2012/03/28

白銀の2メートル 〜はぢめてのスノーボード〜




「月とロボット」(2010)



学生のころの話。

ゲレンデを見渡しても
スキーヤーがほとんどで、
スノーボードというものが
まだまだ知れ渡っていなかったころ。

スケボーをやっていたぼくらは、
雪の上をサーフィンのような感じですべる、
スノーボードという新しい「乗り物」に食いついた。


スケボーをやっていたメンバーは、
ぼくとKくんとMくん、
そしてIくんの4人で、
ちょっとでも時間があればスケボーに乗って、
毎日、部活のように練習していた。


スケボー仲間であり、友人であるIくん。

Iくんはぼくらの1こ歳上で、
音楽の情報も、洋服の知識も豊富で、
いつもいろんなことを聞かせてもらっていた。

Iくんは、
「ハードコア」という分野の音楽が好きで、
まったくその分野にうとかったぼくに、
いろいろな音楽を聴かせてくれた。

古着が好きだったぼくに、
たくさんの詳しい知識を
聞かせてくれたのもIくんだった。

地元の友人たちと海に行ったとき、
ストローをシュノーケル代わりにして
遊んでいたら、
Iくんと、その友人に偶然出会った。

Iくんの友人は、
鼻にピアスをつけていて、
腕に龍の入れ墨が踊っていた。


歳上のIくんのまわりには、
古着屋さんの店員とか、
音楽をやっている人とかがいて、
ぼくらからすると、
みんなちょっと「大人」に見えた。


学生時代の1年は、
けっこう大きかったりする。

ぼくらは、何でも「1こ上」である
Iくんのことを尊敬していた。


初めてのスノーボード。

Iくんを含めたぼくら4人は、
初めてのスノーボード体験を前に、
ウキウキワクワクしながら、
あれこれ準備を進めていた。


プロのスノーボーダーのビデオを観たり。
海外の雑誌を読みあさってみたり。

スノーボードという
新参の文化についての情報が
それほど多くなかった当時、
けんめいに情報を収集して、
自分なりのスノーボードへのイメージを
ふくらませていった。


ボード(板)、手袋、ウエア、ブーツ。

それ以外にも『リーシュ』という、
板と足をつなぐ「ヒモ」みたいなものや、
板とブーツを固定するための『ビンディング』、
片足で滑走するとき、
板のうえに足を置くための「すべり止め」など。
思っていた以上に必要なものがたくさんあった。


こだわればこだわるほど必要なものが出てくるし、
こだわるほどに、なかなか「それ」が見つからない。


ぼくらはそれぞれ、ときには4人いっしょに、
スノーボードをはじめるにあたって
必要なアイテムをそろえていった。


いまにして思えば、
ただのバカだったのかもしれないけれど。

ぼくが選んだのは、カナダ製の板だった。


ある雑誌を見ていて、
マンガ『AKIRA』の絵柄が描かれた板が
あることを知った。
カナダの、スノーボードメーカーの板だった。

ぼくは『AKIRA』が好きだったので、
その板(の写真)を見た瞬間、
一気に体温が上昇した。

とにかく現物が見てみたいと思い、
郊外の、行ったこともないような土地まで
車を走らせて、
そのAKIRAの板を見に行った。


実際に見た板の絵は、まあまあだけれど、
100点ではなかった。


そこに描かれていたのは、
AKIRAの登場人物である「金田」が
バイクにまたがって、
横すべりにブレーキをかけているものだった。


すごくかっこよかったのだけれど。
その絵が、板の裏面(雪に接地する面)に
描かれていたので、
ぼくは「うーん」と腕組みしてしまった。

裏面だと、人には見えたとしても、
自分で見る機会があまり多くない。

それじゃあ何のために
お気に入りの絵を選んだのか分からなくなる。

さらには、おもて面(自分で見る側の面)の絵が、
変にデザインされていて、
あまりいいと思えなかった。

値段は14万円くらいだったように思う。
総予算を考えると、ちょっと高い。


そんなふうにして迷っていると、
1枚の、かっこいい板を見つけた。

それは、真っ赤な板で、
前後に「鉄十字」が描かれていた。


AKIRAの板への熱が冷めたぼくの体温が、
ふたたび、かあっと上昇した。

真っ赤な板に、
白縁の黒十字。

赤、白、黒。

それは、ぼくの好きな3色だ。


ゴリゴリの、
いかついデザインの板が並ぶなかで、
その板は、色数も少なく、
よけいなことをしていないように見えた。

そして。

真っ赤なメッサーシュミット
(1930年代のドイツの戦闘機)を
思わせるその板に、
ぼくの気持ちはすっかりうばわれてしまい、
数分後にはその板を買うことに決めた。

値段は、たしか
8万円くらいだったように思う。

いまにして思えば、
バカみたいに高い板だった。

板を皮切りに、
手袋やブーツ、ビンディングなど、
必要なものをそろえて。

ウエアは、理想的なものがなかったので、
おとんが使っていた
70年代のスキーウエアの上から、
軍隊の服の上下を着ることにした。




       *




さて。


11月の下旬。
初スノーボード、出発の日。

寒いけれど、銀色の星が夜空にまたたく、
よく晴れた日だった。


ぼくら4人は、Mくんの車、
紺色のフォルクスワーゲンGOLFに乗り込み、
遠足みたいにわいわいはしゃいで
ゲレンデに向かった。


唯一、
雪をよく知る地方出身のIくんは、
助手席から路面を見つめて、


「凍ってるから気をつけて」とか、


「いや、ここは凍ってない」とか、


状況を確認・報告してくれた。



車内が暖まりはじめたころ。

誰からともなく、4人はそれぞれ、
今日までの「冒険」を口々に語りはじめた。


口火を切ったのは、運転席のMくん。
彼は、素直で純粋な、少年っぽい男だった。

Mくんは、
自分が買った板やブーツ、
その他の小物類について、
うれしそうに話していった。

この板は、あれこれこういうブランドで、
これこれこういう人がデザインして、
どこそれどうこうのあいだで人気があるとか。


後部座席に座ったぼくとKくんは、
あまりそういった情報に詳しくないので、
「へぇー」とか「すげぇ」とか、
そんな感じでうなずいていた。

そういった話題に目がないIくんは、
Mくんがひとつ何かを言うたびに、


「えー、けど、それって◎◎が先でしょ」


「いや、それは△△のほうが上だって」


といった感じで、
つねに「訂正」していた。


実際、知識に関しては、
どんな分野にしてみても、
MくんよりIくんのほうがだんぜん上だった。

Iくんのほうが何でも知っていて、
詳しさも、深さも、話術も、説得力も、
何をとってもIくんのほうが
上手(うわて)だった。


自分の買った「板」の話になって。
Mくんが、自分の板についての
「自慢話」をはじめた。


ここでいう「自慢話」というのは、
おいしかった料理の話や、
たのしかった旅行の話、
自分の飼っている愛犬のかわいらしさなど、
自分の「いい」を人に伝える
「プレゼンテーション」のようなものだ


板についての「うんちく」を語るMくん。

それに食いつくIくん。

そしてだんだん、
Iくんの板の「自慢話」になり、
Iくんのウエアや手袋の
「うんちく」へと移っていった。

負けじと自分のアイテムの
「自慢話」をしかえすMくん。

ことごとくそれをはねのけ、
2倍、3倍の情報を返すIくん。

Iくんは、自分の選んだアイテムが、
いかにすぐれていて、
いかに正しい選択をしたのかを論じていった。

その切り口はさまざまで、
機能性、希少性などの項目から、
買いもの上手、選び上手、
といった項目にまでのぼった。


そのラリー(やりとり)は、
ある意味で、
いつも「お決まり」のことだった。


純粋に、うれしさを表現するMくん。

何でも、人と論じるのが好きなIくん。


今回が特別なわけではなく。
また、Mくんが特別なわけでもなく。

どんなときでも「勝ち」で終わり、
「負けを認めない」Iくんに、
むきになってぶつかる場面は、
ほかにもたくさん見てきた。


絶対に「ゆずらない」Iくんと、
それを「ゆるさない」人たち。


MくんとIくんの関係も、
磁石の同極のように、おたがい相容れず、
反撥(はんぱつ)しあって
ぶつかりあう場合が多々あった。



後部座席のぼくは、
IくんとMくんのラリーを、
ほほえましい気持ちでにこにこ見ていた。

そしてときどき、
加熱しすぎたラリーに水をさしたり、
盛り上げるための「あいの手」を入れる。


男前のKくんは、
Mくんが「助け舟」をもとめてくるたび、
「そうだな」とまじめな顔でうなずいて、
やさしい言葉でフォローを入れる。


ゲレンデまでの道すがら。

ふたりのやりとりは、
やまない雪のようにしんしんとつづいた。


途中のおしっこ休憩で、
となりに並んだMくんが、ぼくに言った。


「Iくん、むかつく」


眉間にしわを寄せながら、Mくんは、
ことごとく自分の意見を
くつがえされる不満を
本気でぼやいた。


たしかに。


今回のIくんは、
やや「大人げない」気が
しないでもなかった。

うれしそうに「自慢」するMくんに対して、
すべてをくつがえして
「優位」に立つIくんの姿に。
そこまで言わなくても、
と思う場面も、いくらかあった。


おしっこのあと、
寒空のもと、Mくんとふたり
タバコを吸いながら、
助手席に座るIくんを遠目にながめる。


「Iくん、うれしいんじゃない?」


ぼくは、そう思った。


「めちゃくちゃうれしくて、
 はしゃいでるんじゃない?」


8月ごろ。

誰よりも早く、
板を買ったIくん。

真夏に、
まっさらなスノーボードを抱えて
地下鉄に乗った話は、
聞いたとき、言葉にならない衝撃が走った。

そのあとも、何か買うたびに、
Iくんは、学校に持ってきては
ぼくらに見せてくれた。

自分が買ったお店を教えてくれたり、
連れて行ってくれたり。

いろんなビデオを見せてくれたり、
いろんな雑誌を買ってきてくれたのは、
いつもIくんだった。


ぼくも、Mくんも、Kくんも、
そしてIくんも。

たぶん、うれしいのはみんな同じだった。

ただ、その表現方法がちがっていた、
それだけのことだ。




       **






東の空が、
少しずつ明るくなりはじめる。


スキー場についたぼくらは、
それぞれの「晴れ着」に着がえ、
まっさらな板を抱えてゲレンデに走る。

興奮が抑えきれず、体をぶつけあったり、
雪を投げあったりしながら、
わいわいと奇声をあげるぼくらに、
Iくんが口もとをゆるめて、


「子どもだなぁ」


と、静かに言った。


ゲレンデに着くと、
Iくんが、自慢の板を
じっくり見せてくれた。

たしかにかっこいいい絵が描かれていた。

リアルに描かれたタコの絵が、
板の半分をおおうようなデザインだった。


そしてまた、
Iくんが「うんちく」をはじめる。


「これ、◎◎が使ってるモデルだから・・・」

「▲万円したんだけど、日本ではまだ・・・」


Mくんだけは、
もう聞き飽きた、といった表情で、
少しはなれた場所で、身支度を整えていた。


リフト券を買うとき。

ゲレンデの雪の具合が分からないので、
半日券にしようか1日券にしようか
少し迷っていると、
Iくんが山頂付近を見ながらこう言った。


「大丈夫、俺は1日券買うよ」


雪に詳しいIくんが言うのだから、と、
ぼくらもIくんにならって、
1日リフト券を買うことにした。


スキーならまだしも。
スノーボードに関しては、
正直、お店で聞いた説明くらいの
知識しかなかったので、
何から何まで初めてだった。

スケボーみたいに、
片足で板をこいでいく方法も、
分かるようでよく分からない。

そんなときでも、Iくんが真っ先に
自信を持って答えてくれるので、頼りになった。


1日リフト券を手首に巻き、
手袋をはめ直すMくんに、Iくんが言った。


「言ってた手袋って、それ? 
 それより、やっぱり
 俺の買ったやつのほうが、
 手首がすっぽりかくれるし、
 片手でもはめやすいし、ほら」


そんなふうに。

ゲレンデに着いてもなお、
Iくんが「自慢」しつづけたせいで、
Mくんは、ちょっと不機嫌な感じだった。


リフトに乗る順番も、
先頭のIくんから離れるようにして
Mくんはいちばん最後に乗った。



ゲレンデの中腹。

まずは「ならし」のため、
第3まであるリフトの途中、
第1リフトの頂上からすべることにした。



青々とした空と、
銀色に光る白い雪。


雪化粧をした針葉樹と、
ぐるりと広がる白い山々。



少し上がっただけで、風景がずいぶん変わる。

遠く近く、
景色を見ているだけでも気持ちがいい。



さっそく、両足を板に固定する。

すぐにでもすべり出したいのだけれど。
部活のときに身につけた習慣で、
運動前にはストレッチをするぼくを見て、
Kくんが「えらいね」といっしょに
ストレッチをはじめる。


スケートやスキーでも、
道具をつけてからのストレッチは大事だと
むかし、父に教わった。

Mくんは、
ぼくらを少し見下ろす位置で、
ひとり板を履いていた。


「まだ? みんな遅いね」


いち早く板を履き終えたIくんが、
うれしそうに、板の上で両手を広げた。


4人がすべる準備を整えて。


「じゃあ、先行くよ」


と、Iくんがまっさきにすべりはじめた。

それにつづく感じで、
ぼくらはゆっくり雪に乗った。



初めてのスノーボード。


板に足が固定されている分、
スケボーよりも簡単に感じつつも、
逆に、固定されているからこそ
バランスがむずかしいと思った。



そんなことを思いながら、
頬に風を感じはじめて間もないころ、


「見て、見て、ほら」


と、いう声に顔を向けると、
Iくんのうれしそうな顔がそこにあった。


その、うれしそうな表情が見えたのもつかの間。


次の瞬間、Iくんがぺたりと雪のうえへ
前のめりにたおれた。


本当に、射的でたおした人形みたいに。

いきなりぺたんと前のめりにたおれた。


すべりはじめてほんの2、3秒。

距離にしてほんの2メートルくらいだった。



すべりつづけるぼくらとの距離が
みるみる開いて、
小さくなっていくIくんの姿。


Iくんをふり返りながら、
Kくんとぼくは、
スピードをゆるめて板を止めた。

声をかけられ、気づいたMくんも
その場で止まる。



雪のうえで、
小さく見えるIくんの姿がゆっくり起き上がり、
ゆるゆるとすべり降りて、
ぼくらのもとに近づいてくる。


そのうごきが妙にぎこちなく、
表情もかたく、
顔色もやけに白っぽく見えた。



「どうしたの?」


うかがうぼくに、Iくんが言った。



「手が、動かなくなった」



「どういうこと?」


板をはずし、
歩みよったぼくとKくんに、
Iくんがうつむきながら、ぽつりと言った。


「さっき転んだとき、
 手、ついたからかも」


声も、その表情もひどく無機質で、
うれしそうにはしゃいでいた
さっきまでのIくんとは、
まるで別人のようだった。


「動かないんだったら、
 医者行ったほうがいいかも」


と、Kくん。
彼は、高校時代にラグビーをやっていた。


「どうする? 下まですべれる?」


一点を見つめたままじっと動かないIくんは、
視点をじっと動かさないままで、


「どうしよう」


と、小さな声でぼそりと言った。


右手が動かなくなったIくんは、
片手が使えず、
板から足をはずすこともできない。


いったん板をはずそう、ということになって、
ぼくは、Iくんの足を、板からはずした。


中腹とはいえ、
歩いて行くにはかなり距離があったので、
けっきょく、すべって降りることにした。


Iくんの足に、もう一度、板を履かせて。
ゆっくり気をつけながら、下まですべり降りる。


ぼくとKくんは、ときどきふり返りながら、
Iくんのようすをうかがい、ゆっくりすべった。


初めてのスノーボードなのに。

まるで初心者を先導する
玄人(くろうと)のような感じで、
ぼくらはゆっくりとゲレンデを滑降した。



下まで到着して。


板をはずしたIくんとぼくらは、
医務室へと急いだ。



       ***



「骨折だね」


白衣を着た男性が、Iくんに言った。


「じゃあ、もう、
 すべらないほうがいいんですか?」


Iくんの問いかけに、
白衣の男性が手をふりながらづつける。


「すべるなんて、とんでもない。
 本当なら、いますぐにでも
 病院に行ってもらいたいくらいなんだよ。
 ここでは応急処置しかできないから」


白衣の男性が、どこからきたのかとか、
家は近いか、などいろいろ質問する。


「Iくん、帰ろうか?
 それか病院行く?」


不機嫌だったはずのMくんが、
心配げに言った。


「いや、いい。すべってきてよ。
 1日券、買ったでしょ」


横顔のまま、Iくんが言った。


「どうすんの、Iくんは?」


「車で待ってる」



右手を骨折したIくんは、
「ソフトシーネ」で患部を固定して、
包帯を巻いた腕を三角巾で吊った。


Iくんを駐車場に停めた車まで送ると、
Mくんが車の鍵をIくんに渡した。


「寒かったら暖房つけていいからね」


こくり、うなずくIくん。


「本当にいいの? 病院行かなくて」


Mくんの問いに、
ふたたびIくんがこくりとうなずく。

Mくんは、
トランクから雑誌を何冊か取り出すと、


「ひまだったら読んでいいからね」


と、Iくんの手が届くところにそれを置いた。



ぼくらは、
助手席に座ったIくんと別れて、
ゲレンデに戻った。



そして
「初めての」スノーボードを
存分にすべった。



昼になって。



ぼくらは、Iくんのことが気になって、
ようすを見に行った。
お昼ごはんをいっしょに
食べたかったからだ。


Iくんを乗せた紺色のGOLF。

そのマフラーからは、
白いけむりがもくもくと出ていた。


ぼくらは、
きっと沈んでいるであろうIくんを、
びっくりさせて元気づけてやろうともくろみ、
身をひそめてこっそり車に近づいた。


かがんだ身を起こして、
少しくもった窓ガラスを、
そっとのぞきこむ。


運転席側の窓からのぞいた車内。


助手席に座ったIくんの口もとから、
銀色に輝く光の筋が一本、つうっと垂れてた。


それはすごくきれいな銀色に光っていて、
口もとからのびたそれは、
ガラス細工みたいにまっすぐ繊細な感じで、
まっ白な三角巾の上へとつづいていた。



うつくしいガラス細工のようなよだれを1本、
つうっと垂らして。

Iくんは、眠っていた。



昼下がりの太陽を正面から浴びて、
光輝く1本のよだれと、まっ白な三角巾。


それは静的で、絵画のように、
じっとして動かない風景だった。


ぼくは、その光景が忘れられない。


見つめたのは、
ほんの2、3秒ほどの
ことかもしれないけれど。

その光景は、
いくら言葉を並べ立てても
伝えきれないほどうつくしく、
おごそかな感じがする、
静謐(せいひつ)な景色だった。



そう。


まるで天使が舞い降りてきそうなほど
うつくしいその風景が、
うつくしければうつくしいほど。

遅れてわき上がってきたおかしさを、
増幅させた。



8月のこととか、はしゃぐ姿とか、
ゲレンデに向かう車内でのこととか、
ほんの2メートルくらいで、
こてん、と、こけたこととか。

これまでのことが、
それこそ走馬灯のように
一瞬でよみがえってきて。

ぼくは、
おしっこをちびりそうなくらい、
おかしかった。



こみ上げるおかしさをこらえながら。
ぼくは、助手席から
窓ガラスをこんこんとノックした。


その音に反応したIくん。


寝ぼけ眼のIくんは、
何が何だか分からない感じで、
目は半分閉じたかかったまま、
きょろきょろと素早く左右に首をふって、
半開きの口もとからまっすぐにのびたよだれを
左に右になびかせたあと、
ラーメンみたいな感じで
ずるずるっと勢いよくそれを飲み込んで、
ようやくぼくの姿に気づいた。


その間、わずか1秒ほど。


別に、何でもないことかもしれないけれど。


ぼくの目には、それが色濃く焼きついていて、
ぼくにはそれが、ものすごくおもしろかった。



遅れて車に到着したKくん、Mくんは、
Iくんの、その姿を見ていない。


「Iくんのそんな姿は見たくない」


と。

のちにその話を聞いたMくんは、
そう言って首をふった。


「あのIくんが、
 そんなの、信じられない」


と、Kくんは腕組みした。



ぼくは、2人よりも
Iくんと接する時間が長かったこともあり、
Iくんのいろいろな場面を見てきた。

おっちょこちょいなところも、
調子に乗りやすいところも、
無邪気なところも。


けれども。


あんな立派なよだれは、初めてだった。

まっすぐで、ぴかぴかで、
つららみたいなよだれ。

あんな半目は、初めてだった。

嘘みたいな半目で、
マンガみたいにきょろきょろ左右をうががう姿も。

ふだんのIくんからは想像のつかない、
Iくんらしくない姿だった。


だからこそ、
いいものを見れた気がした。

Iくんの、
ちょっとまぬけな、希少な一面。



お昼ごはんに誘ったのだけれど。
Iくんは「いらない」と言って、
ひとり車に残った。


ぼくらは、3人でお昼を食べて、
そのあと夕方くらいまですべりつづけた。


帰り道のことは、あんまり覚えていない。


ただ後日、Iくんの買った板が、
量販店で大量に
安売りされているのを知ったMくんが、


「本当、
 何回も言おうかと思って、
 言いかけてやめた」


と、言っていたことはよく覚えている。



Iくんの、光を放つまっすぐなよだれ。

まっ白に輝く三角巾。

そのあと見せた、半目のきょろきょろ。


本当は誰よりもうれしくて
はしゃいでいたIくん。


ぼくは、Iくんのお茶目さを、ずっと忘れない。





< 今日の言葉 >


『くるくるバビンチョ パペッピポ
 ヒヤヒヤドキッチョの モーグタン』


 (『まんがはじめて物語』の
      タイムトラベル呪文)