2015/02/22

KI・MO・CHI 〜「気持ち」ってだいじ!













気持ち。


それは、目に見えないもの。

形があるようで、形のないもの。



そのくせ

とがったり、まるくなったり、

うすくなったり、大きくなったり、

軽くなったり、重たくなったり。



気持ち。



よかったり、わるかったり、

すきとおったり、にごったり。


くらい、あかるい。

きらきら、どんより。



気持ちに色はないはずなのに、

そのときどきで、いろんな色に染まる。



かんたんで、むずかしくて、

単純で、複雑な、気持ち。



見えないからこそ、

見えるようにするのはむずかしい。

見えないからこそ、

見えないようにするのがむずかしい。



気持ち。


KI・MO・CHI。


feeling(フィーリング)。




・・・いきなり気持ちわるい感じの冒頭ではありますが。




気持ちをどう表すのか、

気持ちをどう表現するのか、

気持ちをどう伝えるのか。



その人がいま、

どんな気持ちなのか、

どんな気持ちでそれをするのか。



毎時毎秒、そんなことを考えているわけじゃあないけど。


目に見えないはずの「気持ち」というものを、

目の当たりにする瞬間は、たびたびある。










2月の、雪の降る夜。

友人とコンサートに行った。



その日の午後、

友人と開演時間よりもかなり早く待ち合わせていたので、

ふたりでコーヒーを飲みに行った。


その友人は料理人で、

ぼくは彼をすごく尊敬している。



会うといつも、

おたがいの近況を話す、というより、

最近、自分が思うこと、感じることを話し合うのが常だ。


それがとても刺激になるし、すごく共感できる。




形のないものを追い求め、

止まることなく追いつづける料理人。


分野は違えど、

ぼくはその姿にいつも感服し、

その背中をずっと追いつづけている。



そういった意味でも、

価値観や思考、方向性を分かち合い、

共感し、信頼できる存在なのだ。




その日もまた、

コーヒー1杯で(女子?)中高生のように

たっぷりと語らっていた。




店を出ると、外は雪。

気づくともう真っ暗だった。



ヘッドライトに照らされる白い雪。


車を降りると、

雪の舞う中、肩をいからせ、

コンサート会場へと駆け込んだ。




すごく立派なコンサートホールだった。


舞台の背面には巨大なパイプオルガンがあり、

そのうえでは3人の白い天使がラッパを吹いていた。


漆黒のグランドピアノが小さく見えるほど、

大きくて広くて天井の高い、立派な舞台だった。













共通の知人のコンサート。



会場の雰囲気に少しばかり緊張しながら、

ぼくらは最前列の席に着いた。



コンサート、開演。



ぼくらふたりは、

最前列でその唄声を浴びた。



演奏が終わって。



横を見ると、

きらきらした目の友人が、満足そうにうなずき、

微笑んでいた。


きっとぼくも同じ顔をしていたに違いない。



そして、感じたことを、

そのまま言い合った。



ひいきとか、偏見とか、思い込みではなく。


やっぱり、いいものは、いい。



舞台の上から、

ひとりひとりに思いを届けるように唄う姿と、その唄声。

ぼくらはまっすぐなその気持ちを感じ取った。



「ごまかせないね。

 やっぱり、最後は気持ちだね」



ひとりで聴いていたら共感できなかった気持ちを、

共有し、共感し、確認できたこと。


それは、すごく意味のあることで、

すごく価値のあることだった。





唄も、料理も、そして絵も。

形はあるけれど、

伝えたいもの、伝えたいこと、

伝わるものには形がない。



聴覚、味覚、嗅覚、触覚、視覚。


感じ、感覚、気持ち。




最前列で聞いた唄声に、

ぼくらは「それ」をたしかに感じた。



形は少し違うかもしれないけれど、

友人とふたり、

同じものを、たしかに感じた。



言葉にすると、陳腐なものになるのかもしれない。



けれどもそれは、

とてもうつくしい体験だった。










先日、お寺へ「豆まき」に行った。

節分の行事、豆まき。



豆やらお菓子やらが入った升(ます)を手に、

お奉行様のような、朱色と金の

きんきらの「裃(かみしも)」をまとい。



「鬼は〜外っ」



と、元気に声をはりあげて。

お寺のちょっとした欄干(らんかん)から、

眼下にひかえた人たち目がけて、

勢いよく豆をまく。



「なんか、おもしろそうかも」



という、

およそ不純な動機で参加した「豆まき」だったのだけれど。

最後には、いいものをもらったような、

そんな気持ちになった。





「あんた、厄年だから。豆まきしてらっしゃい」



最初、母にそう言われて、



「ええ、豆まきぃ? なんでぇ〜」



と、眉をひそめて、口を尖らせたのが実情で。



厄年とか、そういったものに対して無関心なぼくは、

そんなもの、気にしなければ自然にすぎていくのに、

なんでわざわざ「意識する」んだろう、と。

これまでずっとそう思ってきた。



けれども、今年は「なんとなく」、

母の「計らい」に乗ってみようと思った。



なんか、おもしろそうかも。

そんな安易な心境で。





豆まき、当日。


境内には「ひいらぎ」を求める人の列が、

深夜の貨物列車のごとき長さで連なっていた。


まるで「初詣」だ。

たのしげな露店もたくさん出ていたし。



ふだんの節分でも、

豆を食べたり、まいたりはしてきたのだけれど。


節分というものが、

世の中でこんなにも盛り上がっていたとは。

まるで考えもしなかった現象だった。



「露店が出ているなんて、

 そんなこと、母上は、ひと言も言ってなかったぞよ」



だったら、もっと早く来たのに、と。

下唇を突き出しながら、渋々と境内を進むのでありました。




さて。



その人波とはまた別の流れで、

受付に進んで、お寺の中に入る。



しばらくして。

きれいな色の袈裟(けさ)を着た

お坊さんが入ってこられた。


遅れてもうひとり、お坊さんが入ってこられた。

会は、どうやらふたりのお坊さんによって執り行われるようだ。



いよいよはじまった「厄払い」。

お坊さんのお話では「お加持(かじ)」というらしい。



「わたくしが『か(加)ーっ』と念を送りますから、

 みなさまは、なるべくたくさん受け取れるよう集中して、

 『じ(持)ーっ』と受け止めてください」



ぼくは、お経を聴くのが好きだ。

洋の東西を問わず、

祈りの声は、なんだか尊くて、気持ちがいい。


合唱や斉唱で起こる「ずれ」がつくりだす「ハーモニー」。


気持ちのいい祈りの声を聴いていると、

スティーブ・ライヒの楽曲を聴いているような気分になる。



かなしいお葬式で体をゆらすことは、まずないけれど。

木管の打楽器や金属質の打楽器が読経に加わってくると、

体はじっと座していても、

心はゆらゆらゆれてしまいそうになる。



ふたりのお坊さんの読経。


声色のずれと、実質的なずれとが、

ホーミーのような、多重の「うなり」をつくる。



今回はお葬式ではなかったので、

遠慮なく、体ごとゆらさせていただいた。


というより、ゆれている自分に気がついて、

そのままゆれるに任せた、というほうが、

当たっているかもしれない。



心躍る打楽器のメロディと、

心地よい読経の合唱。


もしこれが罰(ばち)当たりな気持ちだったら、

神さま、ぼくを地獄に落としてくださってかまいません。




ごらんのとおり、

ぼくはそんなに信心深いほうではない。



けれども。


お坊さんのおっしゃったように、

一粒、一滴ももらさぬよう、

心をひらいて、お加持に集中していると、

本当に、何だか気持ちがよかった。



お加持の終盤、

お坊さんが白い紙のついた

ハタキみたいな棒(「大麻」=おおぬさ、というそうです)を手に、

ひとりひとりをお回りになる。


目を閉じ、その、ハタキみたいな棒で、

頭のうえをファサファサと「おはらい」してもらうと、

なんだか頭を「いい子いい子」してもらった感じで、

ちょっとくすぐったくて、

なんだかうれしい気持ちになったのでした。



最後に、お坊さんのお話があった。


そのなかで印象に残った言葉。



「毎日、ずっと願いつづければ、

 その願いはやがては『念』となることでしょう」



それを聞いて、思うのでありました。



「なるほど、気持ちの束なのだな」



ひとつひとつの「点」が集まって「線」になり、

一本一本の線が集まって「面」となるように・・・。



雨粒が集まり流れ、川となり、滝となり、

やがて大海へとつながるように・・・。



ふっくら炊けたごはん粒が集まって、

おいしいおにぎりとなるように・・・。



そういえば。



お加持のはじまりを告げる、

銅鑼(どら)の音。


そのときのお坊さんのバチさばきも、

叩く前に、「溜(た)め」というのか、

整え、集中するような、そんな「間(ま)」があった。



一音を出す、という、

たった「それだけ」のことなのに。


気持ちを入れて、心を込めて、

バチを振ったように見えた。



見えない一点をとらえるような、

純度の高い集中力。


その挙動には、儀式的な虚飾も演出もなく、

いっさいの無駄も迷いもないように感じた。



「なるほど、気持ち、なのだな」



「悟り」というものは、小鳥よりも軽やかに、

わが脳裏に舞い飛んでくるものであります。




お加持が終わって、いざ、豆まき。


升の中には、豆のほかに、

アメやラムネも入っている。


目が合った人にアメを落す。

拡げた袋の口を目指して、ラムネを投げる。



「ありがとう!」


「あの人が、アメ、落してくれたんだよ」



そんな声が聞こえて、

ぼくもうれしかった。











豆まきも終わり、

お加持が終わった。


お坊さんにお礼を言って、お寺を出る。


お坊さんがにっこり笑っていた。

ぼくも、にっこり笑ってお辞儀をした。




最初、ええ、豆まきぃ? なんでぇ〜、

と思った行事だったのだけれど。


なんだか清々しい気持ちになった。


純粋にたのしかったし、おもしろかった。



お寺はよく行くのだけれど、

ふだんは見て回っているだけなので、

いつもは体験できないことを体験できて、

感じたことも多かった。


そして思った。

母親の「親心」というものを。


誰のためでもなく、

ぼくのために勧めてくれた「豆まき」。



ありがとう。



おりこうさんのぼくは、

ちゃんとおかあさんにお礼が言えました。




気持ちはだいじ。


表わすのも、受け止めるのも、

だいじにするのも、だいじなこと。





常識なんてぶっとばせ

仲間同士さ 手を貸すぜ

大人は昔の自分を忘れてしまう生きものさ

ついてこいよ ついてこいよ

ABC ABC ハーン E気持


(『E気持』/唄:沖田浩之 作詞:阿木燿子 作曲:筒美京平)




なるほど、E気持ち。



紙のハタキでファサファサとおはらいをしてもらって、

さらにはお坊さんのありがたいお話を聞いて、

ちょっと賢くなった、ぼくでありました。






さて、ここでクエスチョン。


今回の記述の中に「気持ち」という言葉は、

何回出てきたでしょう?




正解者の方には、

お気持ちばかりの品を差し上げます。





気持ちって、便利だね!






< 今日の言葉 >


「たとえ軟便だって言われようが、知ったこっちゃねぇ!

 おもしろいこと便秘になるよりましだ!」


(つまらない、と言われて返す言葉)