2020/06/01

ぼくのファッション遍歴 〜激動編〜













<<< 前回のあらすじ >>>






「この車両の中でいちばん



 かっこいい存在になってやる」







そう心に誓った、16歳の家原利明。






おしゃれとは何か。


ファッションとは何か。



答えなき答えを追い求めて、

流行という名の荒野を

匍匐(ほふく)前進する日々が、

いま、始まった・・・












☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ★












高校生活が、終わろうとしている。




大学進学ではなく、


専門学校へと進路を決めた家原は、


もてあました時間を遊びや読書、


買い物などに費やした。




画集や写真集を見て、絵を描き。


レコードやCDを聞いて、本を読んだ。




大学受験をひかえた友人たちは、


みな忙しく、遊び相手になりそうもない。



カワイコちゃんと
デートばかりもしていられないので、


ひとりの時間をすごすこともふえた。




特技というのか。



ひまな時間を燃やす才能に長けた家原は、


毎日、飽くこともなく、


膨大につづく白紙の時間を、


わくわくとときめく色で塗りつぶしていった。



その時期、たくさんの映画を観た。


たくさんの図書を、手に取った。



絵を描き、音楽を聴き、お菓子を食べて。


ひとりの時間を彩っていった。



ひとり、街をぶらついて、


買い物や立ち読み、


美術鑑賞などにも時間を費やした。











そのころの髪型は、


60年代、モッズのつもりの


マッシュルーム・カット。



ややオレンジ色にしていたものの、

卒業をひかえた身分のためか、

先生方も、たいして何も言わなかった。



高校卒業。



50CCの免許を取得して、


銀色のベスパを買った。




そして、専門学校へ。



デザイン学校の建築学科であります。










登校第1日目。



ファイヤー・パターンをペイントした


ランドセルで登校した。



ランドセルは、小学校当時のもの。



髪型は、きのこみたいな


マッシュルーム・カット。




いまにして思えば、


これも「恥部」のひとつである。








縮んだバネが、


反撥(はんぱつ)するかのように。




「枠」から解き放たれた家原は、


天井のない空の下で、


「自由」を謳歌(おうか)しはじめた。



きのこカットの髪の毛は、


やがて短く切り刻まれ、金色になり、


秋を迎えると、


紅葉とともに、あざやかな朱色に染まった。










服装は、古着からしだいに、


独自の、というか、


創意に満ちた「いかれた格好」へと移行した。




それというのも。




おなじクラスの男子生徒が、


ぼくの格好を見るなり、



「それ、どこで買ったの?」



と、聞いてくるようになって。



すなおに、ばか正直に答えると、


彼は「へぇ、そうなんだ」とうなずいた。



すると翌日、


彼は、前日のぼくの服装と、


よく似た格好で登校してきた。



「ななな!」



と、
のけぞったぼくは、


最初こそ沈黙していたものの。



それが2度3度とつづくと、


さすがに「むむむ!」となり、


当人にそのことを指摘した。




「え? マネなんかしてないよ。


 ぼくもほしいなって思ったから買ってきただけだよ」



そのやりとりが、


2、3度はくり返された。



やがては、そのやりとりもなく、


ただただ「コピー」されるようになった。



いまいちど、彼に向き合う。



「マネじゃないって。


 ちょうどほしかっただけだよ」




あっけらかんとそう答える彼に、


当時の家原は、それ以上追求するでもなく、


やがてあきれて、相手にすることをやめた。



ハイ・ティーンとは思えないその返答に、


もはや、二の句も浮かばなかった。



映画『ルームメイト』さながらに、


日を追うごとにそっくりになっていくそのさまは、


恐怖や怒りというより、


乾いた苦笑に近い感情を呼んだ。



いまにして思えば、


よくぞまあ、短時間でそこまで忠実に、


と感心せずにはいられない。









そう。



彼のせいで、というのか、


彼のおかげで、というのか。



当時の家原は、


真似されないような格好を、と、


あらぬ方向へと必死で舵(かじ)を切りはじめ、


どんどんおかしな格好へとエスカレートしていった。










白地に紺のリブ、


体操服のような、襟袖の色がちがうアメリカ製の古着と。


目も覚めるようなグリーン色の、


アメリカン・フットボールの
ズボン(ユニフォーム)を履いて、


足元にはえんじ色の、


ドクター・マーチンの編み上げブーツを履いたり。




黒い、軍隊の制帽をかぶり、


黒革のダブルのライダース・ジャケットを羽織って、


オレンジ色のベルボトムを履いてみたり。



赤、黄、オレンジ、


カラフルな暖色のファーのコートに、


真っ赤な革のズボンを履いたり。




グレー系のタータンチェックのスカートに、


黒いレッド・ウイングのエンジニア・ブーツを履いて、


黒い革のライダース・ジャケットを着て、


首にはこげ茶色の、サガミ・フォックスの毛皮を巻いてみたり。



逃亡、とでも言おうか。



もはや、ジャンルも手本も不明な、


謎ファッションの大海へと漂流していった。










自宅の最寄り駅は、


高校の生徒が登下校に使っていたのだが。



朝、駅に向かうと、


その高校生たちからの
嘲笑や視線などとともに、


「ほら」とか「来たっ」とかいう声を浴びた。




そんな、朝の、


高校生たちの人の波。



好奇と野次の束。



登校のピークとちょうど時間が重なって、


切れることのない、


何十から百にも届く人波をかき分けながら、


背筋を伸ばして、優雅に歩く。



自信を持って、威風堂々。



朝の試練。



ホームで電車を待つときも、


めずらしい生き物にでもなったかのように、


電車から吐き出された高校生たちの視線を、


一挙に浴びる。



こるなるともう、


彼らは観衆だった。



たった1歳から3歳くらいしかちがわぬ、


正直で無遠慮な観衆。



彼らの反応が、


そのまま自分の指標だった。




イカレ路線へと舵を切った当時の家原には、


賛同より、「戸惑い」こそが糧(かて)となった。










キャバレーのカーテンみたいな、


バラ模様の、黒とゴールドのベルボトム。



金色の革の、ダブルのライダース・ジャケット。



左右色のちがう靴や、


表裏反対に履いたズボン。




スカートも、婦人物のラメの服も、


さしてめずらしくもない気持ちで、


ごくあたりまえに着るようになって。



いつのまにやら、


先述のミスター・マネ氏も、


ひっそり影をひそめていた。










かっこいいとか悪いとか、そんなことより。


真似されたくないという気持ち。



エスカレートした自分に、はたと気づいて。




「誰かを意識する」とか、


「何かを意識する」とか。



それを避けることも、


真似と同じくらいかっこ悪いことだと、


そのとき、少しだけ思った。




これが家原利明、


「暴走の時代」であります。







☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ★ ★













そしてそれも、


ゆるやかな曲線で鎮火して。




家原利明「パンクの時代」突入です。



このときは、分かりやすく、


セディショナリーズの服を買いあさり、


「お手本」そのままの格好もした。



ボンデージ・パンツやガーゼシャツ、


パラシュート・ジャケットにラバー・ソール。



髪は、色を抜いて、自分で切って、


整髪料でぼさぼさに逆立てた。




そこに、


古着や古服を組み合わせたり、


やぶったり、ピンで留めたり、


スプレーでペイントしたりした服を


混ぜ合わせたりした。











音楽も、分かりやすく、


セックス・ピストルズにはじまり、


ザ・クラッシュ、ザ・ダムド、シャム69、


ラモーンズ、ニューヨークドールズ、


スージー・アンド・ザ・バンシーズ、


ジェネレーションXなど。



70年代の「パンク」と呼ばれる音楽を軸に、


さかのぼったり、先を追ったり、


横に広げたりしてみた。































この時期、

一部で流行したパンク・ファッション。



それに「乗っかった」ことは、


少々恥ずかしくもありつつ、


これはこれで重要な時期でもあった。







専門学校時代。





このころ流入してきた情報、

刺激の量は膨大で、めまぐるしく、


それでいて、


渇いた海綿が水を飲み干すように、


あらゆるものをむさぼり、


底なしに吸収していった。





映画、音楽、ファッション。



分かちあえる仲間。


交換できる友人。



いままでは「マニアック」だとか、


「少数派」だとかで、


人から共感を得たり、


理解してもらえたりはしなかったこと。



それが、分かち合えた。


話せる相手がそこかしこにいた。



いっしょに深められる、仲間がいた。










パトリス・ルコント、ルイ・マル、


スタンリー・キューブリック、


ルネ・ラルー、
ヤン・シュヴァンクマイエル。



ル・コルビュジェ、アルヴァ・アアルト、


アントニオ・ガウディ、安藤忠雄。



横尾忠則、赤瀬川原平、寺山修司、


三島由紀夫、沼正三、アレン・ギンズバーグ。



補色、黄金比、パースペクティブ。



セルビッチ、尿素ボタン、ミル・スペック。


ワイズ、アンダーカバー、コム・デ・ギャルソン。



ローラーブレード、スケボー、スノー・ボード。



アブダクション、テルミン、『スクワーム』・・・。




校舎の片すみ。


空が赤く燃えたち、


紺碧からやがて漆黒に染まっても。



くだらないことを延々と、


真剣にいつまでも語り合った。



場所を喫茶店や


ハンバーガー・ショップに移して、


1杯のコーヒーで
何時間もすごした。










かの有名な、毛沢東の言葉。


(「けざわひがし」ではなく、「もうたくとう」と読みます)



「有名になるための3つの条件は、


 若く、貧しく、無名であること」



そのころ、何かの本で読んだ。




若く、貧しく、無名であること。




当時のぼくらには、


もてあました時間以外に、


それだけはあった。





とにかく、なりたかった。



何者かに、なりたかった。



まだ、何になりたいかも分からなかったのだが。



とにかく、何者かに、


早くなりたかった。







☆ ☆ ☆ ☆ ★ ★ ★













ファッションに、着やすさなど求めてはいない。

衣服というものは、窮屈(きゅうくつ)であたりまえである、


と、ビビアン・ウエストウッド氏が言っておられた。



かつて大和撫子(やまとなでしこ)が、


何時間もかけて髪を結ったように。



当時の家原も、


おしゃれのために、


毎日早起きした。





シャワーを浴び、


前の晩に用意した服を着て、


鏡の前でたしかめる。



思ったよりも、


シャツの丈が長く、


上着の裾からのぞく幅が気になる。



別のシャツに替えて。


よし、いい感じだ。



最後に髪をセットする。




毎日が本番だった。












パンク・ファッションから再び古着へ。



古着の深淵(しんえん)。



家原利明、


「ビンテージの時代」到来であります。




このころは、


50年代から40年代へとさかのぼり、


できるだけ状態のいい、


当時のものをいろいろ探しまわった。




あのころはまだ、


古着も豊富で、


世の中的にも追い風だった。



県内をはじめ、


周辺都市にも名店があり、


大阪や東京へ行った際にも、


いろいろ見て回った。




専門学校の先輩たち、


お店で働くお兄さん、お姉さん。



とにかく、


先輩たちがかっこいい時代だった。









ワークシャツ、ベイカーパンツ、


ボウリングシャツ、チノパン、


アロハシャツ、カウチンセーター、


カバーオール。




高校時代も「MADE  IN  USA」に


こだわっていた時期はあったが。



このころは、年代へのこだわりがあった。




数年のちに、


かつて買った服を引っ張り出して着ていて、


言われた。




「こんなゴミみたいな布に、

 よくもまあお金が出せるもんだ」



その人は、ブランド物を愛する人だった。



価値観。



当時、そんな言葉で片づけた。




けれども思う。



そんなことも、あったと思う。




わけも分からぬまま、


年代だけで、


ゴミみたいな布にお金を出した、


そんなことも。







☆ ☆ ☆ ★ ★ ★ ★









19歳。


初めての海外。




ヨーロッパ旅行。


フランス、イタリア、スイス。




わずか2週間ほどの旅路だったが。


このときの体験は、すごく大きい。




家原利明、


「極端から極端へ」の時代への


転機であります。








ヨーロッパへ行く際には、


最低限の服しか持たなかった。



あとは現地で買えばいい。


そう思ったからだ。



白い、ヘンリー・ネックのTシャツに、


お気に入りの、


米海軍のユーティリティー・ジャケットを着て、


やぶれたジーンズを履いて。


靴は、鉄板入りの編み上げブーツ。




寒かったので、フランスでジャケットを買い。


イタリアでジーンズを買って、


代わりにやぶれたジーンズを捨てた。










パリ、ミラノ。



街に出て、行き交う男女や、


噴水前のベンチで座る若者たちに、


つたない言葉で聞いてみた。




おすすめの、


おしゃれなお店はどこですか、と。




何人かに聞いてみて、


複数名から挙がったそのお店へ、


道を尋ねながら行ってみる。



すると、分かる。



その街のことが。



流行だとか、センスとか。




そのお店を見る。


品ぞろえ。価格。



お店の人と、話してみる。



そして買う。




たのしく、


いいお店がたくさんあった。










けれども、いなかった。




パリ。



エッフェル塔の前にも、


凱旋門の前にも、


ノートルダムの坂の辺りにも。



いなかった。



雑誌や映像などで見た、


パリジェンヌが。









イタリアにも、いなかった。



ドゥオーモのそばのアーケードにも、


ジェノバの路地裏にも、


ホテル・トスカーナの近くのピザ・ハットにも。




雑誌や映画で見るような、


スタイリッシュな若者は、


どこにもいなかった。









たまたまぼくが歩いた界隈(かいわい)が


そうだったのかもしれないが。




いたのは、


何年着つづけたのか分からない革ジャンを羽織った女の子や、


どこの物なのか分からないようなセーターを着た男の子ばかり。



大半の若者が、


おしゃれとかそういう見地から離れた、


そんな服装だった。



モヒカンで、


パンク・ファッションの若者もいたが、


その革ジャンも、くたびれてやつれて、


書きなぐったようならくがきがいっぱいだった。




余談になるが。



9月のヨーロッパの、


乾いた気候のせいだろう。



革ジャンの女の子と、


タンクトップの男の子が肩を組んで歩いていたりする姿が、


なぜだか自由な感じがして、すごくよかった。









とにかく、


パリジェンヌもイタリアンナもいなかった。


(そしてスイスには、


 ペーターやハイジのような人もいなかった)



いたのは、


おじさんみたいな格好で、


質実剛健な感じの、


けっしてきらびやかには見えない若者たちだった。



当時のぼくには、


そのことが衝撃だった。




テレビや雑誌ばかり見ていたぼくには、


少なからず、文化的衝撃(カルチャー・ショック)だった。




彼らは、それでいてすごくかっこよかった。




自由で、堂々としていて、


屈託がなくて、たのしげだった。




そして、誰ひとりとして


おなじ服を着ていない。



そんなふうにも見えた。









彼らの服装には、


時代も流行も関係なく、


物を大切にする精神が宿っている。



だから、


服のほうが、彼らに寄り添い、


服がぴったりと似合っている。



そんなふうにも感じた。





おなじ服を、着つづけるということ。





当時のぼくには、


目から鱗(うろこ)、


耳から鼻毛のような見聞だった。




それは、


大きな収穫だった。





帰国後、ばかな家原は、


異国での見聞をさっそく取り入れた。




「ようし、この1年間、


 おなじ服を着つづけるぞ」




まったく極端でばかな、家原であります。









上は、ヘインズの白いTシャツに、


オリーブ色で薄手の、米軍ヘリクルー・シャツ。


下は、ビンテージの復刻デニム。


靴は、黒のコンバース、ロー・カット。




さすがに冬は寒くて、


紺と白のボーダー柄の、


旧西ドイツ軍の薄手のセーターを足して、


上着を、ヨーロッパにも着て行った、


米海軍のユーティリティー・ジャケットに替えたが。




ミスター・極端の家原は、


一度も洗わずに、


毎日、おなじ服を着て学校に行きました。



マンガの登場人物のように、


いつ見ても、おなじ服装で。









当時のぼくは3年生で、


家具を専攻していた。



カンナやノミをふるって、


毎日、汗まみれの木くずだらけだった。




朝、シャワーを浴びてきれいになった体で、


まるで洗っていない、汚れた服に手足を通す。



もちろん、下着とシャツは毎日替えていたが。


「古着」での「慣れ」というものは恐ろしく、


「洗う」という感覚が、


鈍く、麻痺してしまっていたのかもしれない。



においについては、不思議なことに、


これといって(自他ともに)におわなかった。



(ちなみに。これは個人的な反応かもしれないが、

 洗っていないズボンを毎日履いているときはいいのだが、
 洗っていないズボンを何週間か放置したものを履くと、
 素肌が直接当たる、
 太ももなどのやわらかい部分が痒くなることがあるのでご注意を)








秋ごろだったか。



靴の先が、無人島帰りみたいに、


ぱかっと口を開けた。



仕方なく、


ガムテープてぐるりと巻いた。



リノリウムの床や駅構内では、


大変すべりやすく、危険だった。





何かにひっかけて、


セーターが穴を空けるたび、


母にせっせと縫ってもらった。



ふだん目立たなかった白い糸は、


ブラックライトの下だと青白く発光して、


縫った箇所がすぐに分かった。










秋がすぎ、冬が終わり、


やがて春がきて。



卒業式には、


その格好に、ネクタイだけ巻いた。




えんじ色に、


オレンジで鳳凰(ほうおう)が描かれた、


1940年代のネクタイだ。










学生生活が終わって。



汗まみれで、


汚れにまみれたズボン。


1年間(以上)洗わなかったジーンズを、


洗ってみることにした。




ありがとうと、


おつかれさまの気持ちを込めて。




洗い終わった洗濯機をのぞいて、


わが目を疑った。




ズボンが、ない。




あるにはあったが、


その形が、なくなっていたのだ。




洗いあがったその姿は、


ズボンの原形をとどめておらず、


まるでネス湖で釣り上げられた


「ネッシー」のようだとしか


形容しがたい姿に変わり果てていた。





洗わなすぎて、


縦糸が弱っていたらしい。




ビンテージばかりを着ていたおかげで、


分からなくなっていた。




洗わなさすぎるのもよくない、と。



そのとき、身をもって学習した。



くわえて、


毎日、着つづけすぎるのも、


よくないと。







☆ ☆ ★ ★ ★ ★ ★











専門学校を卒業して、


社会人1年生。



こんな家原にも、


社会に出て会社人になった時代がある。




背広にネクタイ、という服装は、


首の太いぼくには


いささか窮屈だった。



私服で勤務できる職業。



数ある職業の中で、


いろいろな巡り合わせもあって、


ディスプレイ制作会社の「デザイナー」として


会社に勤務する機会に恵まれた。




(関連記述:『除霊アシスタント』


      『甘くて苦いお話』










4月。



入社から、


やや落ち着いたころのこと。



自分の席について、


コーヒーを飲んでいたときだった。



「おまえよぉ」



声にふり向くと、


営業課の課長がいた。



「おまえ、その服、


 どこで買っとるんだ?」



どこ、と決まった場所があるわけでもないが。


ぼくは、自分が行くお店や場所を、


愚直に答えた。




そのときのぼくは、


オレンジと赤と白の、厚手でやわらかな生地の、


70年代のアロハ・シャツを着て、


濃い色のデニムを履いていた。


靴は、黒のオールスター・ローカットだ。



「おまえ、そのシャツはなんだ?


 アロハか?」



「はい、アロハです」



MADE  IN  HAWAIIの、


「本物」の、ハワイアン・シャツ(アロハ)だった。



「おまえさぁ、そんなんで現場行ったら、


 チンピラの兄ちゃんかなんかが来たと思われるぞ」



白いワイシャツに、


ストライプのネクタイを締めた課長は、


さらにつづけた。



「アロハシャツなんて。


 ハワイじゃないんだぞ、ここは」



課長が苦笑いする。



「あのなぁ、ポロシャツは、


 ゴルフなんかでも正装として認められとるんだけどな。


 アロハシャツはなぁ・・・・」




アロハシャツもハワイの正装ですよ、と。


そう喉元まで出かかったが。



あぶないあぶない・・・。



このタイミングでこういうことは言うのはよくないことだと、


社会人1年生を自覚する家原には、


かろうじてわきまえられたのであった。









そう。


ここは、ハワイではない。


日本の、会社の、事務所の中だ。




課長のおっしゃることは、


もっともだった。



ましてや、営業課の課長である。


世間一般の常識には、敏感なはずだ。





ちなみに、言い遅れたが。



面接には、唯一、と言っていい、

ぼくの有する背広の上下セット、


1940年代のダブルのスーツを着用して行った。



19歳のころ、


成人式のために買ったもので、


コバルトブルーの背広に、


クリーム色のシャツを着て、


えんじ色のネクタイ(専門学校の卒業式で着用したもの)を締め、


赤みがかった茶色の革靴を履いて、


髪はびしっと後ろに撫でつけた、オールバック・ヘア。


(成人式には、襟が毛皮のコートを羽織った)



靴も服もコートも、


すべて、1940年代、当時のものだ。




そんな、モダン・ジャズ時代の


メリケン人のようないでたちで面接した末、


晴れて採用していただいた、と。



こういう次第であった。











・・・話は戻って。




課長がぼくの肩を叩いて、こう言った。



「よし、これから買いに行こう。


 おれが買ってやる、行くぞ」




突然、課長と買い物に出かけることになった家原は、


社用車の助手席にゆられて、


会社からほど近い、紳士服店に到着した。




店内で見繕(みつくろ)うこと数十分。


ポロシャツに限定しているためか、


ぴったりくるものが、なかなか見つからない。



「おい、まだか?」



こちらとしても、


買ってもらうのだから、


適当には選べない。




「これはどうだ?」



「うーん、その色は着ないです」



「じゃあ、これはどうだ?」



「襟のデザインが、好きじゃないです」




そんなやり取りの末。




「よし、分かった。


 週末に、自分で行って買ってこい




ということになり。



自分の足で何軒ものお店をめぐり、


自分の財布からお金を出して、


1週間分(月から金の5着)の
ポロシャツを


探し回って選んで買ってきた。










月曜日。



ぼくの姿を見るなり、


課長が言った。




「おまえぇ、


 どこでそんな服買ってくるんだぁ・・・」



その声は、


がっかりしたような、


あきれたような、


あきらかに渋い色を示していた。









その日に着て行ったのは、


白襟で、


クリーム色地に、


細い茶色のボーダーの、


ポロシャツだった。



「おまえ、どこのやつだ、それ、


 そんな変なポロシャツはぁ」



「ラコステです」



左の胸に、ワニのアップリケが付いた、


正真正銘のラコステのポロシャツ。



ただ、1970年代の古着だった。



「そんなラコステ、


 どこで見つけてくるんだぁ」




断言しよう。



わざとじゃあ、なかった。


当時のぼくは、真剣だった。



「どうしてそんなことになるんだ」



課長が顔をしかめる。



これが不可なら、


とてもじゃないけれど、


明日からのポロシャツは


もっとだめな気がした。



ラコステでもワニでもなく、


赤いトラが、


左を向いて駆け出している、


『ラ・タイガー』のポロシャツ。



色は黒で地味だが、


それですら、なんだか自信がなくなってきた。



何を着ても、


だめな気がした。



もう、何が何だか、


よく分からなかった。









課長にしても、


おなじようすだった。




もう、分からん。


知らん。



そんな態度が、


言葉のはしばしに感じられた。




いまふり返ってみると。



それは、ちょんまげのお侍さんが、


ポルトガルからやってきた


ふりふりの襟でタイツを履いたような格好の相手に


あれこれ首をかしげて疑問を投げかけているような。



それくらいの齟齬(そご)があった。




「ムズカシデスネェ、


 ジェポネェスノルールワ」




わがジャポネースの規則。



いまならもう少し、


分かるのだろうか。









・・・それはさておき。



天井のない、自由な環境で


羽目をはずしてきた家原には、


それくらい、大きなずれがあった。





そんなこんなで。



転職。




こんどは、


広告代理店に雇ってもらえた。




コピーライター。



たまの取材をのぞいて、


ほとんどの時間が内勤だったので、


働く服装は自由だった。




当時の家原は、


まとまったお金を手にして、


食事や旅行をはじめ、


お買い物も謳歌(おうか)した。



(関連記述:『Aさんはスナイパー』




古着やこれまでの服装から、


しだいに黒っぽい服装になった。



家原利明「黒の時代」です。









黒、白、グレーのモノトーン。



買いに行くお店もがらりと変わり、


これまでにくらべて、


こぎれいな服装がふえていった。




Tシャツ、シャツ、ズボン、靴。



買うもの、着るものに大差はないが、


それぞれの単価がぐっと上がった。




「会社」から「社会」へ。




代理店の仕事では、


取材や勉強会などで、


会社の外の「社会」をのぞいた。









大きな会社の社長さんとか、


有名な広告を作ったクリエイターの人とか。


町工場の経営者さんとか、


きれいなお店で働くお姉さんとか。



多種多様、多岐にわたって、


いろいろな人と接する機会があった。




そのときぼくは、


ようやく「社会に出ている」気がした。




それもあってか。



少しは人目を、


気にするようになった。









20代の若造ゆえの、


意気がり。



なめられたくない。


軽く見られたくない。



少しばかり背伸びをして、


そんな「かっこよさ」を求めていたのかもしれない。




それはちょうど、


中学生ころの背伸びに、


よく似た匂いがする。











26歳のとき。



誕生日に、


オメガ・スピードマスターを買った。



支払いのあと、


分厚かった財布がぺらぺらにやせたとき、


お尻のポケットがやけにすずしく感じた。




小さなころから、


いつかほしいと思っていた時計。



大阪のおじいちゃんが、


「オメガの時計はいい時計やで」


と言っていたこともあって、


ずっとほしいと思っていたのだ。




手巻きのオメガ・スピードマスター。



宇宙世紀にそなえて、


オートマチックじゃなくて、手巻きにした。




この時計とは、

もう、かれこれ


二十年の付き合いになる。








黒の時代。



冬には全身黒い革のかたまりになることもあったし、


1日で給料の半分ほどの買い物をすることもあった。




黒の時代は同時に、


「消費の時代」でもあった。



衣、食、遊。



朝から夜まで働いて稼いだ分、


出るほうも少なくなかった。



見栄えのいい服、


初めて食べるもの、


行ったことのない場所。



寝る間を削って働いて、


寝る間も惜しん遊び回った。




専門学校で得た「自由」とは


また別の種類の「自由」。




まるで無駄の多い消費の時代ではあるが。



その無駄は、


いまの自分の血肉になっている。










1年ほど、


仕事を小休止したとき、


アメリカへ行った。



シアトル周辺、


ポートランドやオリンピア。



別の機会に、


ニューヨークへも行った。



カナダ、トロントにも滞在した。











遠い異国の地で、


デザインや物づくりの仕事をする人の生活や、


さまざまなアーティストの暮らしを見た。



モデスト・マウスの


アイザックの家にも泊まらせてもらった。



レコード会社に行って、


レコーディングも体験した。



服や食べ物、文化や暮らし。



もちろん、レコード屋にも古着屋にも行った。








現地の、


いろいろな人の家に泊めてもらって。



旅行ではなく、


生の「生活」を体験できた。




これらの体験も、


すごく大きな栄養になっている。





(関連記述:『ダッチドリーム けっしてとけない甘い魔法』 


      『ある日の日記 〜ダンとの思い出〜』


      『雨のエンパイア』







☆ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 










そんな栄華の時代も長くはなくて。



会社を辞めて、


長い、トンネルに入った。




貧しい時代。




冬の時代、とでも言いましょうか。




ふりだしに戻って、


暗中模索の時代。




業務用バリカンを買って。



坊主。


マルガリータ。



中学生のころ、


あんなに抗っていたはずなのに。



してみると、案外評判よくて、


自分でも似合うと思っていた。








混迷の時代。


困惑の時代。



ファッションのことではなく、


自分の、将来や仕事のことで、


大いに迷い、困惑していた時代である。




それでも、


おしゃれはしたい。



だって、男のコですもの。








そのころ、古着というものが、


ビンテージという色合いより、


リサイクルという毛色がつよくなりはじめていた。




いろいろなものが雑多に置かれる、


リサイクル・ショップ。




知識も何もないけれど。


これまでたくさん見てきた経験だけはある。




いいものは、


いいとすぐに分かる。



自分に似合うもの、

自分が好きなものは、


自分がいちばん分かっている。



値段や情報よりも、直感。


感覚が、


何より頼りになった。





家原利明、


「マダム時代」の幕開けであります。








そんなころ。




アダルト・ショップの販売員を経て、


専門学校の、非常勤講師に。



(関連記述:『アダルトな日々』



髪型は、


坊主からアフロヘアに。




坊主頭から毛髪を伸ばしながら、


じょじょに巻いていって。



途中パンチ・パーマ期をはさみつつ、


どんどん大きくふくらませてできた


アフロヘア。



最大期には、


身長2メートルをゆうに超える


大男と化した。



そしてまたしても、


好奇の対象となる。



いまにして思えば、


生のアフロヘアを見る機会など、


そうそうめったにないのだから。



いたしかたないことである。



(関連記述:『髪型』








三十路に入って。



むかしから、


軍物と作業服が好きではあったが。



一見して、それと分からぬような、


いろいろな国の軍隊の服をはじめ、


日本の、ごくふつうの作業服なども


着るようになった。




鯉口シャツ、地下足袋、


超超ロング、3超ロング、乗馬ズボン。



軍物と作業服との密接な関係。




性別や年齢の垣根を越えて。



おばちゃんの服(婦人服)も、

着るようになった。










この出会いは、


まったく「女物のトレーナーとの出会い」(※前編参照)と


おなじくらい、大きな革命だった。





「これぞ自分の探していた世界だ」




と。



そう断言してもいいくらい、


おばちゃんたちの服には、


ロマンとメルヘンがあった。




暑くて寒い、


ポリエステルのシャツ。



季節に対して、


何の戦力にもならないが。


そこには、ロマンとメルヘンがある。




てろんてろんの、


アセテート混のシャツは、


首元がはだけて、


やたらとセクシーになる。



そのシルエットには、


ロマンとメルヘンが混在している。









男性ものにはない色づかいと、


大胆な構図の柄。



それはまさしく、


ロマンとメルヘンの鬼ごっこだ。




安直と意外性。



マダムの服は、


ロマンとメルヘンのミルクティーだ。





小学5年生の、


あの日の出会い。




すべてはここに、つながっていた。








★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 















かっこいいと思えば、


婦人服だろうが、スカートだろうが、


柔道着だろうが、消防服だろうが、


何だって着る。




あれから30年ほど経って。




ようやくにして、分かったのだろうか。


ようやくにして、なれたのだろうか。




ほかの誰でもなく、自分自身に。




そんなかっこいいことを、


言えるようになったことだけは、


たしかなようだ。





かっこいいということ。


似合う、ということ。




着たい服と、


似合う服はちがう。






16歳のときに買った、米軍のカーゴ・パンツ。


18歳のときに買った、レッド・ウイングのエンジニア・ブーツ。


22歳のときに買った、デニムのブッシュ・パンツ。


26歳のときに買った、オメガ・スピードマスター。


35歳のときに買った、サンローランの蝶々模様のシャツ。


44歳のときに買った、ご婦人物のガラガラスパッツ。




たとえその値段が、


3桁であっても、6桁であっても。



ぼくにとっては、


どれもたいせつなものだ。




大事にする、ということの


片鱗(へんりん)は分かったのだろうか。




ファッションという肌。



洋服という外皮。




いくら層を重ねても、


バームクーヘンのようでは、


誰も食えへん。




そんなおもしろいことが、


言えるようになったことだけは、


たしかなようだ。










裸の王様は、

見えない服を着てよろこんでいる。



それもいい。



本人がそれで満足しているのだから。



裸なのを指摘する、


愚直な少年もまたよし。



彼は「選ぶ」ということを、


知ったのだから。





どう見られたいか、ではなく、


どう在るべきか。




いろいろな言葉が去来する。




「 
ファッションって、つまり、


 心の鏡、なんですよね」


(『
The fashion is mirror for your mind.』 by  iehara toshiaki.




いつまでも、曇りなき鏡でいたいから。



ぼくは、おしゃれという、無駄が大好きだ。





センス、とは。




自分がいいと思うものを、


まっすぐに「いい」と言えること。




それが、センスというものなのだと。



そう思うのでありました。









fin.







< 今日の言葉 >



「おしゃれ おしゃれ アハンハン


 おしゃれめさるな おしゃれめさるな!」



(『魔法の妖精ペルシャ』オープニングテーマ曲(後期)/「おしゃれめさるな」)



★『魔法の妖精ペルシャ』・・・アフリカで育った野生の少女・速水ペルシャは、異世界ラブリー・ドリームの妖精の女王フェアリから魔法のバトンを託され愛のエネルギーを集める使命を帯びる。ペルシャは魔法の力で様々な職業の女性に変身し活躍していく。変身魔法の呪文は「パプリコ、ペルッコラブリンクルクルリンクル」。