2014/12/03

蛸地蔵とぼく












蛸地蔵。




みなさんはご存知でしょうか。

同名の昔ばなしがあったり、

大阪府の岸和田市に

同名の駅があったりするけれど。

ここでいう「蛸地蔵」は、

3人からなる「バンド」のことなのです。




蛸地蔵。




今回、展示のための作品を描くあいだ、

蛸地蔵のアルバムを

ずうっとぐるぐる聴きつづけていた。


何回聴いたのか、何時間聴いたのか、

それはよく分からないけれど。


とにかく「蛸地蔵」以外の音楽は

聴かないという日々がつづいていた。




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 <蛸地蔵 ディスコグラフィー/2014年12月現在



・『あなたの絶頂に蛸の脚を貸しましょう』(1stアルバム)

・『幻の巣箱』(2ndアルバム/ライブ映像DVD付)

・『きやうてんだうち』(自主制作ライブ編集盤)



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朝、シャワーを浴びて髪を乾かすときには、

1stアルバムの最後の曲『ママ』を2回聴いて終了する。

そんな「習慣」は、いまもつづいている。




家の中では日に焼けた

母が疲れたわと愚痴をこぼしながら台所に立つ

おまえが小さかった時は

あんなに素直でかわいい子供だったのに

どうして今になって

逃げたあなたの父親と同じこと言うのいい加減にしてよ

苦労して大学まであなた通わせた私ばかみたい




と、そんな内容ではじまる唄なのだが。

これがまた非常によい。


魂をしぼり出すような唄声もあいまって、

なんとも悲壮に満ちた情感を描き出している。



ぼくは音楽に詳しいわけではない。

けれど、音楽を聴くのはすごく好きだ。


絵を描くために音楽は必要で、

いってみれば「絵の具」同様の存在だ。




蛸地蔵。


その色は、純粋で、純度の高い色をしている。




ぼくが聴きたい音楽は、

変わったものでも、奇抜なものでも、

ましてや流行りの歌でもない。



もちろん自分の「ものさし」で感じる、

自分の尺度でしかないのだけれど。


ジャンルや時代を超えた音楽。

普遍的で、熱のこもった、純度の高い音楽。


そんな濃ゆい音楽が聴きたい。


好きなバンドが解散して、

古いアルバムをぐるぐる聴きつづけていた日々の中で

不意に出会った高純度の音楽。




蛸地蔵。



ぼくにとって、新しい「絵の具」となった蛸地蔵。


そしていつしか、

絵を描くための「絵の具」であった音楽を、

どうしても「生」で体感したくなった。





蛸地蔵の生演奏。


先日、それがついに叶った。





ワンマンではなかったが、

とにかく、ぼくは蛸地蔵を観た。



ひとことで言うなら。



「しびれた」



もう、本当に、本当に、すごくよかった。



そうでなければ、

こんなふうに書き留めておこうなどとは思わない。





ライブ当日。



会場に着いて、最前列を確保。

開演前に物販を見に行く。


演奏前に流れる音楽(SE)を聴いて、

ぼくの足が、はたと止まった。



浅川マキ。


その選曲に、

高まっていた期待感がさらにふくらんだ。



ステージに照明が灯り、演奏が始まる。



そこからはもう、

一歩も動けなかった。



体は音でゆれているのに、

心も、目も、すべてが釘付けになって、

そこから一歩も動けなかった。



いま目の前で起こっていること、

すべてを取りこぼすまい、と。

一挙一動、見逃したくないという気持ちで、

目を見張り、耳をとがらせ、

ステージの上で繰り広げられる演奏を全身で聴いていた。




狂気と殺気。



竹光(たけみつ)ではなく、

真剣で斬り合いする殺陣(たて)を見ているような。


軽やかに舞い踊りながら弾くギターは、

優雅で暴力的なにおいがした。

その唄声は、全力で唄うたのしさを知っている。


ドラムを叩く腕は、

やわらかさとしなやかさをまといつつも、

まるで何かを叩き斬っているような気概を感じる。


規則的に刻まれるベース音は、

それでいて躍動と殺気に満ちている。




静寂と緊張。



ぎらぎらと光る眼が、互いの呼吸を読んでいる。


その緊張感は、じりじりと間合いをつめる、

徒手空拳の決闘のような、

ひりひりとした熱い空気だった。



ぼくの目は、

まばたきを忘れて、じっとそれを見ていた。


すぐ目の前で、3つの音がひとつになって。

命を削るような演奏が、原色の轟音でうずまく。



体が、熱くなった。

体じゅうの血が、静かに、熱く、

踊り狂って騒いでいた。




ステージ。


まさしく「舞台」のような演奏だと思った。



演じているのではなく、

本気で行なわれている「舞台」。



ぼくら観客の心は、

舞台の上で行なわれている「演目」に

すっかり魅了されていた。




舞台と客席とを分ける、

結界のような、見えない境界線。

舞台の上は、「夢」とか「幻想」のような、

そんな「手が届かないような」領域にも見えた。


それでもたしかにそこにあって、

手でさわるよりも近くに感じる存在感がある。




狂気と静寂。


現実と幻想。


明と暗。



相反するものが共存する矛盾した時間に、

ぼくの感覚は戸惑い、魅了され、恍惚となり、

ずっと心臓が踊りっぱなしで、

鳥肌もずっと立ちっぱなしだった。




蛸地蔵。




生で観て、感じた。

やっぱり「本物」だと。




あっという間のような。

それでいてすごく長くて濃密な時間。


演奏が終わったとき、

ようやく「束縛」から解けたような、

現実に引き戻されたような感じで、

そのとき初めて、

自分の意志で動けることを思い出した気がして、

思いっきり、手が熱くなるほど拍手を贈った。




もう1回、観たかった。



いまとまったく同じでいいから、

もう1回、同じ演奏を観直したかった。



ぜんぶ観たのに、

ぜんぶは観きれていてないような。


物足りなさというより、

処理能力が追いつけていない状態。



あまりの衝撃に高揚しつつも、

思考だけは、しばらく茫然自失となっていた。






蛸地蔵。






音(楽曲)については、

言葉で伝えるよりも聴くほうが早いと思うので。

とにかく音源を聴いてみてほしい、と。



好きな音楽を、

いままでこんなふうに、

喧伝することなんてしてこなかったけれど。


自分自身、応援されることのありがたみを知り、

心持ちが変わったのか、

それとも、

それ以上に蛸地蔵の演奏がものすごかったのか。


そんなことはどっちでもいいけれど。



百聞は一見しかず。


とにかく、一度、生で観てほしいと。

そんなふうに思うのであります。



蛸地蔵HP
http://tacojizou.jimdo.com/






蛸地蔵。



音楽性や見た目の好みはあるだろうけれど。

純度の高い、「本気」の音だ。




ライブが終わって。

帰りの地下鉄の中でも、

名前もつけられない感情と衝撃に、

ずっと興奮しっぱなしだった。



家に帰って。

ふとんに入ってからもずっと、

興奮して眠れなかった。


遠足前のわくわく感。

旅行から帰ったときの、うきうき感。


そんな幼稚で単純な感情かもしれないけれど。


生で感じた蛸地蔵は、

とにかく、すごくかっこよくて、

本当に、めちゃくちゃよかった。



かなり期待して行ったのに、

その期待をはるかに超えてきた蛸地蔵の演奏。


嗚呼、おそるべし、蛸地蔵。





蛸地蔵。





蛸地蔵ばかりを聴いて描いた絵。


題名は《マトリョーシカ》。









蛸地蔵ばかり聴いていたら、

なんだか蛸の女神のような形になったなんて。

そんな安直なことなんて、あるはずない。


そう信じているけれど。



蛸地蔵の音楽のおかげで、

いい絵が描けたのだから、

そんなことはどうだっていいのです。




原画を生で観て

感じていただけた人にだけ分かる、

色や質感があることも。


実際の空間の中で感じられる、

言葉にできない「何か」があることも。




音楽も、絵も、そしてそのほかの現象も、

やっぱりそれは同じなのです。









ライブへ行った後日。

グループ展の期間中、来ていただいたお客さんに、

自分の絵の話もそっちのけで、

蛸地蔵について厚く、熱く語ってしまったかもしれません。




グループ展に来ていただいたお客さま方、

本当にどうもありがとうございました。


こんな形でお礼を申し上げる家原を、

どうぞお許しください。



これからも、蛸地蔵を、

いや、家原利明を、

どうぞよろしくお願いいたします。




< 今日の言葉 >


「ステージを降りたら、いちばんの素人であれ、って。
 クラプトン先輩が言ってましたから」

(蛸地蔵、うえのひる子 氏談)