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2014/02/26

保健室の先生とタオル 〜長編随筆シリーズ 壱〜












言葉ってむずかしい。



言葉が好きで、言葉を磨きたくて、

コピーライティングの仕事をしていた十数年前。

少しは言葉の使い方を

覚えられたかと思っていたのだけれど。


何年経っても、やっぱりむずかしい。



もちろんそれは「言葉」だけの問題じゃあ

ないのかもしれない。









先日、新聞を読んでいて、

はっとすることがあった。


朝刊の1ページ。

読者の投稿を紹介するコーナーで、
その日は10代の「若者」たちによる投稿が特集されていた。


まず、はっとしたのが、

10歳の小学生による投稿だ。

投稿の内容は、

汚れたトイレを掃除してほめられてうれしかった、と。
かなり簡単に説明すると、そういった話だった。

そんな、小学生の、

のどかで微笑ましい投稿。

何にはっとさせられたのかというと。


文章を読みはじめていきなり、

2行目あたりに、


「うんち」



という文字が記されていたのだ。



活字で見た「うんち」という文字に。


ぼくは、ええっ、っと思わず声に出し、

コーヒーカップを手にしたまま、
少しだけのけぞった。


別に「言っちゃいけない言葉」ではないのだけれど。



新聞という、公的要素が強い、

どちらかといえば「かたい」イメージの媒体で、
何の準備もなく目に飛び込んできた「うんち」の文字。

しかも朝から、である。



ぼく自身、うんち、という言葉自体には

何の抵抗も、嫌悪も持たない。

むしろ愛らしささえ感じる。


(あくまで「うんち」という「言葉自体」の話だと、

 念のため、くり返し言っておく。)



さあ。




ここまでであれば、

何もわざわざみなさんに
お伝えするほどのことでもないのだけれど。


驚き、おののいたのは、この先である。



トイレ掃除をがんばった小学生の、

微笑ましい投稿。


うんち、という文字の踊る、

小学生の投稿の、その横に。


「みそおでんは幸せの味」



という見出しの投稿が並列していたのだ。




考えすぎかもしれない。


いや、むしろ、

安直な思考なのかもしれない。


けれど。



うんち、のあとに、

それはいけない、と思った。


本当に、何も考えず、

コンマ何秒の、瞬時のひらめきによって、
それと、あれを関連づけてしまった。


うんちとみそおでん。



右手にうんち、左手にみそおでん。



もし、みそおでんの話が先で、

トイレ掃除の話があとだったら。

いや、そうだとしても、

結果は同じだったと思う。

少なくともぼくの脳みそ(・・・あ)は、

同じように結びつけていたに違いない。


うんちとみそおでん。




思うに。


誰も、悪くはない。



たまたま起こった「偶然」でしかない。



言ってみれば、

こんな偶然をわざわざ「拾う」ぼくのほうこそが
問題なのかもしれないのだから。









さて。


話は変わって。



数年前の、

とある職場でのできごと。




新しい仕事場となるその場所で、

まだ右も左も分からぬころのこと。

直属の「上司」にあたるその女性に、
その日の仕事の報告や感想をはじめ、
分からないことや困ったことを相談していた。

上司にあたるその女性は、

ぼくよりいくつか歳上で、
まじめで清潔な感じの方だった。



週に1日の「勤務」。


仕事が終わったあとには、

仕事場で話せなかったことなどの「会話」を
自宅からのメールでやりとりさせてもらっていた。


そのころのぼくは、

ちょうど電子メール(PCメール)をはじめたばかりで、
メールというものに対する知識も経験も浅かった。

ただ、友人などとはちょくちょくやりとりしていたし、

キーボードで文章を打ち込むのにも慣れていたため、
メール自体、嫌いではなかった。



ちなみにぼくは、

携帯電話を持っていない。

いままで一度も持ったことはないし、

いま現在も、持っていない。


このことについて、よく驚かれたり、

特別な感じで紹介されたりするけれど。

ぼくにとっては、車の免許を持っていないとか、

イヌやネコを飼っていないのと同じような感覚でしかない。

だから、持っていないことに、

特別な理由とかこだわりとかがあるわけでもない。

いらないから持っていない。
ただ、それだけのことだ。




話は戻って。



携帯電話を持っていないぼくにとって

パソコンのメールは、
時間帯などを気にせず連絡できる、
手紙よりは早いけれども、
それでものんびりとした速度の通信手段として、
非常に重宝する存在だ。


パソコンの、文字だけでのやりとり。


だからこそ、

温度や感情が相手に伝わるように、
言葉を大切にしようと心がけている。


新しい仕事場、

新しい仕事先での人間関係。

少しでもたのしく、打ち解けることで、

より質のいい仕事ができる環境をつくっていきたい。

それはたぶん、ほかの方々も同じ考えのはずだ。


同じ仕事をするなら、

たのしくやったほうがいいに決まっている。


そんな思いもあって。


上司にあたるその女性とは、

業務的な報告や連絡事項に加えて、
自然と雑談的な「会話」もふえていった。


「私も▲▲は好きですよー」


だとか、


「△△は、私も観ました。おもしろいですよね!」


だとか。


「また明日、よろしくおねがいしますね〜☆」


なんていう感じの、

ごく普通の内容のメールだとしても、
「☆」とか「!」とかの
たのしげな記号が日を追うごとにふえていった。



メール初心者だったぼくは、

メールを送ってもらうと、返事を書いて送信して、
最後は「自分の番」で終わらないと気持ちが落ち着かなかった。


そんなこともあって。



パソコン上での「キャッチボール」が、

ほぼ毎日のようにつづいた時期がある。


受信、送信、受信、送信。



「それではまた」


「それでは」「では、また」



いったい、いつやめればいいのか。

こんなやりとりが毎日つづいたら、

相手にとっても迷惑に違いない。

これはいかん、と。



やめどきの「合図」が分からなかったぼくは、

自分で「ルール」をつくった。


上司にあたる女性へのメールは、

仕事に出勤したその日に1通のみ。

あとは、連絡事項がないかぎり、

無遠慮なメールはしない、と。


そんなふうにして、

週に1回か2回ほどのやりとりは、
すくすくとつづいていった。



そう。




「あの言葉」を送る、

そのときまでは。





新しい仕事場で。


少しずつではあっても、

徐々に仕事に慣れはじめてきた。


それでも、事務室の雰囲気は、

どうも「職員室的な」感じで、
少々堅苦しい感じがしなくもなかった。


そういった空気感の中で。


比較的、心安く話せる存在の、

上司にあたる女性。


その女性とのやりとり(メール)の中で、

ぼくは、感謝の気持ちを込めて、
こう表現した。


「△△さんは、保健室の先生みたいです」




メールを送信。



・・・・・。



返事がこないな。



・・・あれっ。



返事がこない。



・・・・あれ、どうしたんだろう。



届いてないのかな・・・。






しばらくののち。





ようやく、上司にあたる女性からメールが届いた。



そこには、こんな言葉が書かれていた。





「ひどい」





保健室の先生なんて、ひどい、と。


感謝の気持ちを伝えたはずのメールに返されたのは、

思いもよらない、むしろ真逆ともいえる反応だった。



少しのあいだ、途方に暮れたぼくは、

この一件について、知人に話してみた。


「やっぱり、保健室の先生っていうのが、

 まずかったんじゃない?」



保健室の先生。



ぼくにとっての「保健室の先生」のイメージは、

中学校時代の、保健室にいた「先生」のイメージで、
白衣の似合う、やさしい女性の「先生」だ。


年齢は、20代の前半ごろ。


学校にいるのに、学校の先生っぽくない、

話の分かる、数少ない「大人」。

授業をさぼって保健室に行くと、

戸棚の奥からクッキーの入った缶を取り出して、
あったかい紅茶を入れてくれた。


ティッシュにくるんだクッキーと、

湯気を立ちのぼらせるティーカップの紅茶。

窓から差す午後の太陽で、

逆光に切り取られた「先生」の影。

まぶしい光のせいで白衣が薄緑色に輝いて、

中学生のぼくには、なんだか天使に見えた。

白衣の天使、なんて、

うまく言ったものだと。

逆光にゆれる湯気と先生の影とをちらちら見ながら、

妙に納得したり。


保健室の先生は、怒るでもなく、

少しあきれたような感じでありながらも、
よき理解者(共犯者)のようにいたずらっぽく笑って、
「常連客」のぼくを迎えてくれる。


「紅茶飲んだら、教室に戻りなよ」



「だったら、ゆっくり飲もっ」



などと、生意気なことを言いつつ、

紅茶とクッキーを受け取り、
ベッドに腰をおろす。

言葉どおり、おじいちゃんのような速度で、

カメのごとく、紅茶をすすってみせる。

ひとつ笑って、

今度は露骨にあきれた顔をつくってみせた保健室の先生は
廊下をちらりとうかがって
ベッドを囲むカーテンをさぁーっと引くと、
また背もたれのない回転椅子に戻る。


カーテンを引いたベッドは、

廊下から中のようすが見えない。

保健室の先生は、

ひとりで机に向かっているふうに見える格好で座って、
最近どうなの、とか、
部活がんばってるの、とか、
まるで「お姉さん」みたいに
いろいろ話しかけてくれた。


あったかい紅茶を飲みながら、

少しだけ開けたカーテンのすきまから、
保健室の先生と話した時間。


ぼくら「劣等生」と、

まともに向き合ってくれる、数少ない「大人」。

そんな「大人」の言葉なら、素直に聞けた。


そんな「大人」の言葉だからこそ、素直に聞けた。



ぼくらの「逃げ場所」。


ぼくらの「隠れ家」。


ぼくらの大切な「憩いの場所」。




保健室と、保健室の先生。



ぼくにとって「保健室の先生」とは、

「女神」にも匹敵する、最大の賛辞のつもりでいた。



説明を聞いた友人は、


「そりゃあ分からんわ」



と苦笑い。



「おれのイメージだと、保健室の先生って、

 よぼよぼのおばあちゃんだもんな」



よぼよぼのおばあちゃん。



やばい。


保健室の先生というイメージが、

人によって、そんなに「ちがい」があるとは。

そんなあたりまえのことにすら気づかなかった自分にがく然とする




あわててメールにて「説明」をするも、時すでに遅し。



以来、あんなにたのしげだったメールは

日に日に業務的になり、
およそ事務的な内容のものしか送られてこなくなった、
というわけでした。









場面は変わって。
場所は、とある会議室。




学校関係の仕事の、学期末の会議。


話題は、あるひとりの生徒についてだった。




教務の方が、生徒ひとりひとりを個別に呼んで、

将来の進路について面談をしていたとき。


「それ」は起こったそうだ。




その生徒は、将来の希望は特になく、

就職なのか、アルバイトなのか、
それとも自分で何か活動していくのか、
はたまた進学なのか、
教務の方がいくら聞いても、
分からない、をくり返すばかりだったという。


押し問答のようなやりとりにしびれを切らせた教務の方が、

少しつよめに、どうするのかを問いただし、
結論をせまった。


すると、いきなりその生徒は、

石のように固まったまま、いっさい口を開かなくなり、
身動きもしなくなってしまったのだそうだ。


固まってしまった生徒を前に、

どうにもならなくなってしまった教務の方は、


「それじゃあ、5分経ったらまた戻ってくるから。

 それまでに考えておいてね」


いい? わかった? と、念を押しつつ、

押し黙ったままの生徒をひとり残して退室したのだという。






実際、その生徒のことは、

学期が始まる前にも、担当の先生から少し話を聞いていた。

担当の先生の話によると、

その生徒は「病気」らしかった。

精神的な「病気」で、



「病院からの診断も、ちゃんともらっている」



と。その先生はおっしゃっていた。


その先生は、兄弟に精神科で働くお医者さんがいるとのことで、

そういった病気に関しては博識があるらしかった。


学期前の会議では、



「この子とこの子は薬をもらってます。

 この子とこの子は、△△(病名)です」


なので、この子とこの子は、こういったことができません、

こういったことが苦手です、こういった特徴があります、
といったようなことを毎回、
事前情報として報告していただいていた。



ぼくは、医者でもなければ専門知識もないので、

病気のことは、よく分からない。


ぼくには、個性に感じられる、おもしろい一面でも、

そういうふうにはいかないらしい。


生徒をあずかる側としては、

そういった事実をきちんと把握しなければいけないのだ。


それが「先生」の役目だ。






進路の面談で、

石のように固まってしまった生徒。


たしかに、その生徒のことも

言っていたような気がする。


けれども、会話や、
やりとりなどで困るようなことは、
一度もなかったと思う。




その子は授業中、裸足でいることが多かった。


学校へくると靴と靴下を脱ぎ、

素足でぱたぱたと走り回っていた。

夏の暑さの残るある日。


校舎の外から戻ってきた生徒の足もとは、
やっぱり裸足だった。


「アスファルト、熱くないの?」



と聞くと、



「熱いけど、日かげは気持ちいい」



と、うれしそうに、白い歯を見せて笑っていた。




「帰るときは忘れず、靴履いていきなよ」



「はーい」



と元気に返事をすると、

スカートの裾をひるがえしながら、
くるくるとバレリーナのように回転してみせた。





教室の、その子の机の上には、

消臭剤が2つ、置いてあった。

最初に見たとき、

机の左右、2個で1対のように並ぶそれを、
スピーカーか何かだと思っていた。


消臭剤だと気づいたとき、

自分がくさいのかと思って、はっとした。

休憩時間に喫煙所でタバコを吸って教室へ戻ると、



「タバコくさい」



と、生徒にそれこそ「けむたがられた」ことがある。



そうでなくとも、

何か、匂っているのだったらどうしよう、と
心配になって、消臭剤を指差しながら、
その生徒に聞いてみた。


「これって、おれの授業だけ?」



生徒は首を横にふって、こう言った。



「ほかの授業でもです。においが、気になって」



「よかった。おれの授業だけだったらどうしようかと思った」



と、笑うぼくに、生徒は、



「いやな匂いがする人がいると、気になって授業に集中できなんです」



と言った。


それを聞いて、口を開こうとするぼくに、



「あ、先生は大丈夫です。先生は、匂わないです」



と、先回りに答えて笑顔を見せた。




消臭剤は、もちろん「無香」。



匂いに関しては、ぼくも少し分かるので、

生徒の言っていることにすごく共感できた。





その生徒は、写真に写ることを

すごく嫌がっていた。


卒業アルバム用の集合写真にさえ写ろうとせず、

机の陰にこっそり隠れていた。

ぼくは、それでいいと思っていた。


だから、写れとも思わないし、

靴を履け、とも思わなかった。




みんな「ちがう」のだから。

「おなじ」になれないこともある。


ぼくはその「ちがい」を大事にしたい。




そんなふうに思うのは、

ぼく自身も「ちがう」と言われてきたからなのかもしれない。




ぼくには、個性に感じられる、おもしろい一面でも、

そういうふうにはいかないらしい。


それが、集団生活、団体行動というものだ。






その生徒の靴のことは、
会議の中でも話題にあがっていた。


裸足で歩き回る生徒のことを、

会議でまじめに話している姿が印象的だったので、
そのときのことは、よく覚えている。


ただ、それのどこが問題なのかは、分からずにいた。






・・・ずいぶん話の枝葉が伸びてしまいましたが。



話は本筋に戻って。


進路相談の面談で、
石のように固まった生徒を残したまま、
教務の方が退室して。



5分経過したのち、教務の方がまた戻り、

部屋の扉をノックした。



「5分経ったよ。いい? 開けるよ?」




返事はない。




「いい? 開けるからね」




返事を待たず、ガチャリと扉を開ける。




教務の方の目の前には、

先と変わらぬ姿勢でじっと座った、生徒の姿があった。



ただひとつ。



先とちがうのは、
生徒が顔じゅうにぐるぐるとタオルを巻いていたことだ。



ミイラのごとくタオルを巻いて、

顔を覆い隠した生徒の姿。



「もう、すごくびっくりして。

 ああ、本当に怖かった。思い出しても身震いする」




きっと生徒も、怖かったんだと思う。


追いつめられてとった行動。


拒否。



それがたまたま「タオルを巻いて顔を覆う」という表現になっただけだと。

そんなふうに思うのだけれど。


言葉どおり、肩をすくめて、

恐怖の面持ちでその状況を話す教務の方に、
その場にいる全員がうんうんとうなずき、
恐怖と驚愕を共感しているようだった。



ぼくには、その「恐怖」がよく分からなかった。



どうしてみんなが肩をすくめ、
眉をひそめているのか、それが分からなかった。


理解はできても、共感ができなかった。







起こったことは、笑えないことだ。



けれど。



不謹慎だとは思うけれど、

想像したら、むしろ、ちょっとだけ滑稽(こっけい)で、
ほんの少し、おかしくもあった。


そんなふうに追い込むから起こったことだし、

ある意味、因果応報の結果なのだから。



それでも。


うなずくみんなの気持ちも、分かりたい。



もしかすると、

その状況を思い描けば「共感」できるかもしれない。


そう思ったぼくは、

ふるえ、おののく会議室の空気をかき分けるようにして、
ざわめきに割りこんだ。



「そのタオルって、何色だったんですか?」




タオルの色さえ分かれば、そのときの状況を
何となく頭に思い描くことができる。

そのときの状況を「再現」できれば、共感できるかもしれない。

そう思っての「質問」だったのだけれど。


『そのタオルって、何色だったんですか』


ぼくの発したそのひとことで、
会議室の空気が、一瞬にして凍りついた。


そのあとにつづいたのは、
永久凍土のような静寂だった。



おそらく。



『この人、この期におよんでタオルの色が何色か、なんて』


『よくもまあ、この状況でそんなこと聞けるわね。・・・ああ、怖い


『っていうか普通、そんなことを知りたがるかねぇ』


『そのタオル、何色だったんですか、って。まったくクレイジーだ・・・


『タオルの色? こいつ、バカじゃなかろうか』


『そんなこと、いま必要なの? タオルの色がいったい何だっていうの?』




そんなようなことを、

各々が思ったに違いない。


何かの合図でもあったかのように

いっせいにぼくに向けられた顔また顔には、
そんな疑問と懸念(けねん)の色がありありと浮かんでいた。


沈黙と静寂。



やばい。



とにかく、やばい。



一瞬にしていろいろ感じ取ったぼくは、

またしても「説明」が必要だと思い、
補足のために口火を切った。



「タオルが黄色だったり、リラックマの絵とかだったりしたら、

 またちがった感じに見えるじゃないですか」



「・・・・・」




そのあとにつづいたのは、

またしても、凍てつくばかりの静寂だった。




いや、そういうことじゃなくて。



色とか柄とか、そういうことが知りたいんじゃなくて。



言葉が、たりない。



もし、白いタオルだったら、

やっぱりちょっとは怖いって思うような気がするし、
ピンクとか赤でもまたちがった怖さを感じるかもしれないし、
黄緑とかだったらキャベツみたいに見えるから
またびっくりするかもしれないけど、
かわいいキャラクターのタオルだったらまた
ちがった感じに見えるかもしれないし。


いや、伝わらないな、こんな説明じゃ・・・。




何より、こんなことを思う「思考」にこそ、

「問題」があるのかもしれない。


みんなが感じた「恐怖」は、

おそらく「タオルを巻く」という行為自体にあって、
タオルが何色かなどはまったく問題にならない。

むしろ無関係と言ってもいい。




それは、分かっている。



分かってはいるのだけれど。



分かるのと、感じるのとは、ちがうことだ。



またしても瞬間的にいろいろ思っては消えていく思考に、

結局ぼくは、それ以上、言葉が見つからず、



「で、タオルは何色だったんですか?」




と、重ねて質問することしかできなかった。




どうせ「変なふうに」見られたのなら、

せめて「こたえ」だけは知りたいと。

そんなふうに思ったのだけれど。



たぶん、それがいちばん「まずかった」のだろう。


まったくもって、バカである。



恐怖体験を報告してくれた教務の方から返ってきたのは、

冷ややな視線と、無視、という反応だけでありました。





このことを友人に話すと、

友人は思いっきり笑ってくれた。


たしかに。



いったい何を言っているのか。

自分でも「はぁ?」と言いたくなる。



ぼくにとっては、

すごくおもしろい出来事だったのだけれども。

あの日の会議室と、そこに集まった人びとにとっては、

それを笑いに変えることができない状況だったに違いない。




それぞれ「自由に」話していたはずなのに。

ぼくの言葉を耳にした瞬間、
同じタイミングで静まり返り、
すべての顔が同じ反応速度で、
いっせいに同じ方向(ぼく)へと向けられた光景。


みんなちがう顔なのに、

みんなが同じようなことを感じて
同じ反応を見せた、一瞬の出来事。


困惑(または「きょとん」とした)の大勢対、ぼくの構図。



その光景は、

いま思い出しても笑ってしまう。



現時点のぼくは、

この状況を文章で表現しきれるほどの言葉を持っていない。

はたして、みなさんには笑っていただけたでしょうか。





「保健室の先生」





「タオルは何色だったんですか」







きっとぼくの言葉は、まだまだ未熟なのだと思う。



いや、言葉というより。

ぼく自身がまだまだ未熟なのだと思う。



うんこもみそも同じにしてしまうような、

幼稚な発想しか持たないぼくには、
大人の世界で通用するような言葉は
まだまだ到底、習得し得ないのだろう。



機会があれば、もう一度聞きたい。



結局のところ、タオルは何色だったんですか、と。








< 今日の言葉 >



裏返ったパンツを両手でひっくり返して、

「表」にしたはずがまた「裏」だったとき、
四次元とつながった気がした。

(脱ぎ散らかしたパンツがよじれて「8の字」になっていたせいで起こった『メビウスの輪』現象)