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2014/04/23

先生失格 たとえばぼくが彼なら〜超長編随筆〜








会社をクビになった。

 八年間無遅刻無欠席で通勤した会社を解雇された。

 何の前触れもなく、冷たいワープロ文字で僕のクビは宣告された――』






何年か前に書いた小説『青い烏(からす)』の冒頭。

こんなふうにして主人公である「僕」の話は始まる。

一人称で語られる「僕」の物語。



今回は「僕」ではなく、

「彼」の物語を、三人称で語ろうと思う。










主人公である「彼」。

彼は、8年間勤めた職場を解雇された。

彼は、非常勤講師という立場で、

とある学校の「先生」の仕事をしていた。



1月末日、

今年度最後の授業の日。


職員室で、担当の先生から声をかけられた。



「ちょっとお時間いいですか?」


たいてい、こういうお誘いで、
いい話だったことはまれだ。

それは、その声、表情からも伝わってきた。


その日の授業、
卒業をひかえた生徒たちとの最後の授業。


「また呼び出しだよ」


親しい生徒に、彼は肩をすくめながら言った。


「なんで? 先生、なんかやったの?」


「さぁ・・・分かんないけど。
 たぶん、このあと怒られるんだと思う」


「何て言われたかあとで教えてね」


「分かった。泣きながら話すよ」




今年最後の授業。

最後の、すこやかでたのしい時間は、
終業のチャイムとともに「現実」へと引き戻される。

約束の、担当の先生のもとへと向かう。


「よろしいですか?」


何も知らされぬまま、
エレベーターへとうながされ、乗り込む。


「ちょっとここで、いいですか?」


何も分からぬまま、
薄暗い廊下にひとり、ぽつんと待たされた。


しばらくすると、
校長と、教務の女性の姿が現れた。


「どうも」

ぺこりと頭を下げて、あいさつを交わす。

会議でもあるのか、
2人は扉を開けて、部屋の電気を点けたりしていた。


「じゃあ、どうぞ」


(え、おれ?!)


彼は驚いた。


「どうぞ」


担当の先生を待っていたつもりが、
いつのまにか入れ替わっていた。

どうやら彼の「待ち人」は、
校長と教務の女性だったようだ。


開かれた部屋は『校長室』。

おぼろげだった輪郭がはっきりしはじめ、
いまから何が起ころうとしているのか、うすうす見えてきた。



校長の口から語られたのは、
来年度からの授業がなくなったため、
一旦契約を打ち切らせていただきたい、ということ。


つまり、解雇。


「寝耳にウォーター」


彼の頭のなかに、
そんなつまらないフレーズが浮かんで消えた。


とはいえ。


予兆はあった。

色かたちのない、具体的な何かというわけではない、
ごく「あたりまえ」な感じの「きざし」。


それでも。


突然知らされた「解雇」の知らせに、
少なからずもびっくりした彼であった。



まあ、決まったことなら仕方がない。


「分かりました」


と応えた彼は、校長と教務の女性の顔を見た。

ふたりとも、残念そうな顔をしていた。



「このことはお話しにならないように」と言われた彼は、
一瞬、どういうことか意味が分からず、


「言っちゃだめってことですか?」


と、バカみたいな語彙(ごい)で聞き返した。


そういうことです、と言われた彼は、
分かりました、とまたバカみたいに応えた。


校長と教務の女性を見送ると、
入れ替わりに入ってきた担当の先生方と向き合った。

そして、それぞれの理由や事情を聞いた。



言いたいことは色々あったが。

さして不満はなかった。





★ ☆





会社をクビになった。

 八年間無遅刻無欠席で通勤した会社を解雇された。

 何の前触れもなく、冷たいワープロ文字で僕のクビは宣告された――』





彼と小説『青い烏』の主人公とがちがうのは、
「無遅刻無欠勤」という箇所。


午後からだと思っていた授業が、本当は午前(朝)からで、
学校からの電話で目を覚ました。

あわてて支度をして、
2限目のチャイムが鳴り終わるとともに、
教室にすべりこんだことが1度だけある。

さいわい、合同授業でほかの先生方もいらしたため、
「大事」には至らなかった(と、思う)が。

先生としてあるまじき失態であることには変わりがない。



彼は、授業中にガムを噛んでいた。

そのことでほかの先生に注意を受けたこともあった。




彼が学校で仕事をすることになったきっかけは、
彼の同級生がふらりと学校に立ち寄ったことからだった。

その同級生が、学校の先生に彼の話をした。


そしてその幾日か後に。

新しい先生を探しているから連絡が欲しい、
ということが、まわりまわって彼の耳に届いた。

ドイツでワールドカップがあった年の、
7月の終わりのことだった。

同級生→その友人の同級生→親しい同級生→彼。

伝言ゲームのようにして「先生」の話を知った彼は、
翌月、さっそく学校へと足を運んだ。



彼を迎えてくれたのは、
50代くらいの男性だった。

応接室のような場所へ通され、
なんとなく雑談のような会話がつづいた。


当時の彼は、海外から帰国したばかりだった。
7月はほとんど日本にいなかった。

彼は、日に焼けて肌が浅黒かった。

そのことが話題にあがり、
彼は(自分でも日に焼けることがめずらしかったので)説明した。



「先月、ニューヨークで、
 ブルックリン橋を歩いて渡ったんですけど。
 その日の気温が40度を超える猛暑日で。
 1日だけでこんなに焼けたんですよ」


ブルックリン橋は2㎞弱(1.834㎞)。
端から端まで歩くと、30分はかかる。
途中、ベンチはあるが、屋根はない。

写真を撮ったり、風景を眺めたり、ぼんやりとベンチに座ったり。

ひとり気ままに、ふらふらと歩く彼には、
2㎞足らずの距離が1時間以上の散歩道となった。



そのあとにも、
男性と彼との雑談は、ちょろちょろとつづいた。


(面接の人、まだかな)

(今日は説明だけで、面接はないのかな)


終始足を組んだまま、リラックスムードの彼は、
のんきにそんなことを思っていた。

いつものように、ガムも噛んだままで。


男性との話が終わりのきざしを見せはじめ、
そろそろ面接か、と組んだ足をほどいたとき。


「それじゃあ、そういうことで。
 どうぞよろしくお願いします」


男性がぺこりと頭を下げた。


(えっ、終わり?!! これって、面接だったの?!!)


彼はおしりに火がついたかのように勢いで、
いましがたまでくつろいでいたソファから立ち上がり、
噛んでいたガムを飲み込みそうになりながら、


「あ、こちらこそ。どうぞよろしくお願いします」


と、深々お辞儀を返したのでありました。



その帰り路に、彼は思った。


(もしかすると、外国帰りってことが、
 「帰国子女」みたいに思われちゃったのかなぁ。
 だから足組んだままでも「欧米風」ってことで・・・)




そんなふうにしてはじまった
「学校」でのお仕事。


その2カ月後には「先生」として、
生徒に教鞭をふるっていたのだった。



最初の年は、週1日、2コマ(90分 ×2)。

年間で14日間。

翌年も同じく、年間14日。

換算すると42時間。


彼は、年間42時間しか働いていなかった。



2年目のころ。
彼は、とある令嬢の教務の方に、


「もう、何年やってるんですかっ!」


と叱咤(しった)されたことがある。



彼は思わず、


「はい、28日ですけど」


と、言い返しそうになった。


年間で14日
しかも後期(10〜2月)だけという勤務では、
なかなか「流れ」がつかめないのも事実だった。



それでも、先生という仕事はおもしろく、
生徒たちとしゃべる時間もとてもたのしかった。

まだ見ぬ未来に対して迷いもなく、
一生懸命に絵を描く生徒たちを見ていると、
何かひとつでもいいから彼らにあげられたら、と
彼は思うのであった。




「先生、めっちゃよかったじゃん」


「やばいね、それ。マジで泣けるね」


生徒たちは、言葉は汚くても、みんなきれいだった。







★ ☆ ★

学校での「先生」の仕事。

先生、という仕事をはじめるにあたって、
彼は「心得」のような「訓示」のようなものを立てた。




『喉が渇いた馬を水辺に連れて行くことはできても、
 馬に水を飲ませることはできない』


誰の言葉なのかは分からなかったが。
彼は、その言葉を胸に刻んで、日々そうあろうと考えた。



馬に水を与えるのではなく、
馬が水を飲むようにしむけるのが、よき指導者だと。
彼は、そんなふうに聞いたことを思い出し、
これを第一の「訓示」にした。



そして、自分が

「こんな先生がいてほしかったなぁ」

と思う先生になろうと考えた。


いつも先生から怒られてばかりだった彼は、
どうして分かってもらえないのか、ときどきひどくかなしかった。

だから「否定」はやめようと思った。


こうしなさいとかああしなさいとか。
これはだめとかあれはいけないだとか。

そんなことより、
とにかく、やってみればいい、と。
背中を押す役目をしたいと思った。

やりたいことを思いっきりやれるように、
ケツ(責任)を持つのが「先生」の役目だと。
そんなふうに思った。


まず、自分で思ったことを、
自分でやってみて、
そこから感じて、学べばいい。



彼は、特別ビートルズが好きだったわけではないが。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコのエピソードで、
ひとつ好きな話があった。



ジョン・レノンが、とあるギャラリーを訪れたとき。
「階段」のような作品に目を向けた。

その階段をのぼると、
最上段にルーペ(虫眼鏡)がひとつ、置いてあった。

『天井を見て』と書いてあったので、
そのとおりジョン・レノンは、ルーペを手に、天井を見上げた。

そこには、小さな文字で『YES』と書かれていたそうだ。


そのときジョン・レノンは、
初めて『YES(いいよ)』と「肯定」された気持ちがしたと。


そんな話を聞いたことがあった。




どちらかというと、彼は「バカ」なので、
そういった類いの話に感銘を受けやすい。


そんな記憶も助けてか。

彼は「いいよ」といってあげられる人になりたかった。


だから彼は、


「やってみたらいいよ」

「いいじゃん、それ」


と言ってあげられる先生になろうと思った。



そう。


彼が学生時代に尊敬していた先生も、
そんな先生だった。


彼は、コーヒーを飲みながら、
準備室でしゃべる先生との会話から多くのことを学んだ。


くわえタバコで鉋(かんな)をかける先生。
そんな先生の背中から、多くのものを感じた。


「このカンナ、いカンナ」


などと、しょうもないことを言って満足げに笑う先生。
その姿は、無邪気で陽気な「おじさん」に見えた。


下ネタと、だじゃれと、
シリアスな話が混在した、濃密な時間。


話の分かる「大人」。

かっこいい「大人」。

尊敬できる「大人」。


「先生」というより、
尊敬できる、ひとりの「人」だった。




『たばこを吸いながら いつでもつまらなそうに

 たばこを吸いながら いつでも部屋に一人

 ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

 たばこと絵の具のにおいの あの部屋にいつも一人

 たばこを吸いながら キャンバスに向かってた


(中略)


 たばこを吸いながら あの部屋にいつも一人

 ぼくと同じなんだ 職員室がきらいなのさ


 ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん




 たばこを吸いながら 劣等生のこのぼくに


 すてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくない



 ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん


 たばこと絵の具のにおいの ぼくの好きなおじさん


(『ぼくの好きな先生』/RCサクセション




彼の、中学校時代の美術の先生も、まさにそうだった。

授業の合間には美術準備室で、
大きなキャンバスに向かって、いつも絵を描いていた。

灯油のようなテレピンのにおいと、油絵の具のにおい。
タバコのにおいと、うっすら香るお酒のにおい。


中学生の彼にはむずかしいであろう話でも、
手加減なく、いろいろなことを話してくれた。

それは、彼のことを1人の「人」として認めているようでもあった。




「先生」という仕事をはじめるにあたって、彼は、思った。


「先生」にはならないでおこう、と。



まるでシェイクスピア的な表現だけれど。


先生らしくない、先生。


彼は、そうありたいと。


なんとなくであってもつよく、
心に誓ったのでした。






★ ☆ ★ ☆




彼が先生の仕事に就いて、3年ほど経ったある日。

ある男性の先生から「相談があるんだけど」と、
会議を持ちかけられたときのこと。


彼は、こともあろうに、


「おなか減ってるんで、
 お菓子食べながらでもいいですか?」



と言った。


ずいぶん歳上で、大先輩である先生は、
彼の要求を承諾した。


その承諾が「快諾」だと思っていた彼だが。

のちに、彼の同僚でもある親しい先生から
客観的な状況を聞いたところによると、
そういうふうには見えなかったらしい。


「戸惑ってたっていうか。
 すごい苦い顔で、渋々って感じでしたよ」


そうとも知らずに彼は、
ポテトチップスをばりばりほおばりながら、
真面目な顔で「会議」に向かうのであった。



それだけなら「まだしも」である。



会議の段取りや準備がままならないと感じた彼は、
生意気にも、ずいぶん歳上である先生に向かって、
その準備の悪さを指摘し、声を荒げた。


彼いわく。

ちょっと話がある、という約束で
この「会議」に臨んだつもりでいたのだが。

その男性の先生の口から出てくる、


「今日はこんな感じだけど」

「第1回目の会議としては」


などという言葉に「約束がちがう」と思いはじめ、
さらにはその段取りの悪さに腹が立ってきたとのことだ。



ちなみに彼は、かつて、
広告代理店で1分1秒を争う仕事をしてきた。

会議や打ち合わせで少しでももたつくと、


「いいか? おまえはおれの
 貴重な時間を奪ってるんだぞ。
 そのことを忘れるな」


と、社長に言って聞かされてきた。


準備と段取り。


元レンジャー部隊出身の社長は、
本当に、隙のないくらい「備えている」人だった。


『そなえよつねに』


これは、ボーイスカウトの言葉だ。


心、技、体。


この3つの準備を常にしておけ、というのは、
彼が社長に叩き込まれた精神のひとつだった。



そんな経験則もあってか。


彼は、こともあろうに
ずいぶん歳上の先生に向かって「注意」をした。


本当に「注意」という言葉がぴったりくるように。
彼は「説教」をしたのだった。


何度も言うが。


自分よりもずいぶん歳上で、
ずいぶん先輩の先生に向かって、だ。


ついいましがたまでポテトチップスをつまんでいた指を突き立て、
早口に、かつ、論理的に、まちがっている点を指摘した。


「いいですか。だいたい、会議だって呼び出すんであれば
 それなりの準備っていうものが必要なんじゃないですか?
 何ですか、これ。会議って言える段階じゃあないじゃないですか。
 こうやって他人の時間を使ってるっていう意識とかあるんですか云々」



まったくもって。

貴様は何様だ、と言いたい。

当の本人はすっかり忘れているようすだが。

先ほどまでポテトチップスを食べていた人間が
えらそうな講釈を並べているということを忘れてはならない。


相手の先生は、というと。

しばらくは量りかねたように黙って受け止めている様子だったが。
いきなり立ち上がって、真っ赤な顔で激憤したのは言うまでもない。



そんな感じで。


彼は、よくほかの先生を怒らせた。


本人にその気はなかったとしても。

彼は、よくほかの先生を、本気で怒らせた。



彼はバカなので、
思ったことを思うままに言ってしまうという、
致命的な欠陥があった。




「それって結局、比べてるってことにならないですか?」



こんな調子で。

相手が歳上であろうが令嬢であろうが。

いわゆる「核心」を突いてしまうという性質の「バカ」だった。



『王さまは、はだかだよー!』


そういって叫んでもいいのは「子ども」だけで、
しかも「お話の中」だけのことだと。


バカな彼には、まったく分かっていなかった。







★ ☆ ★ ☆ ★






ほかの先生を怒らせてばかりの彼ではあったが。

バカゆえに、一部の生徒からは親しまれていた。


彼は、敬語を使われるのが好きではなかった。

だから、生徒が「ため口」で話しかけてくれることが、
とてもうれしかった。



「敬語よりも敬意」



彼が、さも名言のように言っていたことがある。


いくら敬語を使っていても、
そこに心が乗っかっていなければ、形骸にすぎない。

きれいに聞こえるだけのうすっぺらな言葉は、
すすけた心が透けて見える。


ため口だろうが何だろうが、
そこに気持ちがつまっていれば、すべて伝わるものだ。


相手を敬い、慈しむ気持ち。




バカな彼は、いつも生徒からいろいろなことを教わっていた。

そしていろいろなものを、もらっていた。


アメとかチョコとか、おみやげだとか。

実質的な「物」をもらうこともあったが、
それよりもたくさんの「目に見えないもの」をもらっていた。



遠くから「せんせー!」と手をふりながら、
全力で駆け寄ってくる生徒。

喫煙室に集まる、ろくでなしな生徒たちとの、
くだらないおしゃべり。

きらきらとまぶしい生徒たちの、
きらきらしたまぶしい言葉。

意味のない、くだらない話で笑った授業後の時間。

質問を受けても、うそばかりでまともに答えない彼を、
あきれることなく受け入れてくれた生徒たち。


いつも、待合せの約束なしで、
決まった時間に決まった場所で会える生徒たち。



「また怒らせちゃったな・・・」


「また怒られちゃった。何でだろう・・・」


と。

汚れて、くすんでしまいそうになった彼を、
いつでも洗い、すすぎ清めてくれたのが生徒たちだった。



いつでも元気で明るく、わいわいはしゃぐ生徒たち。
彼は、生徒のみんなからいつも、
名前もつけられない、きれいなものをたくさんもらっていた。




授業中、生徒のじゃまをしてばかりで、
彼はまるで何もしていないようだった。


先生のくせに、教えるよりも、教わってばかりだった。

生徒にあげるよりも、もらってばかりだった。



それなのに。



彼は、生徒に、
先生がいくれてよかった、と。

そんなふうに言われたりするから分からないものだ。






★ ☆ ★ ☆ ★ ☆





年度最後の授業の日の、
授業後の時間。


校長室から教室に戻ると、
生徒に「どうだった?」と言われた。


「怒られた・・・いや、怒られてはいないかな」


「え、何だったの? 気になるー」


先ほど、校長から言わないようにと口止めされた。

はい、と言った以上、
あんまりおおっぴらに公表するわけにもいかない。


みんなの前では言えない、と。



言いたいけれど、言えない。

けれども、誰かに言っておきたい。

誰か、ひとりにでもいいから、伝えておきたい。


そうしないと、
何だか生徒のみんなに「うそ」をついているようで、心苦しかった。


クラスの誰かに伝えておけば、
ほかのみんなにも伝わるかもしれない。

そう思った彼は、
仲のいい生徒とエレベーターでいっしょになったとき、
こっそり言った。


「いまさっき、クビになっちゃった」


「えっ」


生徒は驚きの表情のまま固まってしまい、
言葉を失っていた。


エレベーターの、蛍光灯の明かりの下で。
生徒の顔が、いっそう白く見えた。



それでも笑いながら、彼は簡単に話した。








彼の、協調性のない、奔放な態度。


それは、いまにはじまったことではない。


それは要因であっても原因ではない。







5月。


さかのぼること数カ月前。



学校の行事として、球技大会があった。


「先生、球技大会きてよ」


生徒に誘われた彼は、
行きたい気持ちでいっぱいだったが、
自分の仕事(本業)が忙しく、
確実に行けると言い切ることができなかった。



「こんど飲みに行きましょうよ」


そう言われると、


「こんどっていつだろう」

「まだかな」


と、待ってしまう彼。


「社交辞令」という言葉が分からない彼には、

簡単に約束をすることができなかった。



球技大会の2日前にようやく、
仕事のめどが立った彼は、
生徒のひとりに、


「球技大会、行くからさ。よろしくね」


と伝えた。




当日。


会場に入ると、着替えをすませ、
体育館に向かった。


球技の内容はバレーボール。

彼は、バレーボール経験者だった。


生徒たちと輪になって、
練習をする。

ほかの、常勤の先生たちの姿が見える。

非常勤で参加しているのは、
彼のほかにはいないように見えた。



開会式。

生徒に混じって、体操座りで話を聞く。



試合開始。


コートのすみで練習をしたりしているうちに、
彼のクラスが試合をする番になった。


よし、と、勢い勇んでコートに並んで、
対戦相手と握手をする。

と、どこからから担当の先生が駆け寄ってきて、
彼にこう言った。


「エントリーしてないですよね?」


「エントリー?」


「はい、エントリー。してないですよね?」


「あ、はい。してない、ですけど・・・」


「じゃあ、ダメです。エントリーしてないと、試合には出られないです」


「えっ・・・・?」


彼は絶句した。


言っていることはよく分かる。

けれど、言っていることの意味が、彼には分からなかった。


「エントリーしないと試合には出られませんよ。
 みんな、エントリーしてますから」


さらにくり返される連続エントリー攻撃に、
彼は思わず、吐くようにもらした。



「かたっ」



漢字で書くと「堅っ」となるのだが。



「かたっ」


そのひとことを聞いた瞬間、
担当の先生の顔が、ぎしっ、とこわばるのが分かった。


本当に。

親の仇でも見るような。

痴漢でも見るような。

そんなまなざしだった。




・・・・そのすぐあとの、会議の日。



彼は「呼び出し」を受けた。


「先生だけ、ちょっと残ってもらっていいですか?」


「え、何ですか?」


「ちょっと、このあと、残ってもらっていいですか」


会議のあと、彼には約束があった。


それでも選択肢のない宣告に「いや」とは言えず、
会議のあと、ひとり残ることになった。



ほかの先生方が退室して。

彼がひとりになるとようやく、
担当の先生が、教務の方とやってきた。


「あ、どうぞ。そこに」


と、担当の先生にうながされ、
パイプ椅子に座る。

机をはさんで2対1。
もちろん彼が「1」だ。

そのフォーメーションは、
まるで三者面談のような格好だった。


内心で彼は、


「うわ、これぜったい怒られる感じのやつじゃん」


と舌打ちした。



担当の先生と、教務の方。

これはだめだ、と彼は思った。



担当の先生。
・・・すなわち彼が「かたっ」と言い放った人物である。


教務の方。
・・・実は、球技大会の日に、
彼はこの教務の方にも「食いついて」いたのだ。


1試合目を仕方なくあきらめた彼は、
2試合目に出るべく、生徒を引きつれ、
その教務の方のところへ「交渉」しに行った。

何度もくり返される
エントリー攻撃が腑に落ちなかった彼は、
納得のいく説明がほしかったのだが。

結局「ルール」だということしか分からなかった。


いろいろ事情を説明したのだが。
押しても引いても何も出そうにないと感じた彼は、
納得がいかぬまま、


「そうですか。分かりました」


と、口ではそう言ったのだが。

その顔と声には、不満の色がありありと表れていた。




そんな「ふたり」が「そろった」ら。

もう「ぜったい」に「決まっている」。




(もう、ぜったいそうじゃん!!)




バカな彼の頭は、すぐさまそれを結びつけた。



2対1、逆三角形の三者面談。

いままでこんな場は一度もなかったのだが。



「どうなってるんですか」


「これからやってもらっていいですか」


「お願いしてもいいですか」



彼は、まるで怒られているのかと思うほど
責め立てられた気持ちになり、憂鬱な気分になった。

と、同時に、なんだか笑えてきた。



(うわっ、なんでこんなに怒られてるんだろう)


そう。


彼はバカなので、怒られると笑ってしまう性質らしい。

不条理に感じたり、理不尽に感じたりすればするほど、
怒られている彼は、笑ってしまうらしい。


バカな彼は、


「時間、大丈夫ですか?」


と聞かれて、


「あ、もうだめです。
 約束があるんですけど、もう、ギリギリって感じです」


と、ふつうに答えた。



さらに彼は、ふたりの目を見て、こう言った。



「あの、これって、怒られてるんですか?」



いきなり聞かれたふたりは、
一瞬、きょとんとしたような、真空状態になったかのような、
戸惑った顔つきで、お互いにちらりと目を向けた。


一瞬の目配せで「代表者」に選ばれたのは、
担当の先生のほうだった。


「いや、そういうわけでは、ないですけど」


最後、ねぇ、という感じで、
教務の方のほうに顔を向ける。

教務の方は、何度かまばたきをして、
目を閉じながら、うんうん、と小さく2回うなずいた。



「よかったぁ。ぼく、怒られてるのかと思って。
 あーびっくりした。・・・だったらいいんですけどね」



バカな彼は、いかにもほっとした感じでそう言った。




あくまで彼の気のせいかもしれないが。

これまでも、ただでさえ風当たりが強かったのに。
さらに雲行きがおかしくなってきているような感じがした。



それ以来。



職員室に名簿を取りに行ったときにも、
あまり顔を会わすことがなくなった。


これまで授業後には「引き継ぎ」のような話の流れで、
ちょっとした雑談を交わすこともあったのだが、
それも、ほとんどなくなった。

あったとしても、事務的な内容か、
または、どこか一方通行な会話で、
そんなときは「そうですか」という言葉ばかりが耳に残った。


あくまで彼の気のせいかもしれないが。


あきらかに何かが変わったような。
そんな気がした。



毎年来るはずの、担当の先生からの年賀状も、
その年は「あとだし」だった。


あくまで彼の気のせいかもしれないが。

年賀状のすみに書かれた肉筆の文章が、
やけにさらりとしているような。
そんな気がした。





「かたっ」


思わず口からこぼれた、ひとこと。

致命的な、そのひとことのために。


彼は、もう「いらない」存在となってしまったと。



ぴったり、はまらない者。


つまり、不適合者。



あくまで彼の気のせいかもしれないが、
そう思ったのであった。



そう。


要因はいくつもあるし、
原因となるようなものはいくらでも見当たる。

ただ「きっかけ」となったのは、
その「ひとこと」かもしれない。



上司でもあり、決定権もある、その先生。


機転も融通も利かないバカな彼には、
上も下も、右も左も関係ないのだ。



たんなる彼の思い込みかもしれないが。


思い込みも含めて、
それが、彼の現実だった。







★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★







「もう、帰るわ」


エレベータでの「告白」のあと。
ふたたび教室に戻った彼は、教室に残っている生徒に言った。


年度最後の授業が、
彼にとって、本当に、最後の授業となった。

みんなの顔を見ていたら急に、なぜかかなしくなってきた。



クビになったことに対する失意ではなく。

校長室での、空気感。言葉。


苦い汁を「飲んでくださいね」と差し出されて。
それを注文したのがあたかも自分だったかのような、
そんな気分だった。

その「苦汁」のせいで、
彼にしてはめずらしく消沈していた。



「どうしたの、先生? なんか元気ないね」

「めっちゃ怒られたの?」

「なんだったの?」


心配げにたずねる生徒たち。


「卒業式のときに言うわ」


彼には、そう返すのが精一杯だった。



「じゃあ」


手をあげ、教室をあとにする。


もう二度と入ることのない、この教室。


最後って、こんなもんなんだな。



彼はちょっとだけ笑って、教室脇の廊下を歩いた。



職員室の片づけをすませて。


「お世話になりました。ありがとうございました」


と、体を折り曲げ、深く頭を下げる。


このことを、誰がどこまで知っているのか。

それは分からなかったが、
負けた感じになるのが嫌だったので、彼は元気にあいさつをした。




タバコが吸いたかったので、
地下の喫煙室へ向かった。

そこで、
仲のいい生徒たちと偶然会えた。


喫煙室で3人の紫煙が、三者三様にゆらめいた。


「実はさぁ・・・」


ずっと仲よくしてきた彼らにも、
クビになったことを話した。


彼らも一様に、
口を開けた表情のまま、
言葉を失って固まった。


「そりゃそうだわな。
 おれも、そんな感じになったもん」


そしてまた、簡単にことの流れを説明した。

話しながら、まだ自分でも「分からない」ままだった。






彼は、生徒たちの連絡先を、
まったくと言っていいほど知らなかった。

学校側の規則で、

<生徒の連絡先を聞いてはいけない>

というような項目があったように記憶していた彼は、
そのとおりにしていた。


<生徒とお酒を飲む席に同席してはいけない>


<生徒と二人っきりで飲食などをしない>


そんな項目もあったように思うが。



自分はまちがったことはひとつもしていない。

そのつもりだった。


まちがったことはひとつもしていない。

けれど、正しいこともしていない気がする。



喫煙室を出て、生徒たちに別れを告げる。

彼以上に、生徒たちはかなしそうな顔をしていた。




校舎を出ると、
彼は校内にある画材屋さんへ向かった。


学校内にあっても、学校関係の人ではない画材屋さん。

いつもおしゃべりをしてくれて、
画材を買う彼に消しゴムをサービスしてくれたり、
無理なお願いを聞いてくれたりと、
いろいろ親切にしてくれた。

だから彼は、
きちんとあいさつしておきたいと思った。


今日で最後になったことを話すと、
画材屋さんは、言葉よりも先に涙を流した。


「みんな、うれしそうに先生の話してるんですよ」


頬を伝う涙をぬぐいながら、画材屋さんは、
やさしい、ねぎらいの言葉をたくさんかけてくれた。


「先生に、これ買うといいって聞いたとか。
 これ使ってみたらって言われたとか。
 ここにくる生徒たちから出るのは、
 いっつも先生の名前ばっかりですよ」


うれしかった。

画材屋さんの言葉が、
そう言ってくれている生徒たちの言葉が、
うれしかった。



画材屋さんと話していると、
仕事を終えた掃除のおばちゃんが顔をのぞかせた。

掃除のおばちゃんにあいさつをすると、


「先生、いやぁ、うれしいわぁ。
 あたしね、先生のファンなんですよ」


「そうなんですか?! もっと早く言ってくださいよ」


「だって、こんなおばちゃんに言われても
 うれしくないかなって思って」


照れたようにはにかむ掃除のおばちゃんに、
彼は、こみ上げるものが一気にあふれ出そうになった。


この状況で、
今日が最後だということは、言えなかった。

だから、よけいにつらかった。


なんでこんな思いをしたり、
させたりしないといけないのかと。

彼は、くやしくもあった。


「それじゃあ、またおしゃべりしましょうねー」


と、少女のように手をふる掃除のおばちゃんの姿に。

彼の視界が、じんわりとぼやけた。




入れ替わるようにして、
画材屋さんに、にぎやかな声が響き渡った。

姿を見かけると、元気に駆け寄ってくる生徒たち。
いつも彼に声をかけてくれる、1年生だった。


1年生とは、基礎造形のような授業で全員と関わっていた。

1年生との授業は、ずいぶん前に最終日を終えていたので、
何も言えず、会わずじまいでさよならしてしまうのが
ひどく心苦しかった。


運よく会えた、1年生。

そのなかのひとりは、
彼の展覧会にも来てくれていて、
そのとき、メールアドレスは交換していた。


言いたかった。

けれどもやっぱり、言いづらかった。


変に約束を守りたがる彼は、
公言しちゃいけない、という部分に縛られていた。



そうこうしているうちに、
本来なら次年度も担当することになっていたクラスの
生徒がやってきた。


偶然のいたずらか。


その生徒は、すごく仲よくしてくれていて、
会っておきたい生徒のひとりでもあった。


「先生、来年の授業、たのしみにしてるからね。
 すっごく、すっごく、たのしみにしてるから」


胸が、痛かった。

言いたい。

けど、言えなかった。


「来年、いないかもよ」


これは、彼が授業のときにも言っていた「冗談」だった。

うすうす「感じて」いたからこそ、何度も口にしていた「冗談」。

そんな「うそ」が「本当」になってしまった。



「またぁ」


笑いながら受け流す生徒。


「いや、本当に」


「いいよ、そうなったら。
 先生が言ってたとおり、先生の写真、教室に飾るから」


「そっか、そんじゃあ頼むよ。あの、例の写真」


「分かった、あれね。ぜったいそうするから」


じゃあね、先生、バイバイ、と、
少し跳ねながら、元気よく去っていく生徒。

彼はその背中を追いかけて、
何もかも全部、話そうかと思った。


けれど、彼はその場に立ちつくしたままで、
視界から消える生徒の背中を見守るだけだった。


言えなかった。

彼は、みんなをだまして裏切っているような気持ちになった。


笑って話してはいたけれど。

心のなかには、もやもやとした雲がはびこって、
ずっと晴れないままだった。


それでも、会って話せたことで、
ほんの少し、軽くなった。


というより。


画材屋さん、掃除のおばちゃん、
そして生徒たちの、まっすぐな言葉とまなざしに、
すすぎ清められたような感じだった。


「それじゃあ、みんな。がんばるんだよ。またね」


最後の言葉を残して、学校を出る。

と、出入口で、
喫煙室で会った生徒たちと、また会った。


「先生、これ」


生徒のひとりが、彼にコーヒーを差し出した。

紙カップに入った、ブラックコーヒー。

何も言わなくても、何も聞かなくても、彼には分かった。



「ありがとう。あったかいコーヒー、味わって飲むよ」


コーヒーを受け取った彼は、
彼らに手をあげ、こんどこそ本当に学校をあとにした。



ほんの少しだけ日が傾きかけた、よく晴れた午後。

薄ら寒いビルの谷間で。

歩きながら飲んだコーヒーは、
飲みなれたコーヒーよりも、しみわたるように、あったかかった。




ありがとう、みんな。


涙は流さなかったけれど。

本当はうれしくて、泣きたいくらいだった。






☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆





失ったものはほとんどなくて。

得たものは数え切れないほどたくさんで。


これまで置いてもらっていた
学校という場所には、感謝の気持ちでいっぱいだ。

その寛大さは、むしろ「奇跡」に近い。



期間にして8年。

長かったのか、それともあっというまだったのか。


いろいろあった。


本当に、いろいろなことがあった。



8年かかって、ようやく「学校」を「卒業」できた彼。

本当に「卒業」できたかどうか。

それは知るよしもないが。


「学校」という場所に「通う」前と後では、
まるでちがっていることはたしかだ。


教える側の立場の「先生」であるはずの彼は、
本当に、いろいろなことを学ばせてもらった。





学校最後の日の夜。

家に帰った彼は、
唯一、メールアドレスを知っている生徒にメールを送った。


生徒からの返信には、かなしみ、おどろき、くやしさなど、
まっすぐで正直な思いがたくさん詰まっていた。


生徒たち「子ども」は、
年が若いというだけで、
未熟だとか、分かっていないとか、
そんなふうに思われがちだけれど。

むしろその反対のことが多い。


彼はいつも、
生徒の聡明さには驚かされてばかりだった。


本当は全部分かっている。

ただ、その表現方法や伝え方を知らないだけだ。



彼に届いたメールの最後には、
写真が添えられていた。


学校での新しい生活が始まったばかりの4月。
もう、ずいぶん前に書いた、
授業後のメッセージ。

そんな「手紙」と、そのときつくった作品とを、
写真に撮って送ってくれたのだ。


メールに書かれた、
「うれしかった」「たのしかった」「ありがとう」の文字と、
授業でつくった作品と手紙の写真。


その、まっすぐな表現に。

さすがに彼も、ちょっとだけ泣いた。



自分は、まちがってなかったんだなと。



こんどは彼が『YES』と言われたような気がした。








翌朝。


目を覚ました彼は、
そのままベランダに出てタバコを吸った。


解放感。


彼の頭に浮かんだのは、
そんな言葉だった。


久しぶりに胸いっぱい空気を吸い込んだような。

そんな感じがした。



太陽がこんなにまぶしく感じたのは、何年ぶりだろう。




自由。


大げさな彼の頭に、
今度はそんな言葉がきらめいた。



色も、光も、空も、風も、においも、
花も、鳥も、頭のはげたおじさんも、自転車も。

すべてが光を放ち、
彼を祝福しているようだった。



『心も笑顔で』


以前、生徒から聞いた言葉だ。



本当に、彼の顔に、
ごく自然な感じで笑みがこぼれた。


大きく吸い込んだ息を、ほうっと吐き出す。




今日から彼は「先生」ではなくなった。


彼はもう、何者でもない。




新しい朝、新しい日々。


彼は、まだ見ぬこれからの日々を思うと、
わくわくして、じっとしていられない気分だった。




先生にはなりたくない、と。

えらそうに決意した彼は、
結局、先生失格で、とうてい先生にはなれなかった。


そんな宣言をするまでもなく。

最初から無理だったにちがいない。



バカな彼は、永遠に「生徒」なのかもしれない。

生徒はいつも分からないことばかりで、
叱られてばっかりだから。




先生失格の彼は、うれしそうに、こう言った。



「先生じゃなくなったから。やっと自由に、
 うんことかおちんちんとか、大きな声で言えるよ」






・・・そんなバカな「彼」の、長ーいお話。




バカな「彼」が忘れないためにも、

こうしてここに書き留めておくことにする。




どうぞ「彼」を笑ってやってください。


先生失格の「彼」は、気づかいの言葉をかけられるよりも、

笑ってもらえるほうが、よろこぶはずですから






< 今日の言葉 >



人生において

はかないものは 目に見えるものと、

ゴムの伸びた 他人のパンツ。