2008/05/30

知能テスト




小学校の頃、
知能テストが好きだった。

通常の授業時間を割いてやる知能テストは、
それだけで特別なもののように感じた。


知能テストの用紙。

それは、いつもの学力テストとは違い、
紙質も上等な感じで、
印刷されている文字や図が緑色だった。

『夏の生活』の青いインクでは、
気持ちも“ブルー”にしか
ならなかったのだけれど。

なぜかその特別な感じの「緑色」には、
気持ちが盛り上がった。


何より、用紙に書かれた
問題そのものが違う。

『このときの主人公の気持ちは
 どうでしたか』とか、
『AとBの面積の和を答えなさい云々・・・』
といった問題ではなく、
パズルのように楽しげな問題が
ずらりと並んでいるのだ。

積み上げられたブロックや、
順番を入れ替えられたゾウやキリンの絵、
バラバラに切り刻まれた三角や四角など。

見ただけでわくわくする問題たちが、
ホッチキスで綴じられた冊子の裏にも表にも、
ずっと続いている。

そんな楽しげな絵や問題が、
いかにも「テスト」といった感じの
真面目な顔つきで書かれているのだから。

なんだろう。

その異質さが、
禁断の果実のような魅力を
かもしていた気もする。

先生や教室のおともだちが、
同じように真面目な顔つきで
背筋を伸ばしているのが
不思議なくらいだった。


「始めっ」


の声とともに、
ページをめくり、問題を解く。

丸くなる鉛筆の先も気にせず、
次々と問題を解いてく。

この爽快感は、
普段の学力テストとは比べようもない。

今思うに。

暗記ものが得意で
計算問題が苦手な僕は、
パズルを解くという喜びを、
算数や数学で味わえなかったからだろう。


「やめっ」


という先生の声に鉛筆を置く。

まだ全部、解き切っていないのに。

まだ見ぬ楽しげな「パズル」を残したまま、
そのセクションは終了である。

早すぎる合図に、
後ろ髪を引かれながらもページをめくる。

次の問題へ移る前にある
『例題』がまたたまらない。

期待感をあおる予告編のように、
僕の好奇心を手招きする。

そしてまた「パズル」を解いていく。

仲間はずれを探したり、
穴にはまる図形を選んだり。

開始と中断を繰り返しながら問題を解き進めていくと、
当然のように残りページが「薄く」なっていく。

これは、1巻から読み続けた長編マンガが
完結へと近づいていく、
あの何とも甘酸っぱい気持ちに似ている。

そして最後の「やめ」の声がかかる。

楽しい、特別なテストはそこまでだ。

次は、いつあるのか。

決まった約束もなくやってくる知能テストは、
次の約束もしてはくれない。

鉛筆を置いて、
午後からは普通の授業へとまた戻る。


知能テストが終わって
何日か経ったある日。

担任の先生に呼び出された。

普段からロクなことをしていない僕は、
どうせまた怒られるのだろうと、
先生の待つ職員室前の廊下に向かった。


「この前の知能テストのことだけど。
 あれ、ちゃんとやった?」


第一声、先生は
探るように尋ねてきた。

どういう意味だろう。

“知能がらみの問題”ってことか? 

僕は心配になった。


どうやら先生は、
僕が「開始」や「やめ」の合図を無視して、
指示どおりにテストを
進めなかったのではないかと
疑っている様子だ。

そんなことはしなかったと告げると
先生は少し黙って、僕に言った。


「検査の結果が出て、
 センターから問い合わせがあってね。
 この子、ちゃんと
 制限時間を守ってやりましたかって。
 そうじゃなきゃ、
 ちょっと驚きの点数がいくつか出てるって・・・」


たしかに後ろ髪は引かれたが、
いちばん前の席の僕はズルもせず、
目の前の先生の指示どおりに進めた。

そのことは、
先生自身も分かっているようだったが。
驚きとも疑いともつかない、
何とも不思議な顔つきで首をひねっていた。

そしてそのあと二度と、
先生は僕にその話をしなかった。


これは決して
自分が「天才少年だった」という話ではない。

人間、集中力が鋭くとがると、
物事の動きがゆっくりに見えたり、
ほんの短時間にいろいろなことが
できてしまったりする。

僕の「知能テスト」も、ある種、
火事場の馬鹿力的なエネルギーが炸裂して、
僕を加速させたのだと思う。


好きなものには
爆発的な集中力を発揮する反面、
嫌いなものには好奇の扉を閉ざしてしまう。

当時、今よりもっと
好き嫌いのかたよりが強かった僕は、
今よりもっと集中力が高かった気がする。


天才少年ではなかった僕は、
クレペリンテストでは間違いばかりで、
集中力が続かなかった。

それはきっと、
録音音声で告げられる、
あの機械的な合図のせいだろう。


いや待てよ。


知能テストを必死で解いた僕は、
違う意味で「驚きの点数」を
たたき出していた、とか・・・。

天才ではなく、
紙一重を隔てた、そっち側の意味で。



(まちがいは3つです)


2008/05/27

あだ名


「石の人」(2008)




「箸休め」という言葉で
急に思い出した。


高校生の頃、
ハンバーガーショップで
バイトしていたときの“同僚”で、


『ハシパン』


というあだ名の男子がいた。


どうして『ハシパン』
なのかと聞くと、


「パンを箸で食べるから」


だそうだ。

・・・今考えても、
何ともストレートで
安直なネーミングだが。

果たしてそれが
あだ名としてふさわしいのかは、
いささか疑問である。




子ども時代のあだ名は、
ときに残酷でもある。


骨折の影響だったか、
鼻がやや平べったい彼は
『ぺっちゃ』と呼ばれていた。


スリッパに書いた名前の「こ」が、
行書のようにつながって
「て」に見えたせいで
『かて』くんと呼ばれたり。


眉毛をはさむように
上下にホクロがある彼が、
『÷(わる)』
というあだ名で呼ばれていたと。

友人からそんな話を聞いたこともある。



今にして思えば、
どれも“揚げ足取り”のようなあだ名で、
最初にそう呼ばれたときの
気分はどんなだったか。

呼ばれた本人以外、
その思いは想像もできない。

変なあだ名を付けた
「名付け親」のことを、
少なからず恨んだかもしれない。

呼ばれるうちに、
それが自分の“呼び名”に
なっていくのだから。


当時(といってもそれほど
大昔ではないが)は、
今より何もかもが「おおらか」で、
今では考えられないような
ことが笑って許された風潮もある。


それでも。


大人になって、結婚して、
子どもができて。



「父さんは昔、
 ドスケベ課長って
 呼ばれていたんだよ」


などと語り聞かせたりは
しないだろう。

(部長や社長でなくて、
 なんで課長なんだ、って聞かれたら困るし)




人は、親しみを込めて
あだ名を付ける。

「Daniel(ダニエル)」のことを
『Dan(ダン)』と呼ぶように。

呼びやすさから
短縮することもあるが、
それがそのまま
親しみに変わるから不思議だ。



一人で歩き出すまでは

友達ができるまでは

ほとんどの名前はオヤジが決める

ニックネームは

他人が決める

(by 甲本ヒロト)



そのとおり。

ニックネームは
「他人」が付けるのだ。


あだ名を付けられることで、
他人との関係が
作られると言ってもいい。


それがどんな関係かは、
何よりそのあだ名が
語っているはずだ。



電子レンジのことを
『チン』と呼ぶのも、
テレビのリモコンのことを
『チャンネル』と呼んだりするのも、
れっきとしたあだ名だろう。


人は「電子レンジ」と
呼ぶときよりも親しみを込めて、
電子レンジのことを
『チン』と呼ぶのだ。


電子レンジで温めて
食べてください

→「チンして食べてね」


家の電子レンジが
壊れました

→「うちのチンが壊れてさー」


昨晩、電子レンジの
夢を見た

→「昨日、おれ、
 チンの夢見てよー」


ほら、どうでしょう? 


親しみがこもって、
ぐっと距離が縮まって
感じるでしょう。




ちなみに僕は
リーダーと呼ばれている。


たいして引っぱるほどの
内容でもないが。


その由来を話すのは、
また別の機会に譲るとしよう。