ ★





年末、緊急入院で担ぎ込まれた父だったが。

ひとまず「大丈夫」とのことだった。



今回、倒れた場所は、

別の用件でたまたま訪れていた病院内でのことだった。

運よく病院内で倒れたおかげで、

そのまま「助かった」という話だ。



運がいい、と言っていいのかどうか。

とにかく父は「悪運」がつよい。

昔からそうだった。



父が入院するのは、これで4回目だ。


1回目は、ぼくが4、5歳の頃。

大腿骨の骨折。

そのときは、病院を勝手に抜け出してきて、

家で湯舟に浸かっていた、と。

以前、母から聞かされた。


シャワーだけの生活にがまんができず、

どうしても風呂につかりたい、と、

病院を抜け出し、

家に帰ってきて風呂に入った。

骨折した足にぐるぐるビニール袋を巻いて。



2回目は、やけどだった。

仕事中、機械の操作で、

体に何百ボルトの電流が流れた。

右手から入った電流が、

そのまま左手に抜けていたら、

父は死んでいたらしい。


心臓を通る、最短距離のはずの進路ではなく。

右手から流れた電流が

なぜか右足へと流れ、

そのまま地面に逃げていった。


そう。

父は「悪運」がつよい。


その状況を知ったお医者さんでさえ、

「奇跡」を感じてしまうほどの「偶然」で、

致命的な窮地を逃れている。


命を救われたその代わりに、

腕と胸部に大やけどを負い、

パンチパーマだった髪の毛は

さらにちりちりになって燃え落ちた。


特にひどかった手の指や腕のやけどは、

太ももや腹から皮膚を移植して

焼けただれた部分を治療した。


その事故以来、

父は「自分の体が磁石になった」と言い張っていた。


たしかに、

方位磁針の「北(N)」が、

父の指先に向かって

くるくると方向を変えるのを見たとき、

うそでもないのかな、

とも思ったりした。



3回目は、糖尿。

詳しいことは知らないが、

このときも「助からない」感じだったらしいが。

前例のない、

めずらしい病状だったとかそんな話で、

たくさんのお医者さんが

かかりっきりで治療にあたってくれた、

とのことだ。



そして今回、4回目の入院。



入院の知らせを聞いて数日後の年明け。


帰宅すると、

いるはずのない父がいた。


本当に、偶然のタイミングだった。



自分でも驚いたが。


父の姿を見たとき、

目頭がじわっと熱くなった。


「お父さん、よかった」


自分の口から、

そうこぼれるのを聞いた。


その姿を見たせいか、

これまで顔さえ見ようともしなかった父が、

ぼくに顔を向け、


「心配かけたな。まあ、大丈夫や」


と言った。


ぼくは、父に話しかけた。


はじめのうち、

やや重たかった父の口も、

軽やかに、勢いをまし、

倒れてから今日までのことや、

病院での不平不満、

リハビリでの奮闘などを

語りはじめた。



よく分からないが。

とにかく「よかった」と思った。


これまでのこととか、

いろんなこととか、

そんなことはどうでもよかった。


よかった、と思った気持ち。

その気持ちが正直な気持ちだった。



久しぶりに、父の笑顔を見た。

久しぶりに、父と話して笑った。


父と、こんなふうに話すのは

何年ぶりだろう。



父と母が並んで座っている。


こんなのは、何年ぶりだろう。



かつての記憶より、

父も、母も、ずいぶん歳を取っている。


それでも何だか、なつかしい気がした。


たのしかった、あの頃。




父をうらんだことなどない。

自分が不幸だと思ったこともない。


いまの自分があるのは、

父と、母の、おかげだから。


これまでの出来事、

何かひとつがちがっても、

いまの自分はない。


だから、むしろ感謝している。



一人っ子で、

不器用で頑固でむちゃくちゃな父。


父が生まれたとき、

祖父はシベリアに抑留されていた。


祖父が帰ってくるその日まで、

祖父に恥じぬよう、祖母が厳しく父を育てた。


父が祖父に会ったのは、6歳のとき。


それまで父は、

父の姿を知らずに育った。



自分が生まれたときの父の年齢。

そのときになって、いろいろ思った。


父は、父の姿を知らずに育った。

だから、父として

どうしたらいいのか分からないことが

多かったんじゃないかと。


愛情表現が下手で、

意地っ張りで、不器用な父。

愛情のあげ方も、

もらい方も知らない父は、

すなおな表現も知らなかった。


家を出て、会わなくなり、

父のはずだったその人は、

気づくと「顔見知りのおじさん」みたいな存在になっていた。




もしかすると、心のどこかで、

家を出た父のことをゆるせなかったのかもしれない。


かなしむ母の姿を、ゆるせなかったのかもしれない。



喪服姿の自分。

そのとき頭のすみで思ったこと。


父と、キャッチボールがしたかった。

いっしょにお酒を飲んでみたかった。


いろいろ悔しくて、後悔ばかりで、

かなしくなった。



けれども。



元気な父の姿を見て、

よかった、とすなおに思った。


並んで座る父と母の姿を見て、

なんだかいいな、とふつうに思った。



「そろそろ帰らなあかんな」


時計に目をやり、立ち上がる父。


家にいるはずのない父は、

例のごとく、病院から「脱走」していたのだった。


「来週、お見舞いに行くね」


そう父に告げて見送った。



病院に戻った父は、

脱走したことが看護婦さんにばれて、

こっぴどく叱られたと。

笑いながら、母に電話で話した。






☆ ★ ★ ★ ★





翌週。


母の誕生日であるその日は、

父に伝えたお見舞いの日でもある。


よく晴れた昼下がり、

父が入院する病院へ行った。




約束は13時。

不慣れな病院内をうろちょろしながら、

父の病室のある7階まで、

階段で上がってみた。



毎日父は、

リハビリのため、1階から8階まで

階段を1、2往復していると言っていた。

しかも「自主的に」だ。


こういうストイックな(頑固?)なところは、

お父だな、と思う。


2階から7階まで上がるだけでもきつい階段を、

毎日、往復している。

ときに2往復。


75歳の怪物は、

おそらく自分を病人だと思ってはいない。


「早くここから出してくれ」


そう思っているに違いない。




13時前。

父の病室をのぞくと、

窓辺のベッドで、

父は軽いいびきを立てて眠っていた。


頭には、

松本零士先生か黒沢年男氏を思わせる、

黒いキャップをかぶっていた。

ボルドー色のハイネックセーターを着て、

色落ちしたブラックジーンズを履いたまま、

大きな体をいっぱいに伸ばして、

窮屈そうなベッドですやすやと眠っていた。



いったん、休憩所に引き上げ、

冷たい『バナナ  オ・レ』で喉を潤した。


ほかの患者さんは、

みな、寝間着やパジャマを着て、

ひと目で患者さんと分かる格好をしていた。


父は今日、

お見舞いにくると分かって着替えたのか。


そんな疑問を抱きつつ。

13時すぎ、

ふたたび父の病室へ行くと、

病室の入口で看護婦さんにこう言われた。


「家原さん、たぶん外出してるんじゃないですかね」


「いえ、大丈夫です。寝てるみたいです」


そう答えて、父のベッドに近づくと、

眠る父に声をかけ、起こした。


寝ぼけ眼で目を覚ました父は、

ゆっくりと居住まいを正し、

ベッドに座り直した。


「はい、これ」


花屋さんで花を選び、

つくってもらった花束を渡す。


「生花はだめみたいだから。

 渡すだけ渡すから、いったん受け取ってね」


花束をもらった父は、

言葉もなく、とまどい、

ややあってからそれをごまかす感じに、


「ああ、ありがとう、ありがとう」


と、おおげさに頭を下げた。



色とりどりの花束は、

背後のサイドテーブルに置かれた



とりとめのない立ち話のあと、

少ししてようやく、

不思議な空気が落ち着いた。



「そこに座ったらええ」


父が、窓辺の框(かまち)の部分を指し示した。

窓台が、ちょうどいい感じの高さで突き出ていて、

ベンチのようになっている。


散らかった雑誌を束ねていると、


「それ敷いて座ったらええ。尻、つべたいから」


と、まじめな顔つきで言った。


散らかった雑誌は、

たんなる「読み物」ではなく、

「敷物」として座ぶとんの代わりになるのだと知らされ、

言うとおり尻に敷いてみた。


たしかに、あたたかく、

ほんのりやわらかな座り心地が、

尻にやさしい。


父は、病院生活やら、

ほかの患者さんとのエピソードやらを

饒舌に語り出した。


おそらくもう、

何度も「ネタを繰(く)った」であろう話もあった。


「・・・そのおっさん、なんぼ聞いても、

 またそっから、ずっとおんなじやねん。

 あのね、うちに中二階があってね、て。

 またそれかいな。

 なんべん聞いてもずっと、またや、って。

 そんでな、どこで転ばれたんですか、って聞くやろ。

 そしたらまた、あのね、うちに中二階があってね、て。

 またそっからはじまりよんねん」



関西弁で、小気味よく語られるこぼれ話。


たのしげに話しつづける父は、

ときどき引出しから小さなクッキーをつまみ出し、

ぽりぽりと小動物のように音を立てて食べた。


事務机の大引出しに見えるそれは冷蔵庫で、

見ると、引出し式の冷蔵庫の中に、

茶菓子を入れるような器に盛られたクッキーが

そのままダイレクトに入っていた。


会話の途中、

そちらに目を向けるでもなく、

ごく手慣れた感じの動作で

流れるようにクッキーをつまみ、

ぽりぽりとほおばる父。


父は、糖尿のせいで、

甘いものや食べ物を制限されている。


それなのに、

こうしてこっそり

クッキーを食べている。


まるで子どもだ。


階下のコンビニで、

こっそりカツ丼を買って食べたり、

ほかの人からもらったバナナを食べたりしては、

数値でこっそり食べたことが発覚して、

そのたび看護婦さんに怒られている。


「せやから、こっそり焼きそばとか

 カレーとか食べたあと、

 階段を2往復すんねん。

 そうすると数(値)が45とか下がんねん」


そして、ふくらはぎの筋肉を自慢する。


パッドか何か四角いものが

入っているんじゃないかと思うほど

びしっと隆起した、ふくらはぎの「腓腹肉」。


かつて見た、

40代のころの父のふくらはぎと、何ら変わりない。


けんか、運動、格闘技。

筋肉質の父の体は、

自分の見知ったそれより

いくらか線は細くなったものの、

いまだにいかつくてたくましい。


看護士さんと行なうリハビリでも、

負けん気や文句、正論または屁理屈をふりまき、

すっかり顔と名前を覚えられている父。


幼年期のぼくは、

父の、そういうところが恥ずかしかった。



「バランス取って台のうえ乗って、

 ほんで45秒やったら、

 あれ、すごいですね、じゃあもう1回やりましょう、

 なんて言うてけつかるからやな。

 そんなん言うなら自分でやってみぃ、て言うたった。

 そしたら12秒やで。

 むずかしいですね、45秒もよくやりましたね、て。

 自分でやったこともないもん、人にさすな、言うねん。

 ほんまに」



そう。


父は、短気で、

まるで反省もしないし、

まるで人の言うことを聞こうとしない。


サイドテーブルから取り出した本。

それは、医師が読むような、専門的な医学書だった。

本文には、ところどころ赤線が引いてあった。

ぼくには、むずかしくてさっぱり分からない内容だった。


「お薬手帳」も、自慢げに見せてきた。

中には、細かな数値やメモがびっしり書き込まれ、

毎日毎日、記録が綴られていた。


そこには、

看護士さん、看護婦さんの名前や出身地、

性格や特徴なども書かれていた。



父はまじめでまめだ。


自分の「継続力」は

母ゆずりなのかと思っていたが。


父も、母に負けず劣らず、

律儀でまじめな部分がある。


赤線の引かれた専門書やお薬手帳を見て、

ああ、そういえばそういう人だったな、と、

ぼんやりと、かつての父の姿を思い出し、

目の前の父の姿に納得した。



たのしげに話し、

不満をこぼし、

笑う父。



妙になつかしく、また、

まるで初めてのことのようにも思った。



実際、初めてのことばかりだった。


自分の意志で来る、父のお見舞いも。

花を選んで、花束にして、それを父に渡すことも。

大人になってから、こうしてたのしく笑いあうことも。



たのしげに笑う、父の姿。



父が頭にかぶっている黒い帽子が、

帽子ではなく、

水泳キャップだと気づいたとき。


ぼくは、思わず失笑した。



黒い、メッシュの水泳キャップ。



なぜに水泳キャップ?


しかもなぜに裏返し?


おばあちゃんがいつも寝るときにかぶっていた、

あの「ネット」のつもりなのか?


松本零士先生でもなんでもない、

夏の中学生さながらの、

ただの黒い水泳帽。


それをあたりまえの顔でかぶっている父の意図、

そしてその美的感覚とはいかに・・・。



錯綜(さくそう)する

いろいろな疑問は未解決のままだったが。


「そろそろ行くね」


と、立ち上がる。



きっと、さみしいのだろう。

そこからも話がしばしつづいた。



「そこまで見送る」


と言う父と、いっしょに病室を出る。


途中、ナースステーションの前を通るとき、

看護士さんたちに、


「すんませんな、おさわがせして」


と、ふざけた口調で声をかける父。


ぼくは、本当に申し訳ない気持ちで、

看護士さんたちに頭を下げた。


何人かの看護士さんが苦笑、

または失笑していて、

何人かの看護士さんが笑っていた。


父はそのまま休憩所前の廊下まで来て、


「そしたらありがとう。気ぃつけて帰りや」


と、大きく手をあげた。

まるで船出を見送る人のように。


うれしそうに、

名残惜しそうに、

そしてどこか誇らしげに、

こちらに大きく手をふっていた。


頭には、黒い水泳キャップをかぶったまま。




父に渡して引き取った花束は、

すごくきれいで、

いいかおりがたちこめていた。



駐車場から病棟を見上げる。

さきほどまでいた、

7階の父の病室。


きっといまは、

待合室の人たちとおしゃべりしているのだろう。



駐車場に停めた車に向かう。


行儀よく並んだ杉の木が、

青い空に向かってゆれていた。



いままでのこと、これからのこと、

そんなことより。


ぼくにとって、父は、父だ。


ほかの何ものでもない。



そしてぼくは、ぼくでしかない。



母の誕生日の昼下がり。

外は寒くてもよく晴れていた。











★ ★ ★ ★ ★





後日、花瓶に生けられた花は、

それぞれの場所でにおやかに咲いている。


いちおう生け花の師範代の資格を持つ母が、

うれしそうに生けた花も。

父に渡して引き取り、2つに分けた花たちも。


それぞれの場所で、

うつくしく、うれしそうに咲いている。











年明け、三が日に、

姉とも顔を会わせた。


うれしそうに近況を語る姉。


昨年10月の展覧会に来てくれた姉は、

そのときもたのしげにいろいろ話してくれた。


姉がこんなにたのしそうに話すなんて、

いままで、何も思わなかったことだ。




10代、20代、30代には見えなかったもの、

感じなかったこと。




1980年。

ポートピア80でつくった、

家族の写真のTシャツ。


サイズ表記はLサイズ。


当時、5、6歳だったぼくには

大きかったTシャツも、

いまではちょうどのサイズになった。




2018年、母の誕生日。



父のお見舞いと、母のお祝い。


青空の下、日ざしの中で輝く花束。


みんなが笑っていた。



水泳キャップをかぶってうれしそうに手をふる父と、

鰻を食べながら豆について熱く語る母。



ぼくは、この日をずっと忘れない。














< 今日の言葉 >


ヘッ、ヘッ、ヘルメス!

(富裕層のくしゃみ)