2009/06/29

おしゃべりな亀


最近、特にいろいろな人と話す機会が増えた。
友人や生徒だけでなく、お店の人や通りすがりの人たち。
年齢や世代、職業や業種、性別や考え方の違いなど。
話すほどに、いろいろな人がいることに気づかされる。


通称「狛犬おじさん」と呼ばれる陶芸作家のおじさんが、
「若さの秘訣は?」と聞かれてこう答えたそうだ。

「いろいろな人と話すことだ」

実際「狛犬おじさん」に会って話してみると、
たしかに年齢を超えた「若さ」を感じた。
サンフランシスコ・ジャイアンツの帽子をかぶって、
チョコとバニラのミックスソフトクリームをおいしそうに食べるおじさん。
工房にいる若い女性に、
作業場を「散らかす」ことをいさめられたおじさんは、
まるで少年のような顔で「えへへ」と笑っていた。


奈良に行ったとき、
シカの角(つの)でできたガイコツの数珠を見ていて、

「持っていきなさい。これも何かの縁やから」

と、ずいぶん高価な数珠を思い切って半額にまでまけてくれた「社長」。
どうしようかずうっと迷っているぼくに、
コーヒーキャンディを舐めながら、
ひょうひょうとした感じでそう言った。


呉服屋のおばあちゃんは、
何も買わずに見ているだけのぼくに、
よく冷えたアイスコーヒーと牛乳をふるまってくれた。
おばあちゃんは、大正14年生まれの84歳。
女学生時代の話や、箱根旅行で転んで腰の骨を折ったときのことなどを、
理路整然と話し聞かせてくれた。

おばあちゃんの話しぶりはとても流暢で、
聞いていて自然に絵(情景)が浮かんでくるほどだった。
女学生時代の話も色あせることなく、
さらには「MRI」だの「ヘルペス」だのという医学用語もつらつらと出てくる。

「好きな食べ物は何?」

と聞くと、おばあちゃんは、

「何でもいただくけど、ニンニクだけはご無礼させてもらっとる。
 あと、生クリームも最近はちょっとご無礼させてもらっとる」

と、人差し指で「×」をつくってみせた。
だから、おばあちゃんの誕生日には、
カステラのあいだに「やさしいクリーム」を塗った
手づくりケーキを食べているとのことだ。


タクシーに乗ったとき、運転手さんと話すうちに、

「一人息子を事故で亡くしまして。そのことから妻とも別れまして。
 そういうつらさから逃げるようにして京都を離れてこちらに出てきました」

という、身の上話になったことがある。
終電のなくなった、深夜のタクシーで。
目的地にそろそろ着きそうな頃合いになると、
運転手のおじさんは、話のエンディングに合わせるようにして口調を早め、
代わりにアクセルをゆるめて時速20〜30キロでのろのろと走り出した。
結局、目的地で車を停めてからも、
「間に合わなかった」部分が少し続いた。


同世代の、眼鏡専門店のお兄さんとは、
ガンダムのプラモデルの話や職人さんの話などで、
気づくと2時間近くも話し込んだ。
何ごとにも愛情を持って接するお兄さんの姿勢に、
仕事を越えたプロ意識を感じた。


軒先でタバコを吸っていると、
買い物帰りのおばあさんと目が合った。
こんにちは、と挨拶したことにはじまり、
そのまま30分ほど立ち話をした。
世間話や噂話、ちょっとした愚痴や健康法など。
ほかの人々と同じく、ためになる話を聞かせてくれた。
何よりうれしいことに、ぼくはそのおばさんから
『平成の頑張り屋さん』という「キャッチフレーズ」を付けて(?)もらった。
もし、くじけそうになったら、
このキャッチコピーを思い出して自分を奮い立たせようと思う。


20代の「若い」子たちの悩みや野望。
若いからこそ抱く思いや考え方を聞くもの刺激になる。
くだらない話、へえっと思う話、そうかなあと思う話もある。
どれもおもしろくて、どれひとつ「無駄」な話はない。


「いろいろな人と話すこと」

狛犬おじさんの言う「いろいろ」は、
「たくさんの人」という意味だけでなく、
いろいろな世代や職業、性別や趣味趣向などを含めて
多種多様な人と話す(接する)ことを言っているのでは、と。
「いろいろな人」と話すうちにふとそう思った。

いくら太くても堅い木は折れる。
竹のようにしなやかで、柔軟に。
ブルース・リーもそう言っていた。

若くありたい、と思うことはないけれど。
年を経て「堅く」なるのはうれしくない。
できればやわらかいまま、ずっとガキのままでいたい。
構えず、とどまらず、こだわらず。
まさしく流れる水のようなガキでいたい。


< 今日の言葉 >

 『女性への褒め言葉ベスト5』

・「びっくりしたぁ・・・女優さんが来たかと思った」
・「きみが妖精でも天使でもないのが信じられない」
・「いままでよく花と間違えられて摘まれなかったね」
・「初めて本物の女の人を見たって。そう思ったよ」
・「女性が手本にするくらい、いや、オカマが嫉妬するくらい女らしいよね」
(『イエハラ・ノーツ』2009, May号より)


2009/06/16

風に転がるダンゴムシ


ベランダでタバコを吸っていると、
仰向けになったダンゴムシが脚をもぞもぞと動かしていた。
どうやら裏返ってしまって、元に戻れない様子だった。

助けてあげようと思ったけれど。
それじゃあ、彼(または彼女)のためにならないと思い直し、
そのまましばらく見つめていた。

たくさんの脚を、波のようにわさわさと動かし続けるダンゴムシ。
いくら動かしても地面には届かず、
いっこうに元に戻る気配はない。

もし自分がダンゴムシで、
同じような状況になったらどうするだろう。

遠心力を利用して、右から左に身体を揺らし、
何とか反転することができるだろうか。
それとも、ブレイクダンスのように、
背中を軸にしてコマのように回って、
手(または脚)でつかめるもののそばまで移動するか・・・。

カフカの『変身』に出てくる、グレゴリー・ザムザのように、
朝、目が覚めてみると自分が巨大な虫になっていたら。
それが甲虫ではなく、ダンゴムシだって不思議はない。

そんなことを考えているうちに、
出かける時間がきてしまった。

仰向けになったダンゴムシをそのままに、
タバコを消して家を出た。


2日ほど家を空けて帰宅したあと、
ベランダでタバコを吸った。
いつものように、空を見ながら紫煙を吐き出す。

ふと、足元を見ると、
ベランダに刻まれた溝の中に、
1匹のダンゴムシがいた。

もしや、と思ったぼくは、
うれしくなってかがみ込んだ。
仰向けだったダンゴムシが、元に戻っているのでは、と。


ダンゴムシは、じっとして動かなかった。


ふうっと息を吹きかけても、
ベランダの溝で、音もなく静かに転がるだけだった。

ぼくは悲しくなった。

仰向けだったダンゴムシは、
元に戻ったわけではなく、
そのまま息絶えてしまったようだった。

仰向けのまま、
じっと動かなくなったダンゴムシは、
風に転がってベランダの溝に落ちたのだろう。

裏返ったまま、
ひっそりとベランダの隅で死んだダンゴムシ。
いつごろ息絶えたのか。いつごろあきらめたのか。
最期に彼(または彼女)は何を思ったのか・・・。


よけいなことを思わずに、助ければよかった。

けれど。

ぼくの感じた悲しみも、ぼくの感じた後悔も、
ダンゴムシにとっては無関係なものかもしれない。

ぼくの感じた「教育観」すら、自然の中では無に等しい。


だからぼくは思った。
今度からは、迷わず助けようと。


『丸いものには、カドがない。ダンゴムシでした』
(くさやダンゴムシ)

人の手に助けられたダンゴムシも、
走る車にひかれたダンゴムシも、
それは全部、偶然という運命なのだから。


< 今日の言葉 >

「だったらオレも “イチロー” に改名しようかなあ」
               (なんにも分かっていない人の発言)

2009/06/10

問題児の問題


中学生のころ、学年主任の先生に、

「お前は学校はじまって以来の問題児だ」

と言われた。
ぼくは、その意味がまったく分からなかった。

いまでもよく分からない。


ぼくは『コンバース・オールスター』のハイカットが好きだった。
オールスターの中でも、黒がいちばん好きだった。
オールスターは、小学3年のころ初めて履いて、
それからしばらく履きつづけた。

4年生になり、サッカー部に入った。
シュート練習のしすぎで爪先部分の布が破れると、
また同じ黒いオールスターを買って履いていた。

サッカー部の先輩に、

「バッシュ(バスケットシューズ)履いてサッカーすんなよな」

と言われて。
何となく悔しく思い、みんなの履くような運動靴、
『アシックス・タイガー』を買ってもらった。

余談だけれど。
当時のアシックス・タイガーは、
エルパソとかヒューストンとかバンクーバーとか、
アメリカやカナダや南米の都市の名前がついていた。
ぼくは、バンクーバーという名前の、
ペパーミントグリーンの靴を2回続けて履いた。

さて。
中学に入ると「学校指定靴」というものがあった。
『月星』とか『アキレス』とかの白いデッキシュースで、
いまにして思えばシンプルでなかなか悪くない靴だけれど。
当時はそれが格好悪く思えてしたかなかった。

何より、選択権を奪われて、
人から「これを履け」と指定されたことが我慢ならない。

入学してしばらくすると、
靴箱の中にしまわれた黒のコンバースのハイカットを取り出し、
学校に履いていった。

すると、先生がぼくを呼び止め、
「黒い靴」のことを注意した。

「次に履いてきたら没収だからな」

ええっ、と思いながらも。
小学校を出たての坊主が「大人」に抵抗できるほどの術はなく、
「はい」とも「いいえ」とも言わないまま、
知らないうちに「承知した」ような形で終わった。

下校の時間には、先生に次いで、
「ちょっとやんちゃな」上級生に止められて、
「なまいきだ」というようなことを言われた。

親に買ってもらったお気に入りの靴を、
没収という形で「盗られ」てもかなわないので、
しばらくは学校の「指定した」靴を履くことにした。

先生は「黒い靴」について注意したのだから。
黒じゃなければいいだろうと、
白いコンバースのハイカットを履いていった。

今度は廊下ではなく、職員室に呼び出された。

小学校の職員室にはずいぶん慣れて卒業を迎えたのだけれど。
中学校の職員室にはまだ慣れていなかった。
気のせいでなく、先生たちの顔ぶれもかなり「大人っぽい」ように見えた。

まだ「常連」になる前のぼくにとって、
中学校の職員室は、やくざの事務所のような威圧感があった。

そんなこんなで。
いわゆる「問題児」として「目をつけられた」ぼくは、
気づくと職員室の常連客になっていた。

1年生の先生だけでなく、
2年生や3年生の先生たちにも名前を覚えられた。
名前だけでなく、顔もしっかり覚えらえた。

「おお、こいつが家原の弟か。姉さんとはえらい違いだな」

姉は、勉強だけでなく、体育や音楽、美術もできるという、
ほとんど「オール5」の成績優秀な人だった。

姉のことは尊敬していた。
たしかに、ゲームや遊びでいつも姉に負かされていて、
いつか追いついて追い越してやりたいと思うことはあったけれど。
姉は姉、ぼくはぼく、
姉に対して「劣等感」は持っていなかった。
それなのに。

ぼくは、ぼく以外の人から「劣等感」を与えられた。

「ぼくってやっぱり駄目なんだ」

そう思った。


学生服の下に、お気に入りのシャツを着ていって怒られた。
学生服で見えないからいいと思った。

気に入ったベルトがなくて、サスペンダーをしていって怒られた。

「じゃあ何でMくんはいいんですか?」

そう訊ねると、
太った生徒はいいのだと、先生は言った。
生徒手帳にもそう書いてあった。

ぼくの通っていた中学校は、
当時、男子は「マルガリータ(丸刈り)」が決まりだった。
フランス語でいうところの「ボンズ」。
ボンズ頭も、人から言われると魅力がない。

ボンズの髪を、
ちょっとだけ伸ばしてみたり、色を抜いてみたり。
「反抗」が目的だったわけじゃないので。
できる範囲での、ギリギリのラインを模索した。

そんな、ほんのちょっとした「変化」でも。
目をつけられていたぼくは、すぐに見つかった。

同級生の中に、
リーゼント風の髪の毛を金髪にして、
ものすごく短い学生服を着て、
「ニッカポッカ」みたいに太いズボンを履いている子がいた。

彼は、あまり学校に出てこない。
そんな彼を注意する先生はいなかった。

比較するのもバカらしいけれど。
彼に比べれば、ぼくなんて大したことない。
中坊のぼくは、そんな幼稚な主張をしてみたが。

「あいつはいいんだ」

先生たちは、口をそろえてそう言うだけだった。

いまにして思えば、
それは「あきらめ」という「レッテル」だろう。


ぼくは、学校が好きだった。
学校に行けば部活もあるし、体育も美術もある。
勉強自体は嫌いじゃなかったし、
何より、待合せや約束をしなくても、
毎日みんなと会えるからいい。


だからぼくは、
自分では、ヤンキーでも不良でもないと思っていた。

靴もカバンも文房具も、弁当箱も靴下も。
ただ、自分の気に入ったものだけを持っていたかった。
それだけだった。

いらいないものはいらない。
そんなものは欲しくもない。

そして気づくと「問題児」になっていた。
自分からそうなったのか。
それとも、周りの人がそう決めたのか。
いまとなっては、どっちだったのかも、よく分からない。
まるで「ニワトリが先かタマゴが先か」だ。

高校生になると、

「お前は核だ。悪の中心人物だ」

とまで言われた。
このときはさすがに、
「ええっ」と声に出してのけぞり、びっくりした。


レッテル。

「ラベル」を貼って分類すると、分かりやすいし簡単だ。
分かりやすくカテゴライズすることで、仕事もはかどる。
それは、講師という仕事をさせてもらうようになって、実感した。


問題児や落ちこぼれはいない。
それは「先生」がつくる。


難しい子や閉じている子、
できるのにやらない子、
やってもなかなかできない子。
人の数だけ、いろいろな子がいる。


ラベルは、
人に貼られるものではなく、
自分で貼るものだ。
自分がなりたい自分になればいい。

だから、
自分から落ちこぼれるのも自由だ。

それでも人はラベルを貼りたがる。
熱中する人に「バカ」と貼ったり。
夢見る人に「嘘つき」と貼ったり。

自分の背中に貼られたラベル。
身体が硬くて目の悪いぼくには、
背中のラベルに何て書かれているのか、
はっきり読めない。

「人の批評を気にするくらいなら、最初から何もやるな」

どこかの偉い人が、
そんなようなことを言っていたけれど。

何をやっても不本意なレッテルを貼られるくらいなら、
読めないくらいが、ちょうどいい。


< 今日の言葉 >

うんことちんちんとおっぱいうんことちんちんとおっぱい

(どんなときでもしあわせになれるふしぎなおまじない)