2014/11/26

記憶のなかのヒヤシンス 〜長編随筆・幼稚園編





最近、お子さまを持つ

親御さんとお話しする機会がちょくちょくあった。

話の流れで「子育てについて」の話題になり、

思ったことを、思ったままに、
いろいろとお話しさせていただいた。

そのときどき、

異口同音に言われた言葉。


「お子さんがいないのに、

 すごくよく分かってらっしゃいますね」


驚きと感嘆が、言葉だけでなく、

表情からも伝わるありがたい感想で、
けっしてお世辞で言っているふうには感じられなかった。

何人かの方々からそんなふうに言われはじめて、

だんだんと、恐縮というより、
大丈夫なのかなと心配になった。


そこで少し、考えてみた。


なぜ、そんなふうに言われるのかと。



子どもがいないからこそ、客観的に見ることができて、

理想だけの無責任な意見が言えるのか。

いや、ちがう気がする。


意見を言うからには、

親身になって考えての「こたえ」を言ったつもりだ。


これまで、学校という場所で、

生徒という名の「子ども」と接してきたからか。

それもあるだろうけど、

なんとなくそれだけではない気がした。


何日か、あたまのすみに置いたまますごして、

ある朝、シャワーを浴びているとき、不意に思った。


そうだ。


自分自身が「そうしてほしい」のだと。




少しだけ「大人の語彙(ボキャブラリー)」を身につけた

大きな「子ども」。


「子ども」のぼくが、

「子ども」目線で、
「子ども」としてしてほしいこと、思うことを
「大人に伝わる言葉」で伝えているのだと。



そう思ったら、

なんだかすごくしっくりきた。










幼稚園のとき。


ぼくは、いわゆる「年長さん」の歳に、

別の幼稚園から短大の付属幼稚園に「転校(転園?)」した。

かつての幼稚園でもそうだったけど。


ぼくは、周りの幼稚園児(って、自分も同じく幼稚園児だけど)が

ひどく幼く、幼稚に見えた。

幼稚園児だから「幼稚」でも当たり前なのだが。

ふるまいや言動、考え方が、ひどく幼稚で、
あまりのデリカシーのなさに辟易としていた。


学芸会では、クオリティの低い、

なんだかわけの分からない「冠」のようなものを
あたまにかぶせられ、
そこに描かれた絵だけで「タコ」やら「ヒラメ」やら「タイ」やらの
役割を演じなくてはいけない。

(ちなみに演目は「うらしま太郎」。ぼくは「サメ」の役だった)


わいわいと「子どもっぽい」お遊戯に参加させられ、

いかにも「子どもらしく」たのしそうにはしゃぐ園児たち。

プールの時季になると、

男の子も女の子もいっしょになって、
家から履いてきたパンツ(下着)1枚で
水に浸かって「水遊び」をする。

水を含んでぶよぶよに伸びた、白いパンツ。

なんだかそれがとてもだらしなく見えて、
ひどくはずかしいことに思えた。

しかも、女の子も男の子も同じく、
パンツ1枚のあられもない姿で、
きゃっきゃとたのしげにはしゃいでいる。


ぼくは、その感覚がよく分からなかった。


とてもじゃないけれど、

いっしょになってはしゃぐような気分にはなれなかった。


輪になって手をつないで唄ったり、

みんなで同じ服を着て走り回ったり。


「どうしてそんなことをするのか」


「ぼくはそういうやりかたじゃないほうがいいな」



そう思いながらも、

その疑問や思いを言葉にすることはできず、
ただただ黙って渋々とその輪に「参加」していた。


そのせいもあってか、

ぼくは「幼稚園」という場所になじめず、
遊ぶときにも、ひとり地面に絵を描いたり、
教室のすみっこでブロック遊びをしていることが多かった。


ともだち、と呼べる園児もおらず、

教室では、毎週代わる代わるやってくる
教育実習生の短大生とばかりしゃべっていた。

ぼくには、それがちょうどよかった。


貸してと言わずに

使っているブロックを奪っていくような子どもや、
順番を守らず割り込んでくる子どもや、
ちっとも笑えないことをくり返す子どもと遊んでいるより、
きちんと目を見て話を聞いてくれる
教育実習生とすごしているほうが、
ぼくには性に合うと思っていた。


幼稚園の運動場のすみには、長く連なる遊具があって、

末端にあたる部分には
飛行機(プロペラ機)をかたどった遊具があった。

カラフルなペンキで塗られた、

鉄のパイプの飛行機。

ジャングルジムみたいにあみあみで、

フレームだけの飛行機だったけれど。

操縦席にあたる部分には赤いハンドルがあって、

手で回すとぐるぐる回せるようになっていた。


操縦席は、みんなのあこがれの場所だった。

少なくとも男の子にとっては、
できるだけ長く座っていたい場所だった。


ある日のこと。


その日はめずらしく、

操縦席には誰も座っていなかった。

みんなはボール遊びなどに夢中で、

遊具で遊ぶ子は誰もいなかった。


これならゆっくり遊べそうだと、

ぼくはひとり、遊具にのぼって操縦席に座った。

ただの骨組み飛行機のはずなのに。

操縦席からの眺めはすごく特別で、
本当に高い空から景色をながめているような気分になる。

鉄板と鉄管でできたイスに座って、

ごてごてと何度も重ね塗りされた
赤いハンドルをぐるぐる回す。

引っ越してきて間もないぼくにとっては、

休み時間に、誰にもじゃまされず、
操縦席にじっと座っていられたのは
そのときが初めてだった気がする。


ぼくはしばらく、その感触を、

その景色をたのしみながら、
上空数百メートルの旅を味わっていた。


と、眼下から、

甲高い声が割り込んできた。


「そこはともくんのせきだぞ」



声の主は、

いつも「ともくん」の横にくっついている男の子で、
なんだか怒ったような顔でぼくを見ていた。

当の「ともくん」は、

これといって何かを言うわけでもなく、
その男の子がするのを黙って横で見ているようすだった。


「どけよ」



そう言ってよじのぼってくるその男の子に、

ぼくは静かに反論した。


「さっきまでいなかったくせに」



「いいからどけって」



ぐいっと、肩を押す男の子。

いきなり押されて、ぼくの体がイスから離れた。

ぼくは、その子をぎっとにらんだ。


少しだけひるんだその子は、

視線を「ともくん」に向けて、


「ともくん、どうぞ」



と、空いた操縦席を手のひらで指し示した。


その姿を見て、ぼくは鼻白んだ。



幼稚園児のぼくは、特別けんかっ早いほうでもなく、

感情的になって暴れるほうでもなかったが。

泣かないほど強くもなく、
とはいえ外では泣かずにこらえて、
家に帰ってから泣く意気地なしだった。


けれど、そのときはくやしくもなく、
かなしくもなく、いま思う言葉で言い表すと、
すごく「くだらない」感じがした。

その、子分のようなふるまいを見て、

すごくどうでもいいような気持ちになった。


活発で明るい「ともくん」。


そのそばを離れない男の子。


同い歳なのに、子分のような感じで

いつもくっついて回るその子の存在を
甘んじて許しているような感じに見えて。

そのせいでしばらく、

ぼくは「ともくん」のことが好きになれなかった。


・・・その数年後。


小学3年生になって

同じクラスになった「ともくん」とぼくは、
以来、毎日いっしょに遊ぶほどの大親友になったのだけれど。



そのときは、

子分的な存在を受け入れている「ともくん」が
あまり魅力的な存在には映らなかった。




なにかあるごとに、

幼稚園の先生から聞かれる。


「どうしていっしょにやらないの?」



「なにがいやなの?」



「みんなもやってるから、ほら、いっしょにやろう」



「なにがいやなのか、言ってみて」




感覚。



それを言葉にできる語彙(ボキャブラリー)がない。



説明しようとすればするほど、

感覚と言葉とが遠ざかって、
思いとちがう方向へと転がっていく目の前の現実。


そんなふうに立ち往生するぼくを前に、

困ったような顔をする先生たちを見て。

ぼくは、黙ることを選んだ。



説明できるだけの言葉がないのだから。


ぼくは、黙ってうつむくよりほかなかった。





★ 





水栽培のヒヤシンス。


幼稚園の風景で色濃く残っているのは、

薄紫色のガラス瓶に乗せられた、
タマネギの赤ちゃんみたいなヒヤシンスの球根の姿だ。


家に帰るバスが最終組だったぼくは、

教室にひとり残ることが多かった。

最終組のバスには、

ほかのクラスの子たちが多くて、
ぼくのクラスには、ぼくしかいなかった。


日の落ちるのが早くなった季節には、

ほかの用事で教室を離れた先生が戻るより先に空が暗くなり、
薄暗い教室でひとり待たされることも何度かあった。


置き去りにされたような感じ。

けれども、不安な感じでもなく、
けっしていやな感じではなかった。


誰もいない、広々とした教室。


ぽこぽこと泡を吐き出す金魚の水槽からこぼれる

緑がかった白い光が、
じっとして動かない教室を弱々しく照らし出す。

薄暗い教室に響く、

ぶーん、というポンプのモーター音も、
ぼくにとっては冬の印象として焼きついている。


先生の用事がないときには、

最後のバスがくるまで、
先生とふたりきりになることがある。

そこで先生といろいろ話した。


とはいえ、

いつも何を話していたのかは覚えていないし、
たぶんぼくは聞く側のほうが多かったはずだ。


いつも最後までバスを待つぼく。


そんな時間の中で、

ぼくは、先生からヒヤシンスの水を替える「仕事」をもらった。


白い、人工大理石の水場。


赤いネットにくるまれた、クリーム色の石けん。



水を替えるときには、

いったんヒヤシンスの球根を、
水場の上のふきんの上にちょこんと置いて、
瓶の中の古い水をざーっと捨てる。

水を捨てたあとのガラス瓶の内部はぬるぬるしていて、

蛇口をひねって水を注いだら、
スポンジのついたブラシで
まるっこいガラス瓶の中をぐるりとなでるようにして、
ぬるぬるや苔みたいな汚れをきれいに洗う。

タートルネックみたいにきゅっとすぼまった

瓶の口もきれいに洗って、
新しい水を瓶の口のぎりぎりまで注いでいく。

瓶の口に、ヒヤシンスの球根を乗せて、

窓辺の定位置へと運んでいく。


どれくらいの期間、

何回それをやったのだろう。


覚えてはいないけれど、
ヒヤシンスのお尻から伸びる白いひげのような根っこが
どんどん長くなり、
その本数もどんどんふえていったことは
よく覚えている。

タマネギみたいな球根の頭から、

黄緑色の「芽」が少しずつ顔をのぞかせて、
ゆっくりと伸びてその色が
だんだん緑色っぽく濃くなっていったことも。

ぼくの記憶にしっかり残っている。



けれども、そのヒヤシンスが、

花を咲かせたのか、どうだったのか。

その記憶は、まったくない。



だからぼくは、

ヒヤシンスの花を知らない。

どんな色なのか。


どんな形の花なのか。


いまでもぼくは、知らないままだ。






★ ★ 





グループ展の期間中の、ある土曜日のこと。


ぼくは、会場に来てくれた友人夫妻を見送るつもりで、
建物の外でしばし立ち話をしていた。

と、ふたりの女の子が、
勢いよくぼくのもとへとやってきた。

「そのちゃん」と「ゆうかちゃん」。

ゆうかちゃんの手には、
まだ開封していないゼリービーンズが握られてた。


「ねえ、これ、目つぶって出たやつ、
 じゅんばんに食べよう」


その箱を見て、友人が言った。


「これ、ハリーポッターのやつじゃない?」


その場にいる5人のうち4人(つまり、ぼく以外)は、
それを知っているようだった。

映画に出てくるやつなのか、
それともそれをイメージしたものなのか、何なのか。

ぼくは、ハリーのことも
ポッターのこともあまり知らないので、


「何それ?」


と、首をかしげるばかりだった。


くすくすとたのしげに笑う女の子2人。

よく分からないけど、
何だかおもしろそうだったので、


「いいよ、やろう」


と、その提案に乗ることにした。

そしてなぜか、
ぼくがいちばん最初にやることになった。

目を閉じ、袋のなかからひと粒、
ゼリービーンズをつまむ。


「目、あけちゃだめだよ」


くすくす笑って、女の子どうし、
小声で何やら耳打ちしているようすが、
かすかにうかがえた。

手に取ったひと粒を口に放り込み、
奥歯でぐしゃりと噛みしめ、もぐもぐと味わってみる。


「何これ? なんか、緑っぽい味がする」


説明書らしき小さな紙を広げて、
ゆうかちゃんが笑いながら言った。


「それ、草味」


「草味?」


「うん、草味」


ぼくが知っているゼリービーンズは、
バターポップコーン味とか、シナモン味とか、
トーステッドマシュマロ味とか、そういう味はあったけれど、
草味なんていう意味不明な味はなかったので、
最初、ふざけているのか、
でたらめを言っているのかと思ったのだが。


見るとたしかに、草味、と書いてある。


本当に、活字で「草味」と
書かれているのを見てびっくりした。


もっと見てみると、
「石味」とか「土味」とか
「鼻水味」というものまであった。


そこでようやく、
このゼリービーンズが、
そういう類いのものだと初めて分かった。


「何味なのか、見ずに味だけで当てる遊び」


そんな子どもらしい、
無邪気でかわいらしい遊びだと思ってほんわりしたのは、
まったくの幻想だったようだ。

俄然、やる気が出てきたぼくは、
友人夫妻も巻き込んで、
ゼリービーンズを順番に食べた。

友人夫妻は、
それほどの「はずれ」を引くことなく食べ終わり、
そのちゃんの番になった。

怖がるそのちゃん。

それでも、なんとかひと粒つまんで、
怖がりながらも目を閉じたまま口に放り込み、
もぐもぐそれを噛みしめはじめた。

肩をいからせ、
目をぎゅっと閉じたまま
ゼリービーンズを噛みしめるそのちゃん。

その表情と仕草がすごく正直で、
見ていてすごくおもしろかった。


「え、なに味、これ、なに味!?」


さいわい、
フリーティな味を引いたそのちゃんは、
怖がりながらもダメージは受けずにすんだ。


ゼリービーンズの袋を手に、
いままで引いてもらう側だったゆうかちゃん。

今度は彼女が「引く番」になった。


いざ、自分が引く番になったゆうかちゃんは、
突然、思った以上に怖がり出して、


「いやだ、こわいこわい、
 もう、本当にいやだ!」


と、じたばた地団駄を踏みはじめた。


しばらくの葛藤のあと。

ぼくらがうながしたこともあり、
こわいこわい、もういやだ、とか言いながら、
何とかひと粒つまんで、口もとに運んだ。

そばにいたそのちゃんが、
ゆうかちゃんの耳にそっと耳打ちする。

その声に、少し安心したのか、
つまんだゼリービーンズを口に入れた。

それでも、目を閉じたまま
ばたばたと足を踏み鳴らして、
こわいこわい、もういや、と何度もくり返していた。

さっきまでちょっとえらそうに、
お姉さんぶっていたゆうかちゃんではあったが。

純粋に怖がるさまがかわいらしくて、
きゅうに小さな女の子に見えた。


自分の番が無事に終わると、
すぐまたけろりともとの顔に戻って、


「はい、次引いて」


と、冷ややかなお姉さんっぽい口調で、
ゼリービーンズをぼくに差し出した。


目を閉じ、口に入れ、がしがし噛んでみる。


「なにこれっ・・・、わ、変な味!」


目を開け、ゆうかちゃんを見ると、
うれしそうにけらけら笑いながら、
そのちゃんにこそこそ耳打ちしていた。


「それ、耳くそ味」


「え、耳くそ?!」


まずそうに顔をしかめるぼくを見て、
さもうれしそうに、体をゆらすゆうかちゃん。
そのちゃんも、つられていっしょに笑っている。

友人夫婦も頬をゆるめ、
そのさまをたのしげに眺めていた。


「口直しちょうだい」


と、差し出したぼくの手のひらに、
ゆうかちゃんが、まだらのゼリービーンズ
ひとつ乗せてくれた。

ぼくが知っているとおりのゼリービーンズなら、
これは、ミックスフルーツ味のはずだが。

顔に笑みを浮かべたまま、
ゆうかちゃんがそのちゃんにこそこそ耳打ちする。

当たりかはずれか、
どっちか分からなかったけれど、
とにかくそれを口に入れて、噛みしめた。


「おいしい」


ゆうかちゃんがくれたのは、
いわゆる「まとも」なほうのゼリービーンズだった。


「やさしいねぇ、ありがとう」


少しだけ大げさにお礼を言うぼくに、
ゆうかちゃんは、
笑いとも微笑みともつかない表情を浮かべて、
ちらりとぼくの顔を見たあと、
すぐまた手元に視線を落した。


友人たちが帰ったあとも、
しばらくその「ゲーム」はつづいた。

結局「はずれ」が出るまでつづくゲーム。

いつしか彼女らふたりは、
参加者ではなく傍観者に変わっている。


こういった「おふざけ」のお菓子で、
たいていものは大丈夫なほうのぼくではあったが。


「ゲロ味」は本当に最悪だった。

まずい、というより、くさかった。


体中の垢を集めて丸めたものを、
仕事終わりのおじさんの靴下で包んで食べさせられたような。
そんな異臭のかたまりの「ゲロ味」。

ゲロを食べたほうがいくらもましと思えるほど、
本当に、くさくてくさくてたまらい味だった。


そのあと食べた「鼻水味」なんて、
上靴のゴムの部分を食べたみたな感じではあったが、
ゲロ味とくらべれば、何百分の一程度のまずさだった。


それくらい、ゲロ味はまずくて、
しばらく鼻の奥から強烈なにおいの記憶が消えてはくれなかった。



ゼリービーンズに飽きたのか、
それとも満足したのか。

いったん姿を消したふたりが、
廊下にいるぼくを再び見つけて、
ぱたぱたと駆け寄ってきた。


「ねぇ、三つ編みさせて」


ゆうかちゃんが、無表情に言った。


「いいよ」


すぐそばのイスに腰かけると、
ゆうかちゃんに背を向け、髪の毛を委ねた。


「うわぁ、やわらかい! ふわふわ!
 そのちゃんもさわってみて」


「本当だ、ふわふわ!」


あらい手つきで、
ぼくの髪の毛が編まれていく。


「ゴムあるよ」


右腕にはめていた髪ゴムをはずして差し出すと、
編んだ髪をわさわさっとまとめた。


「なんでゴム持ってるの?」


そうたずねるゆうかちゃんに、
立ち上がりながらぼくが答える。


「だって、女だもん」


「うそつけ」


「本当だって。あたし、女なのよ。
 気づかなかった?」


「うそだ、だってヒゲがあるもん」


「ヒゲ、生えてきちゃったのよ」


「じゃあ、はだかになってみてよ」


「いやだ、エッチっ!」


「バカか!」


と、しまいには、
ゆうかちゃんに本気で蹴られた。

しかも2発。


それが、すごくおもしろかった。


近くに鏡もなかったので、
ふり向き、ゆうかちゃんに
完成した三つ編みの感想を聞いてみた。

美容院帰りの貴婦人のように、
期待しながら、やや気どった感じで。


「どう?」


「ブサイク」


間髪入れず、
絶妙な間で吐き出されたその言葉に。

ぼくは思わず、ひざが崩れそうになった。


「なんだそれっ」


と、これまた絶妙のテンポで、
合の手を返すのは忘れなかったが。


迷うことなく、
無表情に言われたそのひとことがすごくおもしろくて、
じわじわと笑いがこみ上げてきた。


気づくとふたりの姿は、
階段を駆け上がって消え去り、
足音すら遠く聞こえなくなった。



あとからギャラリーのオーナーに聞いた話では、


「かみの毛の長い男の人どこ?」


と、うれしそうに聞いてきて、
外じゃないかな、と聞くや否や、
勢いよく駆け出して行ったそうだ。


「すみません、本当に」


申し訳なさそうに謝るオーナーに、
手をふり逆に恐縮した。


「いや、ぼくのほうが、
 遊んでもらった感じですよ」





翌週の土曜日。

そのちゃんは、ぼくの姿を見るなり、
元気におはようのあいさつをしに駆け寄ってきてくれた。


午後になって。

そのちゃんといっしょに階段に座る
ゆうかちゃんの姿を見つけた。


「こんにちは」


あいさつするぼくに、ゆうかちゃんは、
ちらりと目を向け「こんにちは」と
消え入りそうなかぼそい声で返しただけで、
すぐまた視線を手元に戻した。



初めて会ったときもそうだった。

話しかけても、固い表情のまま、
ちらりと視線を向けてすぐにその場を去っていった。



けれども、ぼくには分かっていた。


本当は遊びたいんだという気持ちが。


なぜ「分かった」のかは分からないけど、
ぼくにはそれが「分かって」いた。



今度の土曜日。


グループ展、最後の土曜日。



元気なそのちゃんと、ゆうかちゃん。


ふたりの元気な顔に会えるかどうか。


そのちゃんみたいに、
ゆうかちゃんがまた笑ってくれるかどうか。


それもたのしみのひとつだ。





★ ★ ★ 






分からなくもない。


笑いたいのに、うまく笑えない気持ちが。

はしゃぎたいのに、はしゃげない気持ちが。



ぼくがおとなしかったのは、幼稚園までの話。




小、中、高と、

少しずつ「言葉」と「外交」を覚えたぼくは、
どんどん生意気になっていった。

・・・そんな話はまた別の機会にゆずるとして。



ヒヤシンスという花の色も形も分からないまま、

その球根の水を毎日のように替えていた幼稚園時代。


大きくなったいまでも、

あのころの気持ちと何ら変わっていない。



幼稚園のとき感じたあの気持ち。


小学生にときに味わったあの感覚。


違和感。ずれ。疑問。思い。





最近になってようやく言葉にできるようになった、

そんな感覚もたくさんある。


名前もつけられなかった、たくさんの感覚。


それでも、まだまだ言葉にできない

未知の感覚は次から次へと現れて、
なくなる気配は感じられない。



言葉の前に、感覚がある。

感覚が同居していない言葉は、たんなる「音」でしかない。


言葉にするための言葉ではなく、
感覚を、ていねいに拾って、
それを言葉にしていけたら。

そんなふうに思う次第であります。



「きっと息子さんは、

 いいよ、って言ってもらいたいんだと思います」


40歳になったぼくは、

子どもの気持ちを、大人の言葉で、
もっともそうに正当化している。




語彙を磨いたり、身なりを整えてみたりして、

いくら大人ぶってみても。


ぼくのおしりからは、
きっと子どものしっぽが、はみ出しているに違いない。


だからすぐに見つかってしまう。



集まってくるのは、子どもばかり。




『見た目は子供、頭脳は大人』



というのは名探偵コナンでありますが。

その反対では、かなり様子がちがってきます。




40ちゃいになったぼくは、
見た目ばかりが生意気ボディの、
とってもこまったちゃんなのでありました。



< 今日の言葉 >


「動物の本能は
 その場でいちばん正しい行動を選ぶのだ」

(『猫パニック』/諸星大二郎)